「昭和史発掘(13)」
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書籍: 文庫(241ページ)
発行: 文藝春秋(1979/01/25)
目次: 二・二六事件 七
  判決
  終章
解説にかえて
この本を入手
引用「【中略】 執行前夜は零時頃就寝、朝三時に起床直に室内の清潔整頓を為し、朝食を終り、 遺言其の他書きものを点検し、
『これでよし』
と整頓し、次で猪股定豊氏差入れの仏像に対し観音経を読誦し、なお、『尊皇絶対』と画仙紙に大書し、 その左脇下に『昭和十一年七月三日午前四時三十五分於宇田川、相沢三郎絶筆』と認め、
『私はいつでも宜しくあります。時間を与えて頂き有難う御座いました。 お蔭で私のすることは一切片づきました。家内の編んだ腹巻を着けて行くことをお願いします』と、 取りも直さず死刑執行の催促である。言語についても大層叮嚀で、入所当時とは別人のようであった」
手塚手記は、次に相沢の死刑執行の段階を述べる。
「七月三日午前四時四十八分、相沢を出房させたのだが、房前二十数メートルの廊下を言渡所に控えていた私を見かけ、 付添の看守の指図も余所に、突然駈け出し速歩で嬉しそうな身振りで私の前に来り、 にこにこ微笑を含んで叮嚀に謝辞を述べ、傍らの検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ちつき払った態度であった。 それより医官の健康診断を行い、次で執行言渡をなしたのである。
遺言の始末や領置物品の処置や、申し残すことの有無など訊ねたが、前夜より用意周到に、 死後一切のことを処理してあることとて、
『何もありません、色々お世話になりました。お蔭で健康でありました。 皆様によろしく、刑場へ行く途中で、遥拝をさして頂きます」
とのことで遥拝所へ護送した。 大声で『天皇陛下万歳』を三唱した。この音声で、一般被告人、受刑者等は起床前なるも大半は起床したのであった。
これより刑場への護送中、目隠しをするのであるが、武魂烈々などと常に言っていた相沢の気性から推し、 屹度目隠しを拒むのではないかと考え、前に看守長に下記のような方法でやるよう命じて置いた。 第一『断りたるときは規則だから』と、尚遠慮したら『射手が困る』と告げろと。
果して相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶する。 規則だからと言えば私に限りその必要はありませんという。『射手が困ります』といえば、
『射手が困る、それではやりましょう』
と柔順に目隠しをなし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』
といって、悠々刑架に就き平然と少量の水を含み執行を受けたのである」
刑架は、十字架で、これに処刑者を縛りつけた。 ただし、下は地面に膝を折って坐るようになっている。 塚本メモは「銃殺、死体処置其他総て二・二六事件執行者と同様であるから略す」と書いているので、 相沢の処刑場が刑務所の煉瓦塀を前面にして壕を掘り、壕の奥深くに右の十字架が立てられてあったことが分る。
国本社解散
引用国本社は、大正九年ごろ興国自治会の名で創立されたのが十三年に平沼騏一郎の 会長就任によって国本社と改称し、陸海軍将官、司法官首脳部、その他中堅的人物を主要会員とするようになり、 勢力は著しく発展し、昭和十二年末には全国三十九支部、会員数約一万八千人になっていた。 この会は「平沼の国本社」といわれたように、国家主義的な性格の上に政治的な意味が多分に加えられていた。
ところが十一年三月、平沼がその待望する枢密院議長になって会長を辞めたので、 会はまったくその存在の意義を喪失することとなった。 そこで理事竹内賀久治らは、本会は平沼を中心としてきたのだが同人の会長辞任後はその存続の要を認めずとし 「加之時勢モ亦一変シ」て会の創立当時の使命は終った、という決議文を発表、 ここに十数年の歴史をもった国本社は解散した。
もっとも、この会の理事には真崎甚三郎荒木貞夫加藤寛治、小笠原長生など叛乱事件に関連のふかい人物が 名を連ねていたのも解散に踏み切らせた原因の一つだったかもしれない。
東京陸軍軍法会議法廷
引用磯部の遺書は、痛憤、遺恨、怨念、同志将校への懺悔に満ちている。
ここで仙台発見のB遺書のうち、裁判関係の部分を出す。 この遺書は単行本に収録されてなく、雑誌掲載のままだから散逸のおそれもあるので、なるべく長く引用する。 (註。46年2月現在。その後、この遺書は河野司編「二・二六事件」改訂版に収録された)
「裁判長石本(寅三大佐)は充分に陳述をさせると云ひたるも一向に訊問要領は改めてくれない 無茶苦茶な断圧訊問だ  同志は怒り出した、天皇の法庭はけがされた、法治国日本とはコレカ、天皇の御徳をキヅツケる奴等だ、 コの断圧圧制は何タル暴挙ぞ、等々口口に怒を発した、 渋(渋川)君アタリは涙して怒つて遂ひに裁判長に向つて異議を申入れた
『裁判長殿 裁判官ハ吾々を始めから叛乱罪と云ふ型の中に入れようとしてしらべて居られるが それは何たる事ですか そんな出タラメな事をすると云ふことは陛下の御徳をけがすものです』
と云つて突込んだ所が藤井法ム官は怒声一番 渋川御前は引込んでゐろ、 今は御前にキイテゐるのではない 引込んでいろと云つて渋川の言を頭から圧しようとする 同志は 歯をくひしばつて悲憤する 対馬(勝雄)立ちて裁判長に発言の許可を得て コンナ裁判は早く片ヅケて下さい と云ふ  安田(優)立ちて どうせきまつてゐる公判なんか早くヤメテ下さいと云ふ、渋川又願はんとしたるも 裁判長石本さへぎりて発言を許さず 余は黙して怒りを圧してゐた 安ド(藤)も余程シヤクにさはりたる様子
休ケイ時間になつたら皆のものが一時に憤激を発した、 安ドの如きは ヱヱツシヤクにさはるとびついて行つて斬つてやりたい、と云ふ 丹生(誠忠)又憤る、
公判廷はワイワイのさわぎダ 余ハシヤクにさはつて文句が出なかつた、どうしてコレカラ公判に対シタライイカ  ドウシタラ同志の志を明かに出来るか そして我等はタスカルカと云ふことを考へ出して非常にユウウツになつた」
引用磯部は、いまは恨みつらみの真崎と予審廷で対決することになった。
真崎とは七月十日に対決した。真崎は余に国士になれと云ひて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であつた、 余は国士になるを欲しない如何に極悪非道と思はれてもいいから主義を貫徹したいのだ だから真崎の言は馬鹿らしくきこえた、 余は真崎に云つた、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ閣下はその間の事情を 知つてゐる筈だから純真なる青年将校の為に告示(大臣告示)発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かにして下さい  これによつて同志は救われるのです 閣下は逃げを張つてはいけない青年将校は閣下を唯一のたよりにしてゐるのだ  故に軍内部の事情を青年将校の為めにバクロして下さいと願つて簡短に引きあげさせられた
予審官? たる藤井(註。喜一。法務官)は余の論鋒をおそれてオロオロしてゐた、 余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない」
磯部と対決した真崎は、いきなり磯部に「国士になれ」と叫んだ。 「国士」とは国の為に一身を犠牲にする高邁な精神の持主である。 されば他に迷惑をかける言辞をなすべきではなく、すべては自己の肚の中に納めよ、という訓戒の意で、 真崎磯部の口を封じようとした。
しかし、ここでは、予備役陸軍大将が元主計大尉を前にしてリスのように臆している。 「閣下は逃げを張つてはいけない」と元主計大尉が、台湾軍司令官、参謀次長、教育総監の要職を歴任した 前軍事参議官陸軍大将を追及し、恫喝しているのである。 青年将校らの決行を煽動して而も言質を与えず、その予知せる蹶起を待って風雲に乗じかけたが情勢不利を見て 途中で身を翻した「性佞智」(東京憲兵隊の表現)なる大将は、曾つてその利用せんとした元一等主計に追い詰められ、 畏怖悚慄しているのである。
藤井法務官は大将の不覚な崩壊から軍上層部の「不始末」が口走られることに怯え、 磯部の対質をいそいで切り上げさせたのであった。
粛軍演説
引用五・一五事件二・二六事件に対する国民反応の主な差違の一つは、 将校だけが行動したことと、将校が兵を道連れにしたこととの相違にある。
国民の軍部への憤懣を代表したのが、昭和十一年五月七日、第六九回特別帝国議会衆議院本会議での斎藤隆夫代議士寺内陸相に対する質問演説である。 斎藤は民政党の中堅で弁論の闘士として知られていた。
「社説」でも記事でも軍部に思うようにモノが云えなかった新聞は、 この斎藤質問演説を「真摯大胆にその言はんとする所を言ひ、粛軍の大義を宣明したものとして満場嵐の如き拍手裡に 深刻なる感銘を与へた。・・・・・・単に無責任なる批判乃至は放言に堕せず、言々句々粛軍の大義を説いて 陸相に詰め寄つた」とし、「議場は一種の悽愴味を呈し、異常なる緊張を呈した」と報道した。(朝日新聞)
「議場の嵐の如き拍手」は、 議員が言わんとして言い得ないでいることが斎藤の口から出たのに対する心からの賛同であった。 いわゆる他に凭って溜飲を下げたもの。 国民もまた新聞に載った斎藤演説の要旨に感動した。
議会での演説が万雷の拍手で議場を震わせたのは、前年二月二十五日、貴族院で行われた美濃部達吉の 「天皇機関説」演説以来である。
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