「昭和史発掘(9)」
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書籍: 文庫(277ページ)
発行: 文藝春秋(1978/11/25)
目次: 二・二六事件 三
  安藤大尉と山口大尉
  二月二十五日夜
この本を入手
安藤輝三
引用安藤の人となりだが、河野司編「二・二六事件」によると、彼は明治三十八年に生れ、 父は事件当時慶応義塾普通部の教員だったという。父の転任につれ少年時代を各地に過す。
宇都宮中学から仙台陸軍幼年学校へ、さらに陸軍士官学校と進んで陸士三十八期生として、 大正十五年卒業して少尉に任官、同時に歩兵第三連隊付となった。 磯部と同期生で、当時の陸士校長は真崎甚三郎であった。
「昭和四年十月、中尉に進み、六年には静岡市の佐野益蔵氏の長女房子と結婚し、輝雄、日出雄の二児をもうけた。 昭和九年八月、大尉に昇進して大隊副官となり、同十年一月に歩兵第三連隊第六中隊長となった。 安藤大尉は、平素、日蓮宗を信じており、硬骨漢であったが情誼に厚く、 部下を愛することは人一倍で、給料のほとんどを部下のためにさいてしまうほどで、 部下の彼によせる尊敬と信頼はまことに強いものがあった。
彼は早くから革新青年将校の指導的立場にあり、 安藤起てば三連隊が動くとまでいわれたほどの期待と信頼を浴びたが、本事件の決行については、 時期、方法等に関しては最後まで磯部村中、栗原、河野等の決行派と意見を異にしていた。 したがって事件の首脳将校中では、蹶起の決意がもっとも遅かった人である。 この安藤が決行へ踏切った時が、二・二六事件の導火線に口火がきられた時であったともいえる。 秩父宮殿下の信任のきわめて厚かった人である」(同書)
安藤が決行へ踏切った時に二・二六事件がはじまった、というのは適切な表現である。
野中四郎
引用野中四郎は明治三十六年、岡山市で父を陸軍少将として生れた。 陸士三十六期生で、同志将校のなかでは最古参である。 少尉任官直後は歩一の連隊付だが、そのあと歩三に転じ、当時は第七中隊長であった。
河野司編「二・二六事件」中の「二十二烈士の横顔」では野中について、
「厳格な軍人の家庭に育った彼の真面目一徹の性格は平素『野中型』といわれるほどの厳正さであった。 また熱烈な国体主義者であったが、直接行動は排撃していた。 しかし社会情勢の変化と緊迫とは、同隊の安藤輝三大尉等の影響も加わって、 ついに彼をして歩兵第三連隊の先導として蹶起せしめた」
と述べ、「改造」の別冊附録(昭和十一年八月一日発行)「二・二六事件」ではこういっている。
「彼の家庭は流石に軍人のそれだけに至つて厳格であつたので、 彼も又性真剣現在佐倉連隊中隊長を勤めて居る次兄野中次郎大尉が陸士在学中下級生たる四郎の敬礼のし方が悪いとて 厳叱したのは有名な話だがこれを見ても如何に厳格な家庭であつたかが覗はれる。 ・・・・・・家庭にある彼は平凡な主人で、常日頃は寝そべつてキング(大衆雑誌)などを読みふけり、 一見叛乱軍などとは凡そ縁のなさそうな人物であつたが、内面には火の如き憂国心を抱いてゐた」(同誌「首謀者列伝」)
野中は、柔順で真面目なので同志の尊敬を受けていたが、皆を率いるという性格ではなかった。 事件中、彼が一応同志の上に立っていたように見られたのは、 彼が年長者の故と先任大尉だったためである。
坂井直
引用坂井直は三重県の生れ、陸士四十四期生である。 少尉になったときから歩三付で、「安藤大尉ヨリ種々薫陶セラルル所アリ」(坂井調書)といっているように 安藤の影響をもっとも受けた。 候補生時代には菅波三郎(当時中尉、歩三)の話をきいていた。 村中孝次は彼の士官学校予科時代、中隊の区隊長であった。 河野司編「二・二六事件」には「秩父宮殿下が歩兵第三連隊に御在勤中は、 連絡将校として、つねに御殿に参上していた。 殿下の御意中をもっともよく知る一人である」(同書「二十二列士の横顔」)と書かれている。 この連絡とは、公用のことではなく、秩父宮と安藤とのパイプ的役割をいう。
山口一太郎
引用山口一太郎は東京の出身、陸士三十三期で、 決行将校中の最年長者野中四郎大尉より三期も上だから彼らの大先輩だった。 同じ歩一連隊のひょうかんな栗原中尉が山口に一目おいていたのは無理もない。 父は山口勝陸軍中将で重砲兵監・第十六師団長(京都)をつとめたことがある。
山口が本庄繁の娘と結婚したのは柳川平助の媒酌による。 父親が柳川か本庄の友人だったかもしれないが、本人の成績優秀が見こまれたからであろう。 山口が、柳川に近かった亀川といっしょになって柳川を担ぎ出そうとした背景が理解される。
山口は中尉で東大理学部(砲工学校員外学生)に入る。 昭和四年歩三八連隊付、同年航空本部員、五年技術本部員、大尉昇進、十年三月歩一連隊付となり、次いで中隊長となった。
山口は砲の着弾距離の測定器ではかなりな技術者で、二重映像合致式のレンズ距離計では、 いくつかの開発があるという。
それで彼は日本光学、日本鋼管、萱場製作所などと連絡があり、 山口の下にいた吉田上等兵の話によると、山口はこれらの軍需会社から小遣い銭ぐらい引出していたふしがあるようだ。 彼が金に困らなかったこと、たとえば、演習から帰る兵隊のために銀座千疋屋の高級な西瓜をふんだんに 用意していたというようなことなどと思い合わせて興味がある。
二・二六事件後、陸軍刑務所内で彼ひとりが冬はストーブのある部屋で兵器製作の設計図を引いていたというのは 彼の技術が買われていたからであろう。
山口が歩一に行ったのは自らの志望だともいわれている。 彼は一年後だかに陸軍から派遣されてフランスに留学する予定だった。 その前を利用して歩一の中隊長勤務になったのだ。
山本又
引用山本又は四十二歳。彼は静岡県賀茂郡仁科村の出身、 大正四年現役志願兵として静岡の連隊に入隊、一兵卒から累進して昭和三年の済南事件(日本軍が中国山東省の済南を 占領した事件。この事件の責任で斎藤瀏少将は予備役編入となる)には特務曹長(准尉)として出征、 同年五月、歩兵少尉とともに現役を退いた。 その後は文部省の中等体操教員養成所を卒業して、府下北多摩郡府中の明星中学の体操教師をしていた。 常に、村中磯部、渋川らと往来し、剣道は四段、熱心な日蓮宗の信者だった。 子供は十四をかしらに四人居た。
大本教
引用京都府綾部と亀岡にある大本教の本部は十年十二月八日に武装警官隊によって 包囲され教主出口王仁三郎(松江市で逮捕)以下の幹部が検挙された。 二月二十五日の全国特高課長会議は、大本教に対する解散命令、関係建物の破壊命令の発動を前にしての 善後策や今後の徹底的弾圧の協議にあった。
大本教は綾部在の農民出口王仁三郎によって創始された神道の新興宗教だが、 明治年間、文盲の大工の寡婦出口ナヲが神がかりの中に書いたカナ文字を「お筆先」としているところは、 天理教の発生とよく似ている。 王仁三郎がナヲの五女スミの婿となって教団を組織したのがだいたい大正の初めで、 それからは全国にわたって年々多数の信者をふやした。 教義は神道その他の神話や教義を導入して成り、混沌としているが、強いて一口にいえば《悪神として 押しこめられていた艮(うしとら)の金神(こんじん)こそ本来のまことの神であって、 この神の信仰によってのみ矛盾にみちた現在の社会はくつがえされ、 信者は現在未来の幸福を得る神の世界をきずくことができる》というにあろう。 信者に「聖師」とよばれた王仁三郎はこの教義を説くために比喩的な「霊界物語」を口述筆記させたが、 この講談調の物語は全八一巻、五万枚(四百字詰原稿用紙)におよぶ大長篇だった。
大正十年、信者十万に発展した大本教は不敬罪其他の罪に問われて弾圧されたが、 内務省は大本教が竹槍や爆弾を貯えて武装蜂起を準備していたと宣伝した。 不敬罪に問われたのは教義が記紀などをなぞらえていたためで、再建後の大本教はこの点を引込め、 もっぱら「霊界物語」を主体とする宣教に移った。 教勢は伸展し、昭和十年には全国に別院や分院が六十四所となり、朝鮮、台湾、満州、シナ、南洋諸島にも支部が置かれ 信者も四十万以上となった。
大本教が軍国色を帯びたのは昭和六年の満州事変後で、 「怪物」王仁三郎は満州、蒙古に入って道教(紅卍教)やラマ教、シベリア方面の回々教(イスラム教)とも提携し、 内地では青年信者による「昭和青年会」を組織した。 問題になったのはこの「昭和青年会」で、最初は若い信者の親睦団体だったのが「非常時」意識によって 宗教的在郷軍人団のような性格を帯び、その制服もカーキ色の開襟、バンド付、丸型帽子となし、挙手の礼をとり、 団体行動も軍隊式訓練にまでなってきた。 総裁に就任した王仁三郎はその閲兵式まがいに分列行進を査閲した。 また別に「昭和坤生会」も組織されて団体訓練がほどこされた。
昭和九年には「昭和神聖会」が新たに出来、その発会式の会場には九段の軍人会館が使用された。 「統管」には王仁三郎、「副統管」には黒竜会の内田良平が就き、頭山満は顧問格となった。
信者四十万人の大本教の年収は、献金や玉串料、出版物の純益などで約二十万五千円ぐらいだった。 内田良平らが大本教に接触してきたのも、この金と、昭和神聖会の大衆組織に魅力を感じたからだといわれている。 その他の右翼方面では下中弥三郎、中谷武世、佐々井一晃、金内良輔らが関係していたという。
大本教がいわゆる「世直し」を教義としていたため、 昭和神聖会は満州事変以後の軍ファッショ的な国内改造思想と結びつくものがあった。 桜会の橋本欣五郎は昭和神聖会に接触し、同会の主催する講演会には現役の軍人が講師として立ち、 政府の英米追従の軟弱方針を攻撃し、国体明徴問題が起ると岡田内閣を追及した。 また、「満州組」の建川美次少将(当時参本作戦部長)、板垣征四郎大佐石原莞爾中佐らの 革新官僚派も大本教ないし昭和神聖会に同情的だといわれ、 同派の青年将校は満州との往復の途次、亀岡に立寄って王仁三郎と面談した。 こうして軍部との連絡が頻繁となると、重臣層や政府筋では大本教を危険視するようになり、 ついには革新軍人(いわゆる反現状維持派のすべて)と提携して武力により国内改造に進もうとする宗教的右翼団体として 弾圧を考えるようになった。 大本教から莫大な金が軍人団体方面、右翼方面に流れているという噂も政府を刺戟した。
そのうち昭和神聖会が賛同者を獲得して国家改造の請願運動を起し、 その方法の一つとして直訴も考えられているという情報が流れた。 唐沢警保局長より特命をうけた京都府特高課長杭迫軍二はかねてから大本教・昭和神聖会の内偵をすすめていたが、 「神聖運動貫徹のために王仁三郎の命令一下、昭和神聖会が五・一五事件以上の犠牲も敢て辞さない行動の動員計画がある」 との報告を得たと称した。
内務省では大本教が軍部を中心とする急進的なファッショ運動と密接な連携をもつ尖鋭な民間運動と判断し、 十年十二月八日に「邪教」の一斉弾圧を行ったのである。
この弾圧の裏には、皇道派急進青年将校に対する重臣層、政府の危機感がある。 かれらに対して軍中央部も傍観し、憲兵隊もなすところがないとすれば、 せめて「革新派」将校と手を組む大本教(その手兵は昭和神聖会)を内務省をして解散せしめ、 側面から青年将校らを牽制するほかはない。 「大本教弾圧の『政治的要請』が、元老、重臣など政界上層部とのふかいつながりのもとにおこなわれていることは あきらかであった」と「大本教七十年史」が述べているのもその意味で間違っていない。
また、別の見方でいえば、政府対軍部、警察対憲兵の対立関係からでもある。
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