「昭和の歴史(2) ― 昭和の恐慌 ―
参考書籍
著者: 中村政則(なかむら・まさのり)
発行: 小学館(1988/07/01)
書籍: 文庫(415ページ)
定価: 940円(税込)
初版: 小学館(1982/06)
目次: 昭和の開幕―はじめに
金融恐慌
中国侵略への布石
デモクラシーの岐路
ロンドン軍縮会議
金解禁
大恐慌と日本経済の破局
恐慌と独占
不景気と世相
破局からの脱出
補足情報:
「昭和」改元。普選の実施による民衆の政治参加、都市のモボ・モガ、 映画の流行などの華やかさのかげで、時代の暗雲はその色を深めていた。 震災手形の処理につまづいた脆弱な日本経済に世界大恐慌が襲いかかる。(表紙裏)
この本を入手
レーガン大統領選圧勝
引用一九八〇年(昭和五五)一一月四日のアメリカ大統領選挙で、 共和党のロナルド=レーガンは、現職の大統領ジミー=カーターにたいして、地辷り的な大差をつけて圧勝した。 レーガンの勝利は、一九三二年、大恐慌下の大統領選挙で、民主党のフランクリン=ローズベルトが、 同じく現職のハーバート=フーヴァーに圧勝したときの状況を再現させたものであり、 四八年ぶりの政治的事件と、マス=メディアは報じた。
戦後恐慌
引用一九二〇年三月一五日、東京株式取引所の株価暴落をきっかけに、 戦後反動恐慌がおこった。平均株価は、同年六月までに半値以下に暴落した。 主要商品の価格崩落も大きい。なかでも、日本の輸出をささえる産業部門の商品の暴落ぶりはひどく、 生糸価格は七五パーセント、綿糸価格は六六パーセントも下落した。 それにつれて、取引銀行にたいする信用不安が増大し、預金取付け騒ぎが全国各地でおこった。 四月七日、増田ビルブローカー銀行の破綻をきっかけに、四月から七月にかけて、 本支店あわせて一六九行が取付けにあい、二一行が休業におちいった。 五月には、生糸滞貨の増加・輸出の激減によって、横浜の茂木商店とその機関銀行である七十四銀行が破綻した。 この影響はただちに生糸問屋・製糸家・絹織物業者・養蚕農民に波及した。 なかでも、全国二〇〇万戸におよぶ養蚕農家の窮乏は深刻化し、 以後、農業問題は日本資本主義の存立にかかわる根本問題となっていくのである。
井上蔵相の金融特別措置
引用山本権兵衛内閣の蔵相井上準之助は、九月七日、 被害地の銀行・会社を救済するため、支払猶予令を出して、債務の支払いを一か月猶予する措置をとり、 つづいて九月二七日には、震災手形割引損失補償令を勅令のかたちで公布した。 これは、震災前に銀行が割り引いた手形のうち、震災のために決済できなくなったものは、 日本銀行が再割引して銀行の損失を救い、それによって日銀に損失が生じた場合には、 一億円を限度として政府が補償することをさだめたものである。これを震災手形とよんだ。
ところが、政府の予想を上まわって、一九二四年三月末までに日銀で再割引された震災手形は、 四億三〇八一万円の巨額に達した。 というのは、震災手形といわれるもののなかには、震災前からの不良貸付・放漫経営による不良手形がふくまれており、 それらが、震災手形の名のもとに再割引されてしまったからである。 そのうえ、震災手形の振出人は、経営悪化のため、なかなか手形決済することができない状態であった。 そこで政府は、当初の勅令で震災手形の満期日を一九二五年九月三〇日限りとさだめていたのを、 一九二五、二六年の二回にわたって、期限をそれぞれ一年ずつ延長し、結局、 一九二七年九月をもって最終期限とすることにした。 これによって、震災手形の整理はいくらかすすんだものの、 一九二六年末には、なお二億七〇〇万円の震災手形が残っていたのである。
金子直吉
引用鈴木商店の大番頭金子直吉は、積極果敢の一大スペキュレーター(冒険的企業家)であった。 欧州大戦でブーム到来とみるや、海外につぎつぎと支店を設置し、世界の檜舞台に乗りだしていった。 取扱商品は、砂糖・樟脳をはじめ、米・小麦・肥料・ゴム・木材等におよび、 その事業は海運・電気・砂糖・鉄・毛織物等にひろがった。 一九一九、二〇年(大正八、九)の全盛時代には、年商一六億円にのぼり、日本最大の貿易商社にまで発展した。 一九二八年(昭和三)の三井物産の取扱高は、一二億六〇〇〇万円で物産創立いらいの最高記録であったが、 大戦前後は一二億円くらいであったから、鈴木商店は物産をもしのいでいたことになる。
引用松島遊郭事件というのは、『日本政治裁判史録』によると、 大阪市内にあった松島遊郭を市外に移転させるにあたって、政友会前幹事長岩崎勲、憲政会前総務箕浦勝人らが 収賄容疑で起訴された事件をいう。一九二六年春のことである。 土地会社の大東土地株式会社・柴谷土地建物会社・豊国土地株式会社の三者が入り乱れて、松島遊郭の移転誘致に動いた。 その過程で大量の金がばらまかれ、何人もの政治家がつかまった。 なかでも、憲政会の要職にあり、政界の長老(当時七二歳)として人望の厚かった箕浦の起訴は、世人を驚かせた。 憲政会は、「事件は党に関係なく政府に関係なく単なる個人の私行にすぎない」として、 政局に影響がおよばないよう懸命の打ち消しをおこなったが、政友会・政友本党は攻撃の手をゆるめなかった。 大阪地方裁判所は、予審の過程で若槻首相・中川望大阪府知事らを証人として喚問し、 事件の背後関係を調査した。 事件は政治問題化し、第五二議会の幕明けは波瀾ぶくみであった。
憲本提携
引用政友本党の床次竹二郎は、朴烈問題などで政友会と手を組んだが、 かりに若槻内閣を倒したところで、自分のところにつごうよく政権がころがりこんでくるとは考えなかった。 政友会と一緒になって内閣弾劾案を提出したものの、彼も選挙に勝てる自信はなかった。 “三党首会談”にあっさり合意したのもそのためである。 そこで床次は、会談以降、むしろ若槻に接近し、両党の間で政策協定をひそかにすすめていたのである。
武藤山治
引用武藤山治は、鐘紡王国を築きあげた日本の代表的な産業資本家の一人であり、 アメリカの科学的経営管理法を導入するなど、その経営方針は、つねに時代を一歩先んじていた。
金融恐慌第二波
引用金融恐慌の第一波は、三月二二日を頂点に下火にむかい、 ほぼ一〇日間で鎮静した。 日本銀行では、三月二三日に、ニューヨークおよびロンドン駐在員あてに「金融不安全く一掃」のむね打電したほどであった。
しかしそれは、第二の噴火を待つまでの一時休止にすぎなかった。 議会で問題にされた台湾銀行と鈴木商店の腐れ縁は、もはや治癒しがたいほどに悪化しており、 早晩、これの大手術は不可避と誰もが思っていたからである。 先の貴族院でも、震災手形整理二法案を可決するにあたって、「今後台湾銀行の根本的整理を行ひ、 その基盤を鞏固にすべし」との付帯条件をつけていた。 この付帯条件にもとづいて政府は、四月四日、官民合同による台湾銀行調査会を設立、 貴族院議員井上準之助が会長のポストについた。 この調査会の諮問をうけて、政府は、台湾銀行の再建策を講じようとしていたのである。 ところが、台湾銀行調査会の審議を待つ間もなく、台湾銀行は、三月二四日の役員総会で、 「鈴木商店にたいし、今後、新規貸出しを打ち切る」との方針を決定してしまった。 『台湾銀行史』によれば、同行が鈴木商店にたいして正常の商業取引以外の貸出し打ち切りをきめたのは、 早くも一九二五年(大正一四)九月一日のことであったという。 このときすでに台湾銀行の鈴木商店にたいする貸付金は三億一二〇〇万円余の巨額にのぼっており、 しかもそれは、回収不能の状態にあった。 かねてから台湾銀行側は、鈴木商店に重役を派遣し、不良事業の整理や金子直吉ら首脳部の退陣を要求していたのだが、 うまくいかず、ずるずると貸付を拡大してしまっていたのである。 こうして、恐慌直前の二七年(昭和二)三月には、台湾銀行の鈴木商店貸付高は、三億五〇〇〇万円にまでふくれあがっていた。
片岡の回想録は、台銀の貸出し打ち切り決定を聞いたときの印象を、つぎのように記している。
三月二四日、議会に出席中の私は、松本銀行局長から、此の報告に接して、おもはず一驚を喫した。 もちろん、台銀が鈴木との関係を断ち切ることに何の不思議はなく、 寧ろ早晩しかせねばならぬ筈だが、しかし、それには時機があり方法がある。 現在の如き財界動揺の際―議会で震手の内容をあばかれて、 鈴木商店の金融が極度に悪化しつつある時、俄かに台銀が金融の途を断絶することは、非常の考慮を要する。
片岡蔵相は、第二の金融パニックがくることを恐れた。 松本銀行局長を通じて、台銀重役に、鈴木商店への貸出しを打ち切る前に日銀と相談するよう命じた。 しかし、台銀側の返事は二、三日待ってもこない。 そうこうしているうちに、三月二七日、台湾銀行は、ついに鈴木商店の代表者を呼び、貸出し打ち切りの意思を正式に通告した。 このニュースは、四月一日の各新聞に大々的に報道された。 台湾銀行が鈴木商店との関係を断ち切った以上、鈴木商店やその関連事業はもとより台銀自身がゆきづまる。 財界の大変動は必至との噂が金融界を馳けめぐった。
台銀危機
引用台湾銀行の貸出しという貸出しは、ほとんど回収不能の状態にあり、 それを短期借入金によってやりくりしてきていたのだから、市中銀行によるコールの回収は、 台湾銀行を絶体絶命の窮地に追いこんだ。 ここにいたって、台湾銀行は、手持ちの有価証券、再割引可能の手形、そのほか担保になりそうなものならなんでも、 日本銀行に持ちこんで資金の融通をもとめた。しかし、日銀の融資にも限度があった。
引用平沼は第二次西園寺内閣の司法次官、 一九一二年(大正元)から検事総長を一〇年間つとめ、一九二一年大審院長、第二次山本権兵衛内閣の司法大臣を歴任し、 名実ともに司法界の大御所として、枢密院内に隠然たる勢力をもっていた。 また、一九二四年には右翼団体国本社を創立、復古的日本主義を標榜して、軍部との結びつきもつよかった。
伊東巳代治
引用伊東巳代治は、伊藤博文の手足として、帝国憲法の制定に参加し、 第二次伊藤内閣の書記官長、第三次伊藤内閣の農商務大臣を歴任した。 ついで、一八九九年(明治三二)、山県有朋の推挙で枢密顧問官となった。 それいらい、約三〇年にわたって枢密院を牛耳っている。 伊東は、また、中国外交における強硬論者としても知られており、若槻内閣の幣原外交を、 つねづね軟弱外交として攻撃していた。
引用五月二八日、北伐軍が華北の徐州を占領したという情報を得ると、 田中内閣は、時をうつさず、第一次山東出兵を決定した。 居留民の生命財産を現地保護するため、というのがその理由であった。 しかし、真の狙いは、満州・華北に革命が波及することをふせぐことにあった。 森恪や陸軍の強硬派の主張が通ったのである。
英米両国も、これを無条件で歓迎した。 両国も、中国民族主義の鉾先がみずからにむかうことを警戒したためである。
引用一九二八年(昭和三)二月、南京国民政府の主席蒋介石は、 北洋軍閥の閻錫山・馮玉祥と連携し、共同で張作霖軍閥を攻撃するとの協定をむすんだ。 第一集団軍総司令蒋介石、第二集団軍総司令馮玉祥、第三集団軍総司令閻錫山、この三軍は、作戦協定にしたがって、 三月末に北伐攻撃を再開した。蒋介石軍は、津浦線にそって北上を開始、 馮玉祥の軍隊は、京漢線正面から北軍の中央線突破を準備し、 閻錫山の軍隊は、山西の省境から京綏線にそって北京にむかった。 四月一六日、三軍は北軍をじりじりと追いつめ、済南を半円形に包囲することになった。
この情勢をみて、田中内閣は、四月一九日、居留民の現地保護を理由に、ふたたび出兵を決定した(第二次山東出兵)。 一九二七年末、山東省の在留邦人は、青島に一万三〇〇〇名、済南に二一〇〇名おり、 事業投資は、青島に約六六〇〇万円、済南に五〇〇万円であった。 出兵論の急先鋒は、またもや白川陸相と森恪であった。 四月二五日の『朝日新聞』は、「外交抜きの出兵を無造作にやることは、無策を通り越した無謀である。 現内閣の行ふところは、出兵だけである。 流石に出兵だけはきびきびしてゐる」と皮肉ったが、たしかに、田中内閣のこのときの対応はすばやかった。 政府は四月一九日、天津駐屯軍中より、歩兵三個中隊を済南に急派させ、同時に熊本第六師団に出動を命じた。 第六師団五〇〇〇名の兵は、二三日門司を出発、二六日済南に到着した。
引用表面上、一触即発の空気は、五月一、二日にはなかった。 ところが、五月三日午前九時半、日中両軍の間で軍事衝突がおこった。 その原因に関する主張は、日本側と中国側とでは完全にくいちがっている。 日本側は、南軍兵士が『満州日報』取次販売店に乱入し、吉房長平を罵倒殴打し、 家財道具を掠奪したことにはじまるというのにたいし、中国側は、日本軍守備区域で一人の中国人が射殺されたことが 発端であるとしている。 戦争の原因について両者の言い分が一致するなどということは史上例がない。済南事件はこうしてはじまった。
済南市内での市街戦は五月三、四日の二日間で終わったが、参謀本部は、 「このさい断乎たる処置をとる」こととし、「南軍膺懲(こらしめる)」の方針を固めた。 五月四日の臨時閣議は、関東軍と朝鮮軍とから二個師団の増派を決定、 五月九日には名古屋の第三師団にも出動命令をくだし、約一万五〇〇〇名の兵員を補充して、 革命軍との徹底抗戦を辞さずとの態勢をととのえた。
日本軍は、九日から総攻撃を開始、済南城内に集中砲火をあびせ、一一日に済南城を軍事占領した。 この戦闘で、南軍は一般市民をふくめ死者三六〇〇名、負傷者一四〇〇名を出したのにたいし、 日本軍の死傷は死者二五名、負傷者一五七名であった。
引用国民革命軍は、済南で日本軍の強硬な抵抗をうけたため、 済南を迂回して北京にむけ進撃をつづけた。 五月中旬には、張作霖大元帥のいる北京の攻略も間近に迫った。 もし北京が革命軍の手におちれば、張作霖は本拠地の満州に逃げこむであろう。 革命軍がなおも追撃をつづけ、東三省に戦火が拡大すれば、満州における日本の権益は重大な脅威にさらされる。
五月一六日、田中内閣は、閣議で、「戦乱京津地方に進展し其の禍乱満州に及ばんとする場合は、 帝国政府としては満州治安維持の為、適当にして且有効なる措置を執る」の方針を決定し、 北京駐在の芳沢公使を通じて、そのむねを張作霖に伝えさせた。 「適当にして且有効なる措置」とは、張作霖の軍隊が、北京付近で戦闘がはじまる前に満州へ引き揚げるならば 問題はないが、もし革命軍と一戦をまじえて敗北した場合には、満州帰還を認めず、 長城で阻止するというものである。 これにたいしは、自分が失脚すれば中国が赤化してしまうと反対した。 しかしは、情勢は自分に不利とし、日本政府の決意も予想以上に固いと判断し、 結局、日本の満州引き揚げ勧告をうけいれざるをえなかった。
は、全軍に総退却を命じ、六月三日早朝、満州へむけて北京を発つことにした。
引用山宣は京都市宇治の旅館兼料亭「花やしき」の一人息子として育ち、 一九〇七年(明治四〇)カナダへ留学、一一年帰国後、三高・東大を経て、 二〇年(大正九)京大・同志社大の講師となった。 性科学を専攻し、二二年アメリカ産児制限会長サンガー女史の来日を期に、 産児制限運動に乗りだした。 労働者のなかへはいり、貧乏人の子沢山の現実を知る。 貧困を解決することなしに、産児制限問題の根本的解決はない。 こうして、「性と社会」の関係を問いつめていくなかで、山宣は労働運動とむすびつき、 社会主義の思想を血肉化していった。 二七年(昭和二)、労農党京都府委員長に選ばれ、最初の普選で当選をはたした。 三・一五事件で労農党がつぶされたあと、共産党系の政獲労農同盟ただ一人の衆議院議員として、 彼は第五六議会にのぞんだ。 治安維持法改正案が議会に上程される前、山宣は、自分の書斎の壁に「戦争撲滅」と書いてかかげた。 彼は、この悪法の彼方に侵略戦争があることを鋭く見抜いていたのである。
二九年三月四日、山宣は、大阪で開かれた全国農民組合大会でこう演説した。
無産階級の議員として出てゐる人々は、日々何をしてゐるか。 それは諸君を欺すのだ。明日は死刑法、治安維持法が上程される。 私はその反対のために今夜東上する。 反対演説もやるつもりだが、質問打切りのためにやれなくなるだろう。 実に今や階級的立場を守る者は唯一人だ。 だが僕は淋しくない。山宣一人孤塁を守る。併し、背後には多数の同志が・・・・・・。
ここで、臨監の警部が中止を命じた。 山宣は「議会開会中の代議士の逮捕は勅令なしにはできぬぞ」と叫んだため、 彼を取りかこんだ警官たちはなにひとつ手だしすることができなかった。
翌三月五日、山宣は、念入りに準備した治安維持法に反対する演説草稿を持って国会議事堂にはいった。 しかし、その日の衆議院本会議は、民政党・労農大衆党の反対討論と、 新党倶楽部・政友会の賛成討論が終わったところで、政友会提出の討論打ち切りの動議が可決され、 山宣の発言は封じられてしまった。 二月八日の衆議院予算委員会で、山宣は三・一五事件の拷問や長期拘留の不当・不法を鋭く追及した。 これに恐れをなした与党政友会は、山宣の登壇を、なんとしても阻止したかったのである。
引用奇妙なことに、第五八議会の論争で、政友会は、 この軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけたのである。 政友会総裁犬養毅は、代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府につめより、 総務の鳩山一郎は、政府が軍令部長の意見に反し、あるいは、 これを無視して回訓を決定したのは、統帥権干犯のおそれがあると、政府を非難・追及した。
日露戦争いらい、軍部は、統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、 軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動をたえずもっていた。 大正時代の護憲運動いらいの政党政治家であった犬養らが、この軍の非立憲的衝動を知らないはずはなかった。 兵力量の決定というもっとも重要な国務を、内閣の所管外であるかのように説いたのは、 政党政治家の自殺行為に等しいものであった。 また、政権を奪わんがための策略であったとするなら、それは、あまりに目先の見えぬ愚挙であったといわなければならない。 約二年後の五・一五事件(一九三二年)で、統帥権独立を呼号する軍部によってその生命を断たれたのが 犬養毅その人であったのは、あまりに無残な歴史の皮肉であった。
ロンドン条約と東郷元帥
引用ロンドン条約は、特別議会につづいて、 第二、第三の関門をくぐらなければならなかった。 軍事参議官会議と枢密院の審査がそれである。 軍事参議官会議のメンバーは、東郷元帥伏見宮岡田加藤・谷口・財部の六人である。 このうち、東郷伏見宮加藤の三人が条約反対派であった。三対三の同数、政府および海軍主流は、 またもや窮地に立った。 なかでも強硬論の持ち主は東郷元帥で、「こんな条約はむしろできないほうがよかったのだ」と、 意見を硬化させていた。 谷口軍令部長は東郷元帥の説得につとめたが、東郷は自分の実戦経験からいっても、 巡洋艦は対米八割はいると思っているのに、今回の条約では七割にもみたない。 天皇にたいしてそのことを率直に言うほかはない。 姑息な手段をとれば、将来取り返しのつかぬ大不忠をおかすことになるといって、取り合わなかった。
引用一九三一年(昭和六)度の閣議編成も終わり、浜口首相は、 陸軍大演習を陪観するため、岡山へむかうことになった。 一一月一四日、東京駅午前九時発超特急「つばめ」号に乗る予定であった。 浜口は、随員をしたがえて、午前八時四五分前後に東京駅の玄関口にあらわれ、駅長室にはいって、しばらく休憩した。 発車時刻五分ほど前に、東京駅長の先導で「つばめ」号の前方から六両目の一等車にむかったところ、突然、 一発の銃声がとどろいた。 四メートルほど先に、久留米絣の着物に紺の袴をつけ足駄をはいた壮士風の男が、拳銃を持ったままつっ立っていた。 犯人の佐郷屋留雄である。 随員の中島弥団次秘書官が「やられた」と叫んだ瞬間、首相は、 両手で腹部を押さえながら、その場に崩れそうになり、周囲の人にあわてて抱きかかえられた。 警戒の警官が犯人に飛びかかり、その場でねじふせて、手首と足に無数の縄をかけた。 ほんの一瞬の出来事であった。
旧平価解禁の裏事情
引用浜口井上が、旧平価を選択した背後には、 政治的理由がひそんでいた。 もし新平価で解禁すれば、法律の改正を必要とする。 一八九七年(明治三〇)制定の貨幣法では、純金二分を一円とするときめられていたから、 この規定を変更しないことには、新平価解禁はできなかった。 ところが、浜口内閣は、田中内閣総辞職のあとをうけて成立した内閣であるから、 衆議院の勢力分野は前内閣時代と同じであり、民政党は第二党であった。 法律改正を議会に提案しても、政友会の反対で否決される恐れが十分あった。 旧平価解禁なら、たんに一九一七年(大正六)の金輸出禁止の大蔵省令を廃止するだけですむ。 むしろ、浜口民政党内閣は、金解禁を先にやってから、議会を解散して選挙にのぞんだほうが有利と判断していたのである。
引用モルガン商会のラモントが来日したときにも、 井上は「五二議会では経済知識の浅い政治家が経済問題を取り扱い損った」と、暗に片岡直温を批判しているし、 前田中内閣三土蔵相が解禁準備に取り組んでいたときにも、「今頃金解禁をすることは肺病患者にマラソン競争を させるようなものだ」という有名な文句をはいたりしている。
たしかにそのころは、金解禁慎重論が支配的であったし、三土蔵相も、 政友会の伝統的な積極政策を一八〇度転換させて緊縮政策をとるには、相当の準備と決断とを必要としていた。 ところが、それから約二ヵ月後には井上が蔵相に就任し、金解禁断行を主張しはじめたのであるから、 世間が、「先生の所謂政治家振りに驚いて」(小汀利得の言葉)しまったのも無理はない。
井上が財政家から政治家に変貌したといわれたのはこのときである。
引用政府はみずから範を垂れるために、官吏の減俸を思いついたのであろうが、 これは予想外の反撃をうけることになる。 井上蔵相は河田烈事務次官に命じて、極秘のうちに減俸案を作成させ、一〇月一五日、浜口首相名で声明書を発表した。 高等文官および下級官吏の俸給について、高等文官は年額一二〇〇円をこえるもの、 判任官は月額一〇〇円をこえるものにたいして、だいたい一割程度の減俸をおこなうというのである。 一九三〇年(昭和五)一月一日より実施する予定であった。
この声明が発表されると、各方面からごうごうたる非難の声が巻きおこった。
翌一〇月一六日の『朝日新聞』朝刊は、この衝撃的な政府発表を、第二面全部を使って報道している。
浜口内閣突如として 官吏の俸給一割減額”
“官吏減俸反対の声 各方面に一せいに揚る”
“人心ゐ縮し 不景気は深刻化”
などの大見出しのもとに、政友会幹事長森恪は「俸給生活者への弾圧に過ぎず」、 実業同志会武藤山治は「抱腹絶倒の愚策」、日本大衆党堺利彦は「資本家根性の標本」、 社民党鈴木文治は「弱いものいじめだ。何にも一番抵抗力の弱い官吏を犠牲にしなくても、整理節約の余地は幾らでもある。
先ず軍事費・行政費等の整理を断行し、官吏の減俸の如きは最後に行ふべきである」と、 それぞれ辛辣な談話を発表した。
大蔵省事務局の計算によると、官吏減俸で節約できる経費は年額わずか七〇〇〜八〇〇万円である。 しかも、官吏減俸は、やがて民間企業にも波及することになる。 そうすれば、勤労所得者の購買力は減少し、不景気はいっそう深刻化するという意見もあいついで出された。 なかでも、政府を手こずらせたのは、司法省判事の反対運動であった。
旧裁判所構成法第七三条には、
第七四条乃至第七五条ノ場合ヲ除ク外判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルニ非サレハ 其ノ意ニ反シテ転換転所停職免職又ハ減俸セラルルコトナシ 【中略】
とある。
司法省の判事たちは、この規定をたてに、減俸は法律に違反すると迫ったのである。 与党の民政党内部からも、これでは総選挙に悪影響をあたえるという不満の声が高まっていった。 これらの猛反対に直面して、ついに浜口首相は閣議を開き、その撤回を決定した。 井上蔵相は、最後まで撤回には反対であったが、浜口に説得されてついに折れた。
引用官吏減俸問題で世論がわいているさなかの一〇月一七日、 財務官津島寿一は、井上蔵相・土方日銀総裁との協議を終えて、ひそかにニューヨークへむかった。 西海岸バンクーバーにつき、ニューヨーク行きの汽車のなかで、津島は、“ウォール街で株価大暴落”の第一報をうけた。 これが、そののち全世界を巻きこむ大恐慌にまで発展するとは、誰しも夢にも思っていなかった。 ニューヨーク着は一一月一日。その日、米財界の首脳部は、J=P=モルガン商会に集まって対策を鳩首協議中であった。 同四日の月曜日から、津島は、モルガン商会のラモントをはじめとする銀行家とクレジット設定の交渉にはいった。 その間の経緯は、津島の随想集『芳塘随想』第九集に簡単だが記されている。
それによると、モルガンの首脳たちは、日本政府はなぜ新平価で解禁しないのか、 日本経済の実力では旧平価は無理であると語ったという。 クレジットの設定は、外国金融界が必要に応じて金を貸そうと約束するところに意義があるのであって、 それには精神的支援を必要とする。 米財界人が旧平価解禁に不安感を示したことはそれだけ交渉をむずかしくさせた。 しかも、交渉中の一一月上旬、津島は、日本政府から、一一月中旬に金解禁の大蔵省令を公布するとの電報をうけとった。 東京出発前、彼は、井上蔵相から、翌三〇年(昭和五)一月に省令の公布をおこない、 同時に金解禁実施にふみきると聞かされていたのである。
突然の方針変更に、津島財務官は驚いた。 交渉を急がなければならない。彼は、米財界人にたいして、 浜口内閣は官吏の減俸までおこなって財政緊縮を推進する覚悟でいる、 浜口首相井上蔵相を信頼してほしいと訴え、ついに一一月中旬に、英米両国銀行団との間にクレジット設定に成功した。
引用一九ニ九年(昭和四)一〇月二四日の朝、ニューヨークのウォール街を、 株式市場最悪の暴落がおそった。 すでに何日にもわたってニューヨーク株式取引所の相場は下落をつづけていたが、 この日の朝、ついに気違いのような恐慌がおこったのだ。 チッカー(相場表示テープ)は、主力株が売りに出されるたびに、二ドル、三ドルと下げ、 ときには五ドルの下落を伝えた。 USスティール、ゼネラル=エレクトリックなどの花形株が枕をならべて暴落を演じた。
のちに「暗黒の木曜日」として知られるこの日一日だけで、一二八九万四六五〇株が売買されたが、 株式取引所の事務員が株価を読みあげるたびに、つめかけた投資家たちは息をのんだ。 わずか数週間前に四〇〇ドル前後であったゼネラル=エレクトリック株は、 この朝三一五ドルで寄りついたが、たちまち二八三ドルにすべり落ちた。 ラジオ株にいたっては、午前中六八ドル四分の三であったのが、午後には下落の一途をたどり、 ついに四四ドル二分の一にまで暴落するというありさまだった。 景気の先行きに不安を感じた投資家たちが先を争って売り急いだため、ますます株価を奈落に追いこんだのである。
引用予算案の審議が大詰めにちかづいた三月一〇日から、 浜口雄幸は傷病の身を押して登院、首相の責任をはたそうと最後の力をふりしぼったが、 議会閉会後、ふたたび健康が悪化し、四月四日には、帝大病院塩田外科へ再入院しなければならなかった。 ここにいたって浜口は、民政党総裁辞任の決意をかため、若槻礼次郎がそのあとをついだ。 ちなみに浜口は、その後八月二六日、息をひきとることになる。
引用減俸案が発表されると案の定、猛烈な反対運動がおこった。 前回は司法省判事の反対がつよかったが、今回は鉄道省・逓信省の従業員がもっとも激しく抵抗した。 しかしながら政府は、若干の譲歩をしたのみで、ついに官吏減俸案を最終的に決定、六月一日から実施にふみきった。
減俸率は、月俸一〇〇円以上、年俸一二〇〇円以上の者にたいし、最高二割、最低二分、 退職金は現行どおりというものであった。 官吏の減俸にならって、地方府県吏員、そして小学校教員の減俸もおこなわれた。
引用第二次若槻内閣にとどめをさしたのは、 井上の財政政策に反対する安達謙蔵内相一派の協力内閣運動であった。 英国マクドナルド内閣の挙国一致内閣にならって、安達らは、政友会との連立内閣をつくり、 この非常事態に対処しようとしたのである。 しかし、その背後には、ドル買い筋が暗躍していたといわれる。 ドル買い筋が思惑どおり利益をあげるためには、若槻内閣を倒して、金輸出再禁止をさせる必要があったのである。 三一年一二月一一日、若槻内閣は閣内不統一によって総辞職に追いこまれた。 二日後の一三日、政友会総裁犬養毅が後継首相に推され、同内閣は即日金輸出再禁止をおこなった。
米価暴落と浜口内閣
引用米価崩落のきっかけをつくったのは、 一九三〇年一〇月二日の政府の米作予想の第一回発表であった。 この日、町田忠治農相は、同年度の米収穫高を、過去五か年平均にくらべ一二・五パーセント増の六六八七万石と発表した。 この政府発表が引き金となって、翌日の一石あたりの米価は、八月の三〇円五〇銭、九月の二八円七〇銭から、 いっきょに一九円台に暴落した。 この豊作予想は、たちまち米穀市場を大混乱におとしいれ、一〇月二日から三日にかけて、 東京・大阪をはじめ各地の米穀取引所が立ち会い(取引)不能となった。 農村に肥料を供給していた肥料製造会社も痛手をうけ、早くも操業短縮必至との声があがりはじめた。
『農村の崩壊』(一九三〇年)の著者久保寺三郎は、この政府発表は意図的なもので、 浜口内閣の「合理化」を推進するとともに、「小農の負担に於いて、 産業合理化が生み出した都市失業労働者の反抗を緩和せんとする一石二鳥の政策」としてこの豊作予想を利用した、 というのである。一九三〇年は、あいつぐ米価暴落によって、「豊作飢饉」とよばれる状態が現出した。 翌三一年は、一変して、東北・北海道が「凶作飢饉」に見舞われた。 この年から、農業恐慌は本格的・全面的となったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。