「夕陽と怒濤 ― 小説・松岡洋右 ―
参考書籍
著者: 三好徹(みよし・とおる)
発行: 文藝春秋(1986/04/25)
書籍: 文庫(422ページ)
定価: 480円(?)
初版: 光文社(1980/11)
補足情報:
“外交”によって戦争は回避できると信じた男。 「国際連盟」脱退「日独伊三国同盟」締結「日ソ中立条約」調印の立役者・松岡洋右である。 しかし、その彼の外交手腕を裏切ったものは、常に“日本的な何か”だった。 第一次大戦後から第二次大戦開戦までをみつめつつ、悲劇の外交官、松岡の痛恨を抉る傑作伝記小説。(裏表紙)
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日中戦争の伏線としての対華21ヵ条
引用一九一五年一月、日本は中華民国大総統袁世凱に対して、二十一ヵ条の要求をつきつけた。 山東におけるドイツの権益処分、南満州の既得権益を二十五年から九十九年に延長、中国の政治、財政、軍事に日本人を顧問とする、 必要な地方における警察を日華合同とするなどという途方もない要求だった。
この二十一ヵ条要求は、大隈重信内閣によるものだったが、日本と中国との不幸な関係は、 じつはこのときに始まったといっていいのである。 この二十一ヵ条要求ほど、心ある中国人を憤激させたものはなかったし、それが二十数年後の戦争の伏線ともなったのだ。
松岡洋右のアメリカ人観
引用一九四五年、つまり日本が戦争に負けてのちのある日、松岡のもとに出入りしていた新聞記者が、
「アメリカ人とは、どういう人間か」
と質問した。
これから日本へ進駐してくるアメリカ人について、正しい認識をもっているものが、ほとんどいなかったのである。
松岡は、結核で寝こんでいたが、この質問をうけると、ちょっと考えてから、次のようにいった。
「野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。
きみがこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。 野原のまんなかで、きみたちは鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。
そうやってしばらく、互いに睨みあっているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、 げんこをかためてポカンときみの横っつらをなぐってくるよ。
さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ。 この次からは、そんな道で行き会えば、彼は必ずものもいわずになぐってくる。 それが一番効果的な解決手段だと思うわけだ。
しかし、その一回目に、きみがへこたれないで、何くそッと相手をなぐりかえしてやるのだ。 するとアメリカ人はびっくりしてきみを見なおすんだ。 おやおや、こいつは、ちょっといけるヤツだ、というわけだな。 そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる」
引用このころ、清朝政府は鉄道の国有化を推し進めようとしていた。 狙いは、国有化したのち外国へ敷設権を売り渡して借款を得ようというのである。 この主唱者は盛宣懐という人物で、彼は李鴻章の引き立てで出世し、汚職の限りをつくして財をたくわえた。 その金で買った蘇州の留園は天下の名園として知られているが、さきごろ筆者が中国を訪れたときにも案内されている。 もっとも、筆者には、どうして名園なのか、さっぱりわからなかった。 成金的な悪趣味の庭園にしか感じられなかったが・・・・・・。
盛はこの年の五月に成立した慶親王政権に郵便部尚書(大臣)として入閣した。 それ以前に、武漢に本社のある漢冶萍煤鉄廠公司を設立しており、この会社は日本の八幡製鉄に鉄鉱石を売ることになっていた。 盛にしてみれば、鉄道を国有化することは、自分の会社の製品輸送の上で大いに有利になるのである。
日本はこうした動きに対して、決して無関係ではなかった。 漢冶萍公司に対して、製鉄資源を確保するために、巨額の融資をしていた。 金を貸したのは、横浜正金銀行であるが、正金銀行は預金部資金(つまり国民の郵便貯金である)から借りて調達したのである。
盛の狙いは、主として粤漢鉄道(広東−漢口)と川漢鉄道(四川−漢口)にあった。 これを握って、米、英、独、仏の四国借款団と取引しようというのである。
これに対して、各地方の郷土資本家や商人たちが反対し、保路(路はレールの意)運動が起こった。
なかでも、四川省のそれは激しかった。 というのは、国有化にあたって、それまでの川漢鉄道の株主に対して、現金で払わずに、六割を無利息公債で、 残りは、収益のあるときに償還する、というひどい条件を盛が押しつけたからだった。
四川省の場合、反対運動が広く盛り上がったのは、株主の中に、多くの農民がまじっていたからだった。 といっても、農民が金持ちだったわけではない。 かれらは、租税の形で上から出資を強制されていたのである。 つまり、税金同様に取り立てられた金が、六割が無利息公債で、残りは、儲けがあったら払うといわれては、 怒るのが当たりまえであった。 公債などというものが、絶対に当てにならぬものであることは、過去の例からみてもはっきりしていた。
四川省の各地で、大衆集会がひらかれた。
鉄道は、近代国家にとって、人間のからだの動脈にも相当するものである。 清朝やその走狗となっている盛ら腐った役人たちは、自分たちの利益のために、この大事なものを外国資本に渡そうとしていたのだ。
政府の命令で、四川総督は軍隊を動員し、デモ隊に発砲して、リーダーを逮捕した。 保路の同志会は、ただちに檄をとばして、武装蜂起に入り、これに農民、労働者も参加して、その兵力は十数万となり、 成都めざして進撃した。
清朝政府は、武漢を本拠にしている湖北新軍に対して出動を命じた。 湖北新軍は兵力約一万五千人である。 すべて漢人であり、その約三分の一が、このころには、文学社、共進会という革命組織にひそかに加わっていた。
武漢は、武昌、漢口、漢陽に三都市から成り立っている。 新軍は、武昌城内に駐屯していた。
十月九日、漢口の租界内にあった共進会のアジトで、数人の男が爆裂弾を密造中、爆発が起こった。 不用意にも、一人がくわえタバコで入ってきて、その灰が落ちたせいであった。
租界警察が出動して、男たちを逮捕し、同時に家宅捜索を行なった。 すると武器のほかに宣言文や革命軍用の軍票まで発見された。
通報をうけた湖広総督瑞澂は戒厳令を発した。 そして、武昌城内にあった革命組織のアジトを急襲し、三十数人をつかまえると、 翌朝には、そのうちの三人を都督の役所の前で斬首刑にした。
新軍内の革命派はすっかり動揺した。 会員名簿が押収されたという噂もあるので、事は急を要した。
革命派の一人に、陶啓元という兵士がいた。 陶啓元の兄の陶啓勝は、新軍の小隊長をつとめていたが、この男は、革命派とは関係なかった。
弟は、革命派の司令部から十日の夜に決起せよという指令をうけとった。 そうなれば、兄を殺さねばならない。
骨肉の情にひかれて、弟は兄にそれとなく忠告した。
「今夜は兵営にいない方がいいよ」
兄は、この一言を聞き咎めた。 暴発事件やそれにつぐ処刑で、革命派蜂起の噂がすでに流れていたのである。
兄は弟を問いつめて、ついに革命派に加わっていたことを告白させた。 そして、自分の部下の金兆竜もやはり一味に加わっていることを知った。
陶啓勝は、すぐさま金の逮捕に向かった。
金は激しく抵抗し、仲間の一人、程定国に叫んだ。
「そいつをやっつけろ!」
程は銃をとって小隊長をなぐりつけた。 陶啓勝は声をあげながら逃げ出した。 その後ろ姿に程は照準を定め、引き金を引いた。 一九一一年十月十日の午後七時すぎであった。 数千年の歴史をもった中国帝政に幕を引いた辛亥革命は、この一発の銃声によってはじまったのである。
大倉喜八郎
引用大倉は戊辰戦争以来、硝煙の立ちこめるところには必ず姿をあらわし、そのことによって財をなした。
三好徹の日本外交観
引用明治以後の日本において、はたして外交というものがあったのだろうか。 筆者が生まれたのは一九三一年(昭和六年)だが、ものごころついたのは戦後であり、その戦後三十余年の長い期間をとって考えてみると、 日本における最大の外交事件は、講和条約や日米安保の締結ではなく、あるいは、日中国交回復でもなく、 あえていうなら金大中事件だったであろう。
戦った国同士の間に、条約が結ばれるのは、いってみれば、歴史の流れにおける当然の帰結といっていいい。 多くの障害はあってもやがて垣根が取り除かれるものであり、外交が介在するのは、 極端なことをいうなら技術的な面においてであるにすぎない。 いいかえれば、理念があれば、外交は技術的な巧拙だけの問題になる。
だが、この三十年、日本の外交において、理念と呼べるほどのものはなかった。 いま日本の外交の基本とされている日米協力とか国連中心外交などというのは、理念でも何でもない。 あえていうなら、理念とは別の、たんなる姿勢でしかない。 なぜなら、日本が、戦後、国連に加盟を許されたころ、外交の当局者は、ネコもシャクシも国連中心外交を声高らかに叫んだ。 が、二十年たったいまでは、それは、おざなりにしか口にされない。 理念ではなく、姿勢でしかないから、時間の動きにつれて、たっている人が腰かけるように変わってくる。
金大中事件は、その恰好の見本である。 外交において理念がないのだから、どうやって形をとりつくろうかの技術だけの問題とみなされ、 その技術においてさえも、拙劣だったから、政治決着というもっともまずい形での処理となった。 いいかえれば、小手先の処理をする外交官はいても、理念をもった外交家といえる人物に欠けていたのである。
いったい、われわれは外交というものに不向きな民族なのだろうか。
引用内田は熊本藩の名門出身で帝大を卒業後、すぐに外務省入りした。 ワシントン公使館勤務時代に公使の陸奥宗光に目をかけられ、以後、陸奥の直系として外交界に重きをなした。 外相は、生涯に何度もつとめたが、彼が今日、人びとの記憶に残っているのは、焦土外交の一言によってである。
引用チェコ人は、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されて以来、たえず独立を企ててきたが、 第一次大戦の勃発は、かれらにとっては、またとないチャンスだった。 ロシア領内のチェコ人は、約五万人のチェコ軍団を結成し、ロシア軍の一隊として、対独戦に加わった。
ところが、ロシアの主権者が変わって、ドイツと戦うことをやめてしまったのである。 チェコ軍団の立場は、すこぶる奇妙なものになった。 チェコ人たちは、あくまでもドイツとの戦いを望んだ。 そこで、シベリアを横断してそこから船でフランスへ行き、あくまでも連合国側に立って戦うことを決め、 ソビエト政権もそれを認めた。
しかし、五万人の大兵力は、反革命派にとっては、大きな魅力であった。 フランスまで行ってドイツと戦うよりも、このままロシアにとどまって、ソビエト政権を倒した方が、 チェコ独立のためには、はるかに有効ではないか。 つまり、ソビエト政権が倒れて、対独戦が再開され、それに勝てば、自然とチェコの独立は達成される、という考え方である。 また、チェコ軍団がそのように動いてくれれば、連合国軍にとっても、都合がいい。
チェコ軍は、いったんウラジオストックまで到着したにもかかわらず、再び鉾先を西へ転じた。
こうなると、連合国側としては、チェコ軍団支援を名目に出兵する口実が生まれた。 とくにイギリスとフランスは、東部戦線が再び火をふき、ドイツ軍の力が二分されることを望んだ。
イギリスは、一九一八年一月に、日本政府に、ウラジオストックの軍需物資確保を名目に、共同出兵を提案してきた。 日本は、一月十二日に軍艦二隻を居留民保護のために送るにとどめた。
イギリスはアメリカに働きかけ、シベリア出兵を説得したが、 ウィルソン大統領は、はじめはこの提案を拒否した。 しかし、そのウィルソンも、フランスの特使としてやってきた哲学者ベルグソンの熱弁を聞いて考え方をかえ、 目的をチェコ軍の救援に限定して、地域もウラジオストックに限るとして、日米両国がそれぞれ七千人を派兵することを、 日本政府に提案するに至った。
軍部はもちろんシベリア出兵に乗り気だった。 いかなる名目であれ、シベリアを占領しておくことは、軍事上防衛上、有利であるとみなしていたのである。
引用南京事件は、三月二十四日に起きた。
この日の早朝、革命軍は北軍を追って南京に進駐してきた。 そのさい、一部兵士が各国の領事館を襲い、イギリスやアメリカの場合は、宣教師が殺された。 日本領事館では、海軍陸戦隊が荒木亀雄大尉の指揮で守っていたが、その数はわずか九名。 森岡正平総領事の意向もあって、無抵抗主義をとっていたが、木村署長が撃たれ、館内は略奪され、 避難していた在留邦人が暴行をうけた。 このため、荒木はのちに自決するという事件まで起きた。
イギリス、アメリカの軍艦は、南京城内に砲撃を加えた。このため、約二千人が死傷した。
四月十一日、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの五ヵ国は、中国側に、責任者の処罰、 被害の補償、文書による謝罪と将来の保証を求める通牒をつきつけたが、問題は、この通牒をつきつける相手がどちらか ―武漢政府か蒋介石か、であった。
また、中国側からすると、略奪暴行をはたらいた真犯人は誰か、である。
武漢政府の外交部長陳友仁は、英米の南京砲撃に抗議する文書の中で、これは、 反動派や反革命派が北軍の敗残兵とならず者を扇動してやらせたものだ、といっている。 もしそうだとすると、革命軍は責任がないことになる。
一方、蒋介石は、部隊中の共産分子がわざと事件を起こして、列強を怒らせて、自分を窮地に陥れようとしたのだ、という。 もしそうなら、責任は武漢政府にあることになろう。
これに対して、列強側は、ことにイギリスとアメリカは、当初は、蒋介石を相手とせずに、武漢政府に対してのみ 通牒を送ろうとしていた。 いいかえれば、中国の行政上の責任は武漢政府にあるとみていたことになる。 しかし、日本は、各国を説得して、に対しても通牒を発するように工作し、結果としてそのことに成功した。
これが何を意味するかは、明らかであろう。 武漢政府がの党籍を剥奪し、がみずからの政府を樹立する以前に、列強は、中国に二つの政府を認めたことになるのだ。
さらに、このに対する通牒の不思議な点は、回答期限がつけられていないことであった。 これも、日本が主張したものだった。 しかし、は、事実をもって回答した。 それが四月十二日の上海クーデターであり、列強の共産主義嫌いを知りぬいた蒋介石の大バクチだった。
引用ヴァレラは、アイルランド首相で、父親がスペイン人、母親がアイルランド人で、ニューヨーク生まれという人物である。 イギリス政府に対して土地年賦金の支払いを拒絶したり、 イギリス皇帝に対する忠誠宣誓を拒否したりという熱血型の政治家だった。
1932年11月24日、国際連盟理事会
引用翌二十四日に第三回の理事会がひらかれた。
まず、顧が約五十分、ついで松岡が二十分の演説を行なった。
顧はいった。
「第一に、一九三一年九月十八日の事件は、日本の自衛行為であったろうか。答えは、ノウである。 第二に、満州国の建設は人民の自由意思によるものであったか。答えは、ノウである。 第三に、日本は公約どおりに軍隊を撤収しただろうか。答えは、ノウである。 では紛争は平和的に解決されうるものであったろうか。答えは、初めて、イエスである」
松岡氏は、日本の国民感情をいうが、それでは、国際的紛争における正邪の判定者は、日本の国民感情なのであろうか。
平和を守る機構としての国際連盟の規約は神聖であり、これを反故としてはならぬ―と顧はいうのである。
日本外交の一側面
引用情報部長の伊藤述史のように、英、仏、独の三ヵ国語をこなして、八面六臂の大活躍をするものもいることはいたが、 それはごく例外であった。 ほかの国がどういう動きに出るか、それを事前につかんでくるような、機敏な外交官は一人もいなかった。
「外交官に連盟の内部に深く喰い入っているものはいないか、 あるいは小委員会の誰かに特別懇意な人はいないかと物色してみたが、ほとんど見当たらぬので、大いに失望した。 大事な場合に備えて、かねがねから深く関係をつけておかなくては、イザとなってホゾをかむのは当たりまえである。 迂闊千万といわざるをえない。 これでは情報を探るにしても、また工作をほどこすことも、全然手がかりなしである」
というのは、随員の一人だった土橋の回想である。
1932年12月8日、松岡洋右の「十字架」演説 (国際連盟総会)
引用「人類はかつて二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。しかも、今日、どうであるか。 諸君は、いわゆる世界の世論なるものが誤っていない、と保証できようか。
われわれ日本人は、現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。 ヨーロッパやアメリカのある人びとは、いま二十世紀における日本を十字架にかけんと欲しているのではないか。
諸君!
日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ。
しかし、われわれは信ずる。固く固く信ずる。わずか数年ならずして、世界の世論は変わるであろう。 しかして、ナザレのイエスがついに世界に理解されたごとくに、われわれもまた世界によって理解されるであろう、と」
松岡の英語を存分に駆使した演説は、一時間半に及んだ。 彼が、サンキューといって演壇から下りたとき、会議場をゆるがすような拍手がいっせいにわき起こった。
それはまさしく感動的な場面だった。 自分の席に戻る松岡に、フランス代表のボンクール陸相、イギリスのサイモン外相らが、つぎつぎに席を立って、 松岡に握手を求めにやってきた。
イギリスの陸相でやはり代表となっているヘールシャムは、松岡の肩に抱きついていった。
「すばらしかった。三十年間も外交生活をしているが、こんな演説は初めてだ」
また、のちに感想を求められたサイモン外相は、あれは松岡にとっては、演説というよりも詩であったといい、 ボンクールは、ヴェルサイユにおけるクレマンソーの猛虎演説に比すべき歴史的雄弁だ、といった。
じじつ、松岡の雄弁は、総会の空気に微妙な一石を投じた。
日本に対して、同情的な空気がいくぶんか生じてきた。 四国決議案をそのまま表決に付するのは、好ましくないという意見がふえてきた。
イギリスやフランスにとっては、これは歓迎できる兆候である。 日本にとっても、表決はさけた方がいい。
そこで妥協案が生まれた。
引用ベニト・ムッソリーニは、一八八三年七月二十九日、 イタリア北東部のフォルリ県プレダッピオ郡ドヴァア村の鍛冶屋の長男として生まれた。 ベニトという名の由来は、父親が社会主義者で、メキシコの革命家ベニト・ファレスを尊敬しており、それからとったという。 母親は小学校の教師で、信心深いカトリック教徒だった。
彼は父親からは熱狂的な気質と社会主義を、母親からは芸術的な気質と勉強好きな向上心とをうけついだ。 少年時代の彼は、手に負えない腕白者で、規則は守らず、年じゅうけんかをして、学校を放校されたりしたが、 何とか師範学校を出て、教員の免状をとった。 しかし、教員にはならずに、十九歳のときに、故郷を飛び出して、スイスへ行った。
スイスでは、大工、運送夫、職工、肉屋の店員といった職業を転々とし、 時には、食うものに事欠いて強盗まがいのことをしたために、ブタ箱に放りこまれた。
一九〇四年、彼はスイスから追放されて、イタリアに戻った。 そして兵役に服したのち、小さな新聞の記者になった。 月給だけでは食っていけず、仕事のあいまに、小説を書いたり、伝記の代作をしたりしたが、それでも生活は楽ではなかった。 ただ、ムシャクシャするときに、なぐさみに奏くヴァイオリンはしろうと離れのした腕前だった。
一九一一年、イタリアはトルコと戦争を開始したが、ムッソリーニは、社会主義者として反戦運動を行ない、 つかまって、五ヵ月の刑をうけた。
刑期が終わって自由の身になった彼は、社会党の機関紙「前進」の編集長として迎えられた。 発行部数は一万程度だったが、彼が考え出した新機軸の編集方針で、部数は二年間で十倍になった。
第一次大戦が起こると、ムッソリーニは、「前進」紙上に、強い反戦論を展開した。 だが、三ヵ月後に、彼は愛国主義的な立場から参戦を支持した。 要するに、彼の社会主義は、心底からのものではなく、現状に対する不平不満から社会党に身を投じていたにすぎなかったのである。 「前進」をクビになった彼は、十一月に「ポーポロ・デ・イタリア」(イタリア国民の意)という新聞を創刊した。 資金をひそかに提供したのは、中立を守ろうとするイタリアを参戦させたかったフランスの大使館だといわれている。
【中略】
一九一五年、イタリアは参戦し、九月にはムッソリーニは軍曹として前線に送られた。 そして、一九一七年二月に、体内に砲弾の破片が四十四もくいこむという重傷を負い、一時は軍医にも見はされた。 このあたり、伍長で出征してやはり戦傷したヒットラーとよく似ている。
復員したムッソリーニは、再び新聞に戻ったが、一九一九年三月、ミラノで同志百五十人を集めて「ファッシスト党」を結成した。
この名称はファッシ(団結)という言葉から生まれたもので、男女普選、一院制、軍需工場の国有化、 戦時利益の没収といった綱領がかかげられている。
この年の十一月に総選挙があった。 ムッソリーニをはじめ、何人かが立候補した。
といっても、こんなちっぽけな政党は誰からも注目されなかった。 党首たるムッソリーニをはじめ、全員が落選した。
意気消沈している同志たちに、ムッソリーニはいった。
「勇気を出せよ。二年とたたないうちに、きっとすばらしい勝利がやってくる」
誰もが、ムッソリーニは夢を見ているのだと思ったが、彼は本気だった。
ムッソリーニが目をつけたのは、戦後の社会不安だった。 社会党の勢力が強くなっているが、その一方では、急進主義に対する反感も根強いことを、彼は見ぬいていた。 復員したものの、職のない元軍人、貧農の子弟、前途に希望のない学生。 彼はこういう状況の若者たちを組織し、その不満を暴力的に発散させた。 つまり、社会党が握っていたボローニヤ市庁舎を襲撃し、これをロンバルジア方面へと拡げて行った。
彼は「アカ」の恐怖を国民に訴えた。 これは、支配者や大資本家にとっては、好ましいことであった。 警察も軍部も、ファッシスト党員の暴力的なアカ狩りを黙認した。
その一方で、ムッソリーニは、大衆の支持をうるために、資本家への攻撃を怠らなかった。 もっとも、それは弁舌だけの攻撃だったが。
一九二一年五月の総選挙では、ムッソリーニをはじめ、ファッシスト党は二十二議席を得た。
自由・民主党二百七十五、社会党百二十二、共産党十六であった。
十一月に、ローマで党大会をひらいたムッソリーニは、党名を「国家ファッショ党」にあらためた。 ファッショは、ファッシの複数形である。 また、制服として黒シャツ着用を定めた。党員の中に、軍人が多かった。 百五十人で出発した党は、このころ三十万人になっていた。
翌年十月、ムッソリーニは、党員四万を率いて、ミラノからローマへ向けて進軍を開始した。
彼に、勝利の確信があったわけではなかった。 万一のさいには、スイスに逃亡できるように準備もしてあったのだが、 自由・民主党を与党とするファクタ首相が国王エマヌエレ三世に戒厳令の公布を求めたところ、国王はこれを拒否した。 軍部がすでに与党を見はなしていることを、国王は敏感にかぎとっていた。
ファクタが辞職すると、国王は、ムッソリーニ組閣の命令を下した
マスコミの国際連盟脱退論
引用首相の斉藤は、もともとは、脱退反対論だった。 閣僚の大半、内相山本達雄、蔵相高橋是清、文相鳩山一郎、農相後藤文夫、拓相永井柳太郎らも脱退には反対だった。 また、海軍も斉藤を支持していた。 閣僚ではないが、内大臣牧野伸顕も、イギリス提案をのんだ方がいいという意見だった。
だが、新聞各社は、圧倒的に脱退論をとなえていた。 全国百三十二社が共同声明を作って、一面にのせた。 内容は、満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、 全言論機関の名において声明する、というのであった。
客観的にいって、新聞はじつにだらしなかった。 陸軍の青年将校の威勢のいい言辞にひきずられていた。
あるいは、同情的にいうならば、新聞にはもはや言論の自由はなかった。 憲兵隊と特高警察がその力をほしいままにしていたのである。
引用小林多喜二が特高の手に捕らえられ、築地警察で虐殺されたのは、二月二十日のことだったが、 それをありのままに報道した新聞は一社もなかった。 毛利特高課長の「決して拷問した事実はない。 心臓に急変をきたしたものだ」という談話をれいれいしくのせた。 わずかに、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」 という談話(都新聞)や、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)といった表現で、 真相をそれとなく匂わせるのがやっとであった。
ヒトラーとナチス
引用ミュンヘンにおいては、カール・マイルという大尉が課長となった。 マイルは、数人の工作員を採用したが、そのなかにヒットラーが入っていたのである。 ヒットラーは、その確信にみちた反ユダヤ主義とアカぎらいと、それにもまして際立った弁舌力によって、 マイル大尉の注意をひきつけた。
九月のはじめ、ヒットラーはマイル大尉の部屋に呼ばれた。
「今夜、シュテルンエッカーブロイという酒場に行ってくれ」
とマイルがいった。
「大尉、わたしは酒はのみません」
「酒をのみに行けというんじゃない。そこでドイツ労働者党の会合があるんだ」
「聞いたことのない政党ですね」
「ことしの一月に結成されたという話だ。 背後にあるのはどうやらトゥーレ協会らしいが、くわしいことはわからない。 政党といっても、ちっぽけなものだが、兵士のなかで加盟しているものが数人いる。 どういう性格の団体か、調べてくるんだ」
とマイル大尉は命じた。 ヒットラーは承知して、その夜、シュテルンエッカーブロイを訪れた。 これがヒットラーとドイツ労働者党つまりナチスとの出会いであった。
会合には四十余人が出ていた。
【中略】
ヒットラーは、はじめのうちは退屈して、出席者のワイワイガヤガヤの議論を聞いていたが、 そのうち、出席者の一人が、
「バイエルンはドイツから分離して、オーストリアと合併すべきだ」
というのを耳にすると、発言を求めた。
ゲルマン民族の団結を信じている彼にしてみれば、ドイツ本国が、オーストリアを合併するならともかく、 ドイツを分割して、オーストリアに合併するなどという考え方には、およそ我慢できなかったのだ。
引用ゲッベルスは一八九七年生まれのルール出身で、身長百五十センチという小男だった。 大学で歴史と文学をまなび、戯曲を書いたこともある。 その後、銀行員になったり、株式取引所の場立ちになったりしているうちに、ナチスに入った。 はじめは、幹部の一人であるグレゴール・シュトラッサーの秘書をしていたが、ヒットラーと出会ったことで、その人生が一変した。 彼のもっとも天才的な才能をヒットラーが高く買ったからである。
その天才的な才能とは、宣伝のそれであった。 ラジオ(電波)映画(映像)が政治的なプロパガンダにきわめて効果的であることを世界でもっとも早く目をつけたのもゲッベルスだったし、 パンフレット、ポスター、デモ、集会を最高度に活用したのも、この小男だった。 彼自身、演説はおそろしいまでに巧みであった。
大統領選挙においても、彼の才能は余すところなく発揮された。
飛行機を選挙に使ったのは、彼がはじめてだった。 ヒットラーと自分が乗って国じゅうをとびまわり、一日に、二回から三回の演説をこなし、さらには、 飛行機からパンフレットを雨あられのようにバラまき、夜になるとヒットラーの演説映画を広場で上映し、 演説をふきこんだレコード五万枚を蓄音機のある家庭に郵送した。
アメリカの中立法
引用アメリカは、一九三五年(昭和十年)に中立法を制定していた。 これは、大統領が外国間の戦争状態が存在すると認めたとき、あるいは内乱が重大化したとき、交戦国や内乱国に、 武器または軍需物資の輸出を禁止するという法律で、スペイン内乱にまず適用され、 この年の五月に修正強化されたものである。 もしこの法を発動すれば、日本はアメリカから鉄その他を輸入できなくなる。
日本が、じっさいには戦争であるにもかかわらず「日支事変」と呼んで、宣戦布告しなかった理由の最大のものは、 この法があるためだった。
アメリカ国内の世論は、日本軍の侵略に対する非難の声が強かった。 中立法を発動すべし、とルーズベルト大統領に迫る下院議員もいたし、上院ではルイス議員が決議案を提出した。
しかし、ルーズベルトは中立法を発動しようとしなかった。 その理由を、国務長官のハルが代わって弁明した。
「中立法は、交戦国双方への武器などの輸出を禁じている。 この場合、より大きな不利益を蒙るのは、武器を国産としている日本よりも、アメリカから輸入している中国である」
中国のために、とハルはいうのだが、じっさいは、アメリカの対日貿易額は、全ヨーロッパの二倍であるという現実のせいだった。 アメリカの資本家にとって、大口の輸出先である日本を失うことは、決して得策ではなかったのだ。 ルーズベルトといえども、かれらの意向を無視することはできなかった。
隔離演説
引用十月五日、ルーズベルトは、シカゴで演説した。 彼は、「侵略国」という表現を使って日本およびドイツを伝染病患者にたとえて非難し、国際社会の健康を守るためには、 こうした好戦的な軍国主義国家を隔離すべきである、といった。
これは俗に「隔離演説」と称された。 その非難の激しさは、アメリカがいまにも介入せんばかりであり、 モンロー以来の伝統的な孤立主義から百八十度の転換を示すものとうけとられた。
引用暴力やテロの先頭につねに立ったのは、突撃隊と呼ばれる組織だった。 この組織は初期のころは、演説会場の整理などにあたるもので、ときには、反ナチの聴衆と乱闘をしたりして実力を認められ、 一九二一年には、突撃隊(SA)となった。 SAの指導者は、バイエルン国防軍の大尉だったエルンスト・レームだった。 レームはその地位を利用して、SAの隊員たちに武器をあたえ、あるいは訓練をほどこした。
一方、ドイツには、国防軍というれっきとした軍事組織が存在している。 したがってレームとしては、SAと国防軍を一体化して、自分がその総司令官になることが望みだった。 軍を握れば、事実上、国家を握ることになるのである。
ヒットラーは、国防軍をSAに渡せというレームの要求を、自分の地位を危うくするものとみた。 レームに国防軍を渡すことは、強力なライバルを作り出すことでもあった。
こうした状況を背景にして起こされたのが「六月三十日事件」だった。 レームをはじめとするSAの幹部は、ヒムラーの指揮する親衛隊(SS)によって殺害され、ついでに好ましからぬ政治家も殺された。 その数は合計少なくとも二百名といわれている。 SAが党の軍事組織であるのに対して、このころのSSは、ヒットラーの個人的な警護組織にすぎなかった。 しかし、この結果、SSはヒットラーの私設警察として恐るべき力をもつことになった。 ヒットラーやその権力機構を守るためには、公然たる殺人も暴力も認められたにひとしいからである。
引用スターリンは一八七九年十二月の生まれだから、ヒットラーよりも、ちょうど十歳年上である。 コーカサスの片田舎ゴーリという町の靴職人の子として彼は生まれ、レーニンが死んだ一九二四年一月には、党書記長の地位にあった。
レーニンは死ぬ一年ほど前に、口述で党へあてた事実上の遺書を作成していた。 そのなかで、彼はスターリンがあまりにも粗暴であり、トロツキーは有能だが、うぬぼれが強すぎると指摘していた。 レーニンは、スターリンが書記長の職を退き、中央委員の数をふやして、集団指導制をとるように希望していた。 しかし、スターリンは、レーニンの注意を守って反省することを条件に、レーニンの死後の党大会で書記長にとどまった。
はじめ、彼はコミンテルンの議長ジノヴィエフ、モスクワ・ソビエト議長カーメネフらと集団指導の形をとったが、 まず政敵トロツキーを追放し、ついで、ジノヴィエフ、カーメネフを蹴落とし、さらには、 ブハーリン、ルイコフ(レーニンの死後、人民委員会の議長をつとめた人物)を一九二九年ごろまでに片付けた。
一九三四年一月の党大会で、スターリンは完全な勝利者となった。 壇上の報告者たちはスターリンの指導をたたえ、偉大な指導者とか天才的な思想家とか卓越した理論家とか、 あらゆる時代をこえたあらゆる民衆のもっとも偉大な指導者、という形容を奉った。
引用十二月一日、スターリンの片腕と目されたキーロフがレニングラードの党本部で暗殺された。 この暗殺は、フルシチョフの有名な「秘密報告」(一九五六年二月)によると、奇怪な謎に包まれており、 あきらかに偶然ではない仕組まれた犯罪行為だったという。
どうやらキーロフは、スターリンによって殺されたらしい。 スターリンは、愛弟子のキーロフを暗殺することによって、ライバルたちを粛清する名目を手に入れたのだ。
レーニンは共産党員には死刑を適用しないように注意を与えていた。 それは守られていて、反スターリン派は投獄されたり流刑になったりしても、死刑にはならなかった。
キーロフが暗殺されると、スターリンはその日のうちに刑法を改正し、 政治的暗殺事件は弁護人なしの非公開裁判で死刑を宣告できるようにした。 スターリンは、キーロフを殺すことによって、自分のライバルをすべて死刑台へ送りこむ法律を手に入れた。
ジノヴィエフとカーメネフがキーロフ暗殺を仕組み、スターリン暗殺を企てたという理由で血祭りにあげられた。
スターリンの首斬り役をつとめたのは、エジョフで、一連の粛清はその名をとってエジョフシチナと呼ばれた。 そのエジョフも一九三八年十二月に内務相を解任され、その後任となったベリアによって消された。
松岡外相の絶頂
引用松岡は有頂天であった。 彼はシベリアの荒野を走り続けながら、まさに西の空に沈もうとする夕陽を見ていた。
何ぴともなしえなかった電撃外交をやってのけたのである。 それも、怪物スターリンを相手に、だ。
彼は同乗している新聞記者に喋った。
「これで北の方は心配なくなった。 だからアメリカは、こんどは日本が南進すると思っているだろう。 しかし、おれの構想はそうではない。 六月になったら、おれは重慶へ行って蒋介石と会う。 そして二人でワシントンへ行き、ルーズベルトと三者会談をする。 万里の長城以北を中立地域とし、日本は中国から完全撤兵をする。 その代わり、米、中に満州を承認させるのだ」
松岡は、モスクワのスタインハートを通じて、すでに対米工作をひそかに開始していた。 モスクワにおける成功の勢いをかりて、懸念を一気に解決するつもりであった。
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