「昭和史発掘(11)」
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書籍: 文庫(334ページ)
発行: 文藝春秋(1978/12/25)
目次: 二・二六事件 五
  占拠と戒厳令
  奉勅命令
  崩壊
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伏見宮参内
引用事件をいち早く知ったのは、ほかならぬ軍令部総長の伏見宮である。 亀川から出動直前の信号を聞いた真崎が、電話で加藤寛治に通報し、加藤がこれを伏見宮に電話リレーしたとすれば 午前五時から六時の間であろう。 すなわち決行部隊による各重臣邸の襲撃が行われている最中である。
【中略】 伏見宮加藤の訪問をうけ、つづいて陸相官邸よりまわる真崎の来邸を待った。 三人がそろうと何ごとか相談し、伏見宮は二人を連れて参内した。 午前十時ごろである。その間、伏見宮は軍令部に対して何の命令も指示も出していない。 このときの伏見宮は軍令部総長ではなく、真崎加藤の代弁者となって、昭和維新の大詔渙発を天皇に要請する 一皇族の個人であった。
木戸幸一は、そのときのことを書いている。
「朝、軍令部総長の宮御参内になり、速に内閣を組織せしめらるることと、戒厳令は御発令にならざる様に せられたきこと等の御意見の上申あり、且つ右に対する陛下の御意見を伺はる。 陛下は自分の意見は宮内大臣に話し置けりとの御言葉あり。 殿下より重て宮内大臣に尋ねて宜しきやと御詞ありしに、それは保留するとの御言葉なりし由、 右は武官府の手違いにて、単に情況を御報なさるとの意味にて拝謁を許されたるなり」(「木戸日記」)
この要請に天皇が答えなかったのは伏見宮をいたく失望させたにちがいない。 当てが違ったのである。天皇は直接には返事せず、そのことは宮相(湯浅倉平)に話してあるといい、 では宮相に聞いてもよろしいかと伏見宮がいうのに対し、それは待て、と天皇がいったのは、 間接の拒絶である。伏見宮が叱られたという説はこのへんから起る。 なお、伏見宮の要請した「戒厳令は御発令にならざる様にせられたきこと」とは、 決行将校が要望する性格の戒厳令ではなく、逆に決行部隊を鎮圧するための戒厳令(磯部の書くいわゆる「機関説的」なもの) の意であることはもちろんである。
木戸伏見宮の参内を「武官府の手違い」と書いているのは興味深い。 単なる情況報告かと思って天皇は拝謁を許したのだが、会ってみると右の通りなので、 天皇の不快な様子が見える。武官府の手違いとは暗に本庄武官長の取計いに対する非難である。
引用二十六日午前中までの真崎は、 もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。 彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。
【中略】
真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と 決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。 この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた。
引用二十六日朝以来、天皇本庄を信用しなかったのは、 多分に前宮相の一木喜徳郎枢府議長らの進言もあったようである。 一木は、いうまでもなく「天皇機関説」の憲法学者で、機関説問題が起ると同時に、皇道派から排斥されていた。
広幡皇后宮大夫は、天皇の下問には奉答し得ずとして、「湯浅宮相ニ内大臣ノ気持ニテ奉仕センコトヲ述ベシモ、 宮相ハ政治ニ干与スベキニアラズトテ躊躇」した。
「併シ、宮相ハ事実ニ於テハ、
御上ノ御下問ニモ、勢ヒ奉答スルコトトナリ、又事件発生以来、宮中に起居セル一木前宮相等モ、 裏面的ニ種々奉仕ヲ為スコトトナレリ」(同上)
一木湯浅倉平とがこの事件対策では事実上の天皇のブレーンだったことが分る。 香椎戒厳司令官が親皇道派であることも、この線から天皇は聞いたのかもしれない。
一木天皇の信任が厚かった。 事件発生以来、彼が宮中に泊まりこんでいたのは、天皇からの言葉だった。
「木戸日記」二月二十六日の条。
内大臣薨去せるを以て、差当り枢密院議長に参内を御願することとし、連絡をとる。 午後三時頃、一木枢密院議長は参内せらる。 陛下より議長に対しなるべく側近に居る様にとの意味の御言葉ありし由にて、 組閣の完了する迄内大臣室に宿泊せらる」
したがって内府秘書官長としての木戸幸一一木湯浅の背後にあって、 間接的な天皇の顧問格であった。
秩父宮と安藤、坂井
引用秩父宮は歩三第六中隊長に勤務のころ、 同連隊の安藤大尉や坂井中尉を部下にもち、とくに安藤とは親しく、坂井は両者の連絡係であった。 秩父宮には日ごろから青年将校との接触が噂され、とくに決行部隊に安藤、坂井が加わっていたので、 宮内省でも秩父宮の上京には神経を尖らせた。
28日未明、山口大尉の力説と石原大佐の「颯爽」
引用午前零時すぎ、山口一太郎大尉は柴有時大尉(戸山学校。三十三期で山口と同期)から 午前五時ごろに奉勅命令が下達されて戒厳司令官が占拠部隊を撤退集結させる、という情報を聞いた。 そこで山口は歩一連隊長小藤恵と鈴木貞一大佐とを促してすぐに戒厳司令部に行った。 司令官室で香椎司令官に面会したのが午前三時ごろである。幕僚一同もこの場に参加した。
当時そこに居合わせた戒厳参謀の松村秀逸少佐が、そのときの模様を自著「三宅坂」で書いている。 それによると山口は香椎司令官に向って次のようにいったという。
「今、陸相官邸を出て、陸軍省脇の坂を下り、三宅坂の寺内銅像の前にさしかかると、 バリケードが作ってあった。 半蔵門からイギリス大使館の前にかけて、部隊が屯している。戦車も散見する。
あのバリケードは、何のためのバリケードだろうか? あの部隊は、何のための部隊だろうか? そうして、 物かげにかくれている戦車は、どんな意味だろうか? 聞くところによれば、明朝蹶起部隊の撤退を命じ、 聞きいれなければ、これを攻撃されるという。
蹶起部隊は、腐敗せる日本に最後の止めを刺した首相官邸を、神聖なる聖地と考えて、 ここを占拠しておるのである。そうして、昭和維新の大業につくことを要望しておるのに、 彼等を分散せしめて、聖地と信じておる場所から撤退せしむるというのは、どういうわけであろうか。
しかも、同部隊は既に小藤部隊に編入され、警備に任じておるのに、 わざわざ皇軍相撃つような事態を惹き起そうというのは、一体、どういうわけであろうか。
皇軍相撃つということは、日本の不幸、これより大なるはない。 同じ陛下の赤子である。皇敵を撃つべき日本の軍隊が、銃砲火を相交えて、互いに殺戮しあうなどということが、 許さるべきことであろうか。
今や、蹶起将校を処罰する前に、この日本を如何に導くかを、考慮すべき秋である。
昭和維新の黎明は近づいている。 しかも、その功労者ともいうべき皇道絶対の蹶起部隊を、名づけて叛乱軍とは、何ということであろう。 どうか、皇軍相撃つ最大の不祥事は、未然に防いで頂きたい。 奉勅命令の実施は、無期延期として頂きたい」
こうした「声涙共に下る」山口大尉の発言のあとの様子について「三宅坂」は語る。
「森閑とした真夜中、場面が場面だけに心打つものがあり、真打としての彼の発言は、 効果百パーセントかの如く見えた。
その間、香椎さんは、呼リンを押して、ボーイを呼び、茶菓を運ばせ、 しきりに山口にその茶菓をすすめて、興奮した空気をやわらげることに、努めておられたのを思い出す。 そうして、『まだ、攻撃に確定したわけではない』などと、口ごもった言葉で、発言されたこともあった。
水を打ったような静寂の中で、山口は、一語、また一語、力をこめて、どうしてでも、 同意させずにはおかないという気魄が、面に溢れていた。 一座は、緊張した顔で傾聴していた。 時余にわたって、説き去り説き来って、進言は終った。 誰も発言する者もなく、死のように重苦しい空気が、この部屋を支配した。
突然、大きなテーブルのはしの方に居った石原さんが、立上った。 静かな声で『直ちに攻撃。命令受領者集れ』と言い残して、そのまま、部屋を出た。 それからドアーの前で、各隊の連絡者に向って、『軍は、本二十八日正午を期して、 総攻撃を開始し、叛乱軍を全滅せんとす』つづいて爆撃隊の出動、重砲の砲撃、地上部隊の攻撃要領等について、 落着いた調子で、整然と戒厳命令を口達した。
命令の下達を終った石原さんは、側にいた小藤大佐と満井中佐を顧みて、
『奉勅命令が下ったのですぞ、御覧の通り、部隊の集結は終り、攻撃準備は完了した。 飛行機も、戦車も、重砲も参加します。 降参すればよし、然らざれば、殲滅する旨を、ハッキリと御伝え下さい。大事な軍使の役目です、さァ行って下さい』
左右の手で、両軍使の首スジをつかまえて、階段の降り口の方へ押しやった。 私は、この様子を司令官室を出て、ドアーの側に立って見ていたのだが、 世に言う『颯爽』という言葉は、この時の石原さんをさすのだと思った。 波瀾と混乱の中にあって、少しも目標を見失わず、テキパキと処理して行くことは、石原さんのハマリ役であった」
栗原、山口の抱擁
引用磯部は、柴大尉といっしょに戒厳司令部から陸相官邸に戻った。
「陸軍大臣官邸に同志を探して一室に突入するや『オーイ、一体どうすると言ふのだ。 今引いたら大変になるぞ、絶対に引けないぞ』と大声一番する」(「行動記」)
一室には、山下奉文鈴木貞一、山口一太郎と、村中、香田、野中、栗原等がいた。 村中、香田は 【中略】 第一師団司令部で堀師団長の激励をうけ帰っていたのである。
磯部が皆の態度を見ると、すでに「退去を決定している様子」である。 磯部は一応理由をいって、決戦的態度であくまで頑張るべしと主張した。 それで、もう一度、よく相談しようということになり、山下鈴木とが去ったのち、山口を交えて六人で協議した。
この時、栗原が、
「統帥系統を通じてもう一度お上にお伺い申上げようではないか。 奉勅命令が出るとか出ないとかいうが、一向わけが分らん。 お伺い申上げた上で、われわれの進退を決しよう。 もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。 自決するときには勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなれば幸せではないか」
との意見を出した。
磯部は書く。
「余が一寸理解し兼ねて質問を発しようとした時、山口氏が突然大声をあげて泣きつつ、 『栗原、貴様はえらい』と言ひて栗原の傍に至り、相擁す。栗原も泣く、香田も泣く。 統帥系統を通じて(原注。小藤、堀、香椎)御上に吾人の真精神を奏上し、お伺ひをすると言ふ方針は、 此の際極めて当を得たものと感じたので、余は『ヨカラウ、其れで進まう』といふ。
茲において山下鈴木両氏に栗原の意見を開陳せる所、両氏も亦落涙して、 有難うと言ひつつ我等に握手する。 この時、堀、小藤来り、奉勅命令は近く下る情況にあるのだから引いて呉れ、と涙にて勧告する」
渋川善助
引用彼は会津若松市の大きな海産物問屋の長男で、 陸軍士官学校予科卒業のときは恩賜の銀時計をもらった。 本科在学中に上官と衝突して退校、明治大学法科に入り、卒業後は満川亀太郎の興亜塾や敬天塾などに関係、 西田税らを知るようになった。
「埼玉青年挺身隊事件」では、栗原中尉や水上源一の線で取調べをうけたこともある。 昭和九年に統天塾(塾頭、藤村又彦。大同倶楽部の分派)の百田勝が高樹町郵便局に拳銃をもって押入ったが、 この拳銃は渋川が貸したものだという理由で起訴され、保釈中は大森一声の直心道場に起居し、 妻もそこに呼びよせていた。 相沢公判では、村中孝次とともに機関紙「大眼目」に公判の経過を執筆、 また青年将校の会合に出席して公判報告をしていた
決起将校の屈伏
引用幹部の屈伏は、兵隊どうしの殺戮はあり得ぬと最後まで信じていたのが破れたことだ。 軍中央部は「皇軍相撃」までは決断しないだろう、出来るわけがないという確信が、 絶対優勢の包囲軍を前にして彼らが一歩も退かなかった理由だ。 「撤去すれば敗北」と磯部らが主張し、が電話で必死に説く所以である。
その予想が崩れて、包囲軍は「奉勅命令」をかざし、戦車を先頭に突込んでくる。 だまして連れ出した千数百名の下士官兵をみすみす殺すことになる。 これが決行幹部を恐怖させた。 「兵が可哀想」ということもある。 しかし、無辜の多数の兵を殺してしまっては、「昭和維新の捨石」も何もあったものではない。 彼らに国民の怨嗟と憎悪が集中するだけである。 大義名分は泥に落ち、「後続の維新運動」も息の根を絶たれる。
これが屈伏に至る主たる原因である。
自決強要
引用官邸内にいる決行将校には戒厳司令部からの命令で武装解除が行われたが、 これを一同に達したのは矢野機憲兵司令官代理の命をうけた憲兵司令部附の山村義雄大尉だった。 将校たちは黙々と自らの武装を解いて丸腰となった。 憲兵は自決用に「机の上に武装を整え、何時でも自由に拳銃や軍刀を執ることが出来るように」した、 と福本亀治(当時は憲兵隊特高課長)は自著「秘録二・二六事件真相史」にかいている。 だが、だれ一人として拳銃や軍刀を取ろうとする者はなかった。
一方、軍首脳部でも『全員自決』を必然的なものと予定し、第一衛戍病院から数名の看護兵が脱脂綿や消毒薬など準備して 陸相官邸に急行していた。死後の手当を施すためだ。 また会議室の大広間には三十余の『棺桶』も準備された」(右書)
この見えすいた自決強要に将校たちは反撥し、自決をとりやめ、公判闘争にきりかえた。
「多数同志は自決する決心で陸軍省に集り、各々遺書等を認めたのであったが、 当局者の『死ね、死んでしまへ』と言つた様な、残酷な態度に反感を抱き、心持一転して自殺を思ひ止る。
陸軍省では自決の為に、白木綿なぞ前以て準備してゐた」(磯部「行動記」)
ここに奇怪なのは山下奉文の態度だ。 彼は叛乱軍の状勢がいいときは彼らの側に立ち、不利になると軍首脳部の意をうけて自決強要に一役買っている。 しかも、いつの場合でも決して責任をとるような無駄口はきかぬ。 座談の放言とは別人のようである。 清原少尉が官邸に入ったとき、廊下に立っていた山下が「どうするか」と清原にきき、 「自決します」という返事を耳にするや否や「よし、そっちへ行け」と自決の部屋を指ざしたという挿話は、 いかにも山下の奸黠を表わしている。
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