「ヒトラーの時代(上)」
参考書籍
一覧 データ
書籍: 文庫(200ページ)
目次: まえがき
はじめに
1 ヒトラーの政権への道
2 「世界観」につかれた独裁者
3 ヒトラーの初期の外交
4 ローマ−ベルリン枢軸の形成
5 ヒトラーをむかえるフランスとイギリス
6 スターリン体制の栄光と悲惨
7 ローズヴェルトの登場
8 ひろがる極東の戦火
この本を入手
引用一九三三年一月三十日。その日、ベルリンの町並は雪にけむっていた。 午前十一時ごろ首相官邸にはいったヒトラーは、最後の折衝にやや手間どったが、しかし正午ごろには、 ついにみずからを首班とする新政府の宣誓式にこぎつけることができた。
「わたしはつぎのことを誓います。 わたしはドイツ国民の福祉のために力をつくし、ドイツ国民の憲法と法律をまもり、わたしは課せられた義務を誠実に履行し・・・・・・」
ワイマル時代の先例にならって、まず新首相のヒトラーヒンデンブルク大統領のまえにすすみで、 右手をあげてこのように宣誓した。 つづいて、他の閣僚たちもそれにならった。 当時すでに八十五歳の高齢に達していたヒンデンブルク大統領は、じっと閣僚たちの宣誓に耳をかたむけていたが、 最後にただひとことこういった。「では諸君、神とともにすすまれんことを!」
これで宣誓式はおわった。 ここに、ヒトラーを首班とするドイツのあたらしい政府が正式に誕生したのである。
その夜のベルリンは、ブランデンブルク門付近を中心に夜っぴて喧騒につつまれる。 制服を着たナチスの突撃隊員、親衛隊員、ヒトラー青年団、それに老若男女をまじえた一般市民 ―これらのひとたちの織りなす松明行進の列が、 つぎからつぎへとひきもきらずにブランデンブルク門をくぐりぬけ、首相官邸のあるヴィルヘルム通りにむかって行進した。 歌い、叫び、鉤十字の旗をうちふりながら。 午後七時ごろにはじまったこの光と興奮の列は、夜半をすぎてもなおたえなかった。
あかりのついた首相官邸の窓ぎわでは、ヒンデンブルク大統領も、ステッキを手にじっと外の光景をみいっていた。 が、その夜官邸のまえを通りすぎる群衆の関心は、この老大統領のほうにはない。 そこからすこしはなれた別の窓では、ヒトラーが彼独特の大きな身ぶりで行進の列にむかって挨拶をおくっていた。 いうまでもなく、彼こそは、この夜のベルリン子たちの陶酔のたねであった。
ヒトラー政権誕生の報によって興奮につつまれたのは、なにも首都のベルリンばかりではなかった。 ベルリンの模様は、ラジオでドイツ全土に放送された。 そして他の多くの都市でも、ベルリンにならった祝賀行進の列が、ナチスの党員や一般市民によって組まれた。
引用二三年という年は、フランス軍がドイツの賠償義務不履行を口実にルール(ドイツの重工業地帯)に侵入し、 それにともなってインフレーションが破天荒な進行をしめし、第一次大戦後のドイツの混乱がその極に達した年である。 そこをねらってヒトラーは、この年の十一月八日夜、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールを舞台に、 クーデターをこころみたのだった。
その夜、ビュルガーブロイケラーには、バイエルン州総督カール(彼自身も右翼的な人物だった)の演説会がひらかれるというので、 この地方のおもだった政界・軍部の実力者たちが勢ぞろいしていた。 そこへ、ヒトラーは機関銃で武装したナチスの突撃隊員をひきいてのりこみ、 ピストルで威嚇しながら、カール以下、バイエルン州の国防軍総司令官、警察部長といった大物たちを一室にとじこめてしまった。 そして彼らを、否応なくみずからのとなえる「国民革命」の計画に賛成させた。 ヒトラーのいう「国民革命」とは、ミュンヘンの右翼勢力が団結してベルリンの中央政府をたおし、 あらたにヒトラー自身を首班とする「国民政府」をつくろうというものだった。
だが、こんなヒトラーの景気のよい計画も、わずか一夜の運命にすぎなかった。 というのも、いったんはピストルの威嚇に屈してヒトラーの計画に同意をしめしたカールたちも、 ヒトラーがちょっと油断して会場をあけたすきに逃げだし、ただちにクーデター鎮圧のための手をうちはじめたからである。 翌九日の昼すぎ、ヒトラーを先頭にナチスやその支持者がミュンヘン市中をデモ行進したとき、 バイエルン州警察が突如その列におそいかかった。 そしてたちまちのうちにヒトラーのひきいるデモ隊の隊伍はみだれ、 十数人の死傷者がでた。 ヒトラー自身は、自動車に乗ってどうにかその場を逃げだすことができたが、しかし二日後には、 ミュンヘン郊外の知人の家にかくれているところを逮捕された。 そしてまもなく、裁判にかけられたうえ、ランツベルクの要塞に監禁される身となったのである。
引用ナチスの必死の努力にもかかわらず、一九三三年三月五日におこなわれた国会選挙の投票結果は、 ヒトラーにとってかならずしも満足すべきものではなかった。 なるほど、ナチスの議席数は前回よりも大幅に増加した。 だが、同党の得票率が四三・九パーセントにとどまり、単独で国会の過半数を制するこころみは今回も失敗におわったのである。
けれどもヒトラーは、こうした選挙結果によっても、「合法的に」独裁権をにぎるという努力を放棄しなかった。 選挙のつぎに彼が意図したことは、あたらしい国会で全権委任法 ―正確には「国民と国家の窮状を除去するための法律」―を成立させることであった。 この法律は憲法を変更するものであったから、その国会通過のためには、三分の二の同意が必要であった。 ヒトラーは、舞台裏でのおどしと甘言をまじえて、ついに最後には社会民主党をのぞくすべての政党の賛成をとりつけることに成功する。 もちろん、そこにいたるまでには、政党の側に多くの躊躇や内的葛藤があった。 とくに事態の鍵をにぎっていた中央党の内部では、元首相のブリューニングをはじめとする人たちがこの法律に反対を主張した。 だが結局、中央党の場合にも、また国家党、人民党といった自由主義政党の場合にも、つぎのような考えが勝ちをしめた。 もしも議会がこの法律を拒否すれば、ヒトラーをますます恣意的な暴力支配に走らすことになるだろう。 たとえヒトラーに強大な権限をあたえる悪法であっても、法律は、ないよりましだ。 ―この「・・・・・・よりはましだ」という思考様式こそ、 実はヒトラーにつけいる隙をあたえるものだったのである。
それにしても、三月二十三日の全権委任法の国会採決は、まことに異様な雰囲気のなかでおこなわれた。 国会議事堂はすでに焼失していたので、クロル・オペラハウスが議場にあてられたが、 当日この建物の内外には、黒シャツの親衛隊員や褐色のシャツの突撃隊員がたくさんおしかけていた。 そうしたなかでみずからも褐色のシャツを着たヒトラーが、大きな鉤十字旗を背に演説をおこなった。 彼は、大統領の権限をおかすつもりはないとか、教会の地位は尊重するといったふうに、 適当に中央党などの気をひいたかと思うと、また、こんなふうにおどしもかけた。
「・・・・・・たとえ全権委任法が拒否されても、政府は前進するつもりだ。 戦争か平和かを決定するのは、議員諸君、あなたたちだ」
結局この法律は四四一対九四票で国会を通過するが、 それにさきだって社会民主党のオットー・ヴェルスがこころみた勇敢な反対演説は、 ドイツ国会の演壇からのナチスに対する最後の抵抗となった。 なお共産党は、すでに弾圧されており、議会に出席さえみとめられなかった。
こうして生まれた全権委任法は、ヒトラーに対して国会の同意なしに自由に法律を制定する権限をみとめるという、 途方もない内容のものだった。
ヒトラーの人種政策
引用ヒトラーの国内政策のなかでももっともヒトラー的な政策といえば、やはり、その人口政策であり、人種政策であろう。 ドイツ民族の「生物学的な」繁栄をはかるために、ヒトラーは、 二十世紀の文明社会でまったく信じがたいようなことをつぎつぎに実行にうつしていった。
たとえば、一九三三年の優生法や三五年の婚姻健全法の制定、これらの法律によって、 結婚は十分な医学的・優生学的な検査をまってはじめて許可されることになった。 そして「生物学的にみて好ましくない」ひとびと―つまり、精神病や聾唖の遺伝のあるもの、 常習犯罪者など―に対しては、その生殖を阻止するために断種が強制されるようになった。 個々の場合に断種の適否を判定する優生裁判所とよばれる機関さえ設置された。
ナチスは、健康なドイツ婦人に対しては、既婚・未婚を問わず、出産を大いに奨励した。 それにひきかえ、民族の負担になると考えられる病弱者や老人に対しては、まことに冷酷にふるまった。 この非人道的な政策は、やがて第二次大戦中には、「安楽死計画」というおそるべき着想にまで発展する。
引用ナチスの政策のもっとも醜悪な面は、なんといっても、ユダヤ人に対する迫害であった。 すでに政権獲得後まもないころから、ユダヤ人商店のボイコット運動がおこなわれ、 また、ユダヤ人官僚を追放するための法律も制定された。
だが、一九三五年九月にいわゆるニュルンベルク法が定められるとともに、ユダヤ人に対する迫害は、 いっそうきびしい段階にはいった。 この法律によって、ユダヤ人はドイツ国籍を剥奪され、アーリア人種との結婚も禁止された。
引用ナチス政権下におけるユダヤ人の受難は、とどまるところを知らなかった。 一九三八年十一月九日の夜には、「水晶の夜」とよばれる悲劇が、ドイツ全土のユダヤ人のうえにおそいかかった。 それより二日前の十一月七日、パリで十七歳のポーランド系ユダヤ人少年が、ドイツ大使館員を射殺するという事件がおこった。 その動機は、ドイツに住んでいた彼の両親が国外追放の憂き目にあったことへの恨みであった。 ところが、ドイツ政府の宣伝相ゲッベルスは、これを国際的ユダヤ人のドイツに対する憎悪のあらわれだと宣伝し、 あらゆる手段でドイツ人の反ユダヤ主義感情をあおりたてた。 その結果、九日の夜には、ドイツのいたるところで、ユダヤ教会が焼かれ、七千軒にのぼるユダヤ人の商店が破壊され、 約三千人のユダヤ人がとらえられて強制収容所におくられ、さらに、九十人の死者がでるという悲劇がくりひろげられたのだった。
しかもこの事件の直後から、ナチス指導者のあいだでは、「ユダヤ人問題の最終的解決」という不吉なことばが口にされるようになった。
引用ハインリヒ・ヒムラー。その父は高等学校の校長をつとめたこともあり、ヒムラー自身、一見すると、 物腰のやわらかい学校の校長のようなタイプにみえた。 だが実際には、そうした外見とはうらはらに、彼はヒトラーの人種理論の忠実な使徒として、過酷なナチスの弾圧政治の実行者となったのだった。 あの悪名たかい秘密国家警察もふくめて、すべての政治警察機構は親衛隊の組織に組みいれられ、 ヒムラーとその協力者ハイドリヒの意のままに動かされた。
引用ヒトラー外交の積極化をしめす第一弾は、一九三三年十月十四日の国際連盟および軍縮会議からの脱退であった。 脱退の理由とされたのは、軍縮会議でイギリス、フランスがドイツだけを不平等にとりあつかおうとしているということだった。 だが、もともとヒトラーにとっては、国際連盟と軍縮会議からの脱退は、最初から時間の問題にしかすぎなかったのだ。 というのも、国際連盟をはじめとする従来の集団安全保障の体制をうちくだき、それにかえて、 みずからの征服計画の実行に有利な二国間同士の協定をむすんでゆくことが、当面のヒトラーの外交方針にほかならなかったからである。 それに、軍縮交渉に長くかかわりあうことで、ドイツの再軍備が長く掣肘をうけることも、ヒトラーの好まぬところだった。
ドルフース首相暗殺
引用独墺の合邦は、ヒトラーの年来の主張であり、東方への侵略計画をすすめるにあたって、 なによりもまずかたづけなければならない第一の課題であった。 したがって、ことオーストリアに関しては、ヒトラーは、政権獲得の当初から積極的な態度をしめした。 すなわち、合邦の意図を公然と語り、またオーストリア国内におけるナチスの運動を指嗾することにつとめた。 そして一九三四年七月二十五日には、ついにオーストリア・ナチスを蜂起させ、この国の権力の奪取をはからせたのである。
このオーストリア・ナチスのクーデターのおこなわれた日、ヒトラーは、バイロイト ―毎年夏にひらかれる音楽祭で有名なマイン川上流の都市―で ワグナーの歌劇を鑑賞していた。 しかし、この時点にヒトラーがベルリンをはなれてこんな場所にいたのは、おそらく、 ウィーンの事件と無関係なことをしめすための、アリバイ工作であったのだろう。 オーストリア・ナチスがヒトラーの指示によって蜂起したことは、まちがいない。
七月二十五日の正午ごろ、陸軍の制服で変装したオーストリア・ナチスの一隊は、 トラックで首相官邸にのりつけ、閣議をおえたばかりの首相ドルフスに二発の銃弾をあびせた。 ドルフスは、ナチス・ドイツとの合邦に反対し、国内でもオーストリア・ナチスにきびしい弾圧政策をとっていた人物だったのだ。 首相官邸への襲撃とおなじころ、別のオーストリア・ナチスの一隊は、ウィーン放送局の占拠にも成功した。 けれども、クーデターの計画がうまくはこんだのも、ここまでであった。 間一髪の差でナチスの凶弾をまぬかれた閣僚たちが敏速な対抗措置をとり、その結果、 オーストリア・ナチスはほどなく鎮圧されてしまったのである。
引用まず三月十日、ゲーリングが、ドイツ空軍の存在を公式にあきらかにした。 ついで十六日、ヒトラーは、ラジオ放送によってドイツにおける徴兵制の復活を宣言し、 同時にドイツ軍隊を三十六個師団、約五十万に増強する計画も発表した。 いうまでもなく、ヴェルサイユ条約は、ドイツに対して、空軍をもつことも、徴兵制を採用することも禁止していた。 だから、ヒトラーによってとられたこの措置は、ヴェルサイユ条約に対するまっこうからの挑戦にほかならなかった。
もちろん、ドイツはすでに二年来空軍の建設をすすめていたし、また、ヴェルサイユ条約の規定をこえた兵力の拡張もおこなっていた。 そしてそのことは、国外にもかなりよく知られていた。 しかし、ヒトラーがいまその事実を世界のまえにこれみよがしに公言し、 しかも徴兵制の実施にまでふみきったことは、やはり、大きな国際的波紋をまきおこさずにはおかなかった。
ストレーザ戦線
引用とりわけヒトラーの措置に衝撃をうけたのは、イギリス、フランス、イタリアといった国国である。 これら三国の政府首脳は、四月十一日から北イタリアのストレーザでムッソリーニを議長とする会議をひらき、 ドイツの再軍備宣言に対する対策を協議した。 そしてその結果、ドイツによる「条約の侵害に対し、あらゆる手段をもって対抗する」旨の声明を発表した。 こうしてうちたてられた英仏伊三国の提携関係は、「ストレーザ戦線」とよばれる。
この「ストレーザ戦線」が結成されたことにより、ドイツは、国際的孤立のなかにおちこんだように思われた。
引用「ストレーザ戦線」の結成からわずか二ヵ月後の一九三五年六月十八日、ロンドンで英独間に海軍協定が調印された。 この協定は、ドイツに対し対英三五パーセントの艦隊の保有をみとめたものであった。 また潜水艦については、対英六〇パーセント、非常の場合にはイギリスと同等の艦数の保有もみとめていた。 ヴェルサイユ条約は、その第五条において、ドイツの保有できる海軍力を一万五〇〇〇トンに制限し、潜水艦の建造は、 これをいっさい禁止していた。 したがって、いまイギリスが右のような海軍協定をドイツとのあいだにむすんだことは、 とりもなおさず、イギリスがみずからヴェルサイユ条約の軍縮条項の死滅をみとめたことにひとしかった。
【中略】
ヒトラーは、この協定によって「ストレーザ戦線」に大きな風穴をあけることができた。
ムッソリーニ、エチオピア併合宣言
引用一九三六年五月五日には、バドリオ将軍にひきいられたイタリア軍が、首都のアディス・アベバを占領した。 これにさきだつこと二日、ハイレ・セラシェ一世はエチオピアを脱し、ジュネーブを経由してイギリスへの亡命の途についた。 こうして、ここにムッソリーニのエチオピア征服は完了をみるのである。
五月九日、ムッソリーニは、ローマのヴェネツィア宮殿のバルコニーから、熱狂する群集にむかって宣言した。 エチオピアをイタリアに併合し、以後イタリア国王がエチオピア皇帝を兼ねる、と。 ときにムッソリーニは五十二歳、その生涯における最大の勝利の美酒に酔いしれていた。
ラインラント進駐
引用ライン川と独仏国境のあいだに横たわる地域(より正確にはライン右岸五〇キロおよびライン左岸の地域)は、 ドイツの領土でありながら、ドイツの軍隊を駐留させることは禁ぜられていた。 この規定は、最初ヴェルサイユ条約によって否応なくドイツにおしつけられたものである。 しかし、その後一九二五年にロカルノ条約をむすんだ際、ドイツは、自発的にこの規定をうけいれるにいたっていた。
ライン右岸の地域にドイツの兵力が配置されているかどうかは、独仏関係にとって決定的といってもよいほどの重要性をもっていた。 この地域が非武装化されているかぎり、フランスは、いつでも簡単にライン流域のドイツの重工業地帯に攻めいることができただろう。 つまり、ヒトラーの側からみると、たとえその本来の計画である東方進撃を開始しても、 ただちにその背後をフランスにつかれる危険があったわけである。 だから彼が、できるだけはやい機会に「西部国境におけるドイツ主権の回復」をめざしたのも、十分うなずけることである。
一九三六年三月七日、土曜日。ヒトラーは、いよいよこの日を行動の日と定めた。 前年の再軍備宣言の場合もそうであったが、土曜日が行動の日にえらばれたことには、それなりの理由があった。 週末は、関係国政府の動きがにぶり、対抗措置がとられにくいことが、ちゃんと計算にいれられていたのである。
しかし、ラインラント進駐を敢行するにあたっては、ヒトラーの周囲に自重をすすめる声があった。 というのも、フランスがこのドイツの行動を傍観するはずはないであろうし、もしも、フランスが対抗措置として進撃してくれば、 再軍備が緒についたばかりの劣勢なドイツの兵力では、とても抗しきれないだろうとおそれられたからである。 しかしヒトラーは、こうした周囲の警告に耳をかさなかった。 彼は、フランスは進撃してこないだろうという判断に賭けた。 そして、このヒトラーの賭けは、みごとに的中したのである。
もっとも、ヒトラーといえども、フランスの出方に完全な確信があったわけではない。 彼自身、のちになってこう告白している。
「ラインラント進駐後の四十八時間は、自分の一生のうちでもっとも神経を緊張させた時間である。 もしも、あのときフランス人が進撃してきていたなら、われわれは、しっぽをまいて退却するほかはなかったであろう。 というのも、われわれが動かしうる軍事力は、ひかえめな抵抗をおこなうのにさえも、まったく不十分なものだったから」
とまれ、ラインラント進駐は、西方諸国の抵抗に出会うことなしに、あっけなく成就した。 さしあたりライン川をこえてアーヘン、トリール、ザールブリュッケンの諸都市にむかったドイツ軍は、 わずか三大隊にすぎなかった。 けれども、この公然たるロカルノ条約の侵犯行為に対して、西方諸国がなんの効果的な手もうちえなかったとき、 ドイツをとりまくヨーロッパの戦略状況は、大きく変化した。 ヒトラーは、これによって、その東方への征服計画をおしすすめるための体制に大きく一歩をすすめることができたのである。
スペイン人民戦線内閣成立
引用一九三四年十月の蜂起が鎮圧されて以後は、政権はますます反動化し、左翼にとって「暗い二年間」とよばれる時期がつづいた。 だが、一九三六年二月の総選挙とともに、左の勢力がふたたび息を吹きかえす。 この選挙にのぞむにあたって左派共和党、共和統一党、社会党、共産党などの諸政党は、 あらかじめ当面の政策について協定をむすび、その連合した力によって右翼政党を敗退させた。 この結果、スペインには、いわゆる人民戦線政府―つまり、 ブルジョワ左派から共産主義者までをふくめた幅ひろい勢力に基礎をおく政府は―が誕生した。 これは、スペインにかぎらす世界史のうえでも画期的なことにちがいなかった。 むろん、その背後には、第七回コミンテルン大会(一九三五年夏モスクワで開催)が、 ファシズムの危険に対抗するために共産党からブルジョア政党にいたるまでの統一戦線の結成をよびかけたという事実があった。 けれども、すくなくともスペインの場合には、コミンテルンの影響はあまり大きくみすぎてはならないであろう。 もともとスペインの人民戦線が発足した当時は、コミンテルンの影響下にあるスペイン共産党の勢力は、 微々たるものにすぎなかったのだから。
引用フランスの場合とことなり、三〇年代なかばのイギリスの国内政治は、比較的安定していた。
当時のイギリス政府は、保守党、挙国派自由党、挙国派労働党からなるいわゆる挙国政府である。 一九三一年夏に労働党政府退陣のあとをうけて組織されたこの政府は、同年十月の総選挙で大勝をおさめ、 それ以来、議会で圧倒的な優勢をほこっていた。 一九三五年におこなわれた総選挙では、なるほど、野党の労働党がかなり力をもりかえす。 しかしそれでも、議席の圧倒的多数が挙国政府の支持者によってしめられているという状況にかわりはなかった。
挙国政府は、はじめその首班を、挙国派労働党をひきいるマクドナルドにあおいだ。 だが、実際にこの政府のなかで発言権をもっていたのは、首相のマクドナルドよりも、 むしろ副首相格のボールドウィンや蔵相のチェンバレンなど保守党の閣僚であった。 一九三五年六月にマクドナルドが病気でしりぞき、ボールドウィンが首相に就任するとともに、挙国政府の保守党色はいっそうつよまった。
挙国政府の誕生した一九三一年当時は、イギリスが恐慌のまっただなかにおかれていた時期である。 失業者は、この年二七〇万にも達した。 しかし、このような状況のもとで登場した挙国政府は、恐慌克服のためになかなか機敏な動きをしめした。 金本位制からの離脱(一九三一年)、輸入関税法の制定(三二年)、オタワ会議における自治領諸国との経済的提携の強化(三二年)などは、 この政府の施策の代表的なものである。 そのほか、農業振興のための市場調整や奨励金の交付、鉄鋼、石炭、造船などの伝統的産業の合理化促進、 低金利政策・・・・・・など、挙国政府が恐慌克服のためにうった手は、多岐にわたった。
引用農業調整法(AAA)。この法律は、むろん、農業の不況克服をめざしたものであった。 単に農産物の販売面の規制だけではなく、生産面の調整もおこなおうとしていたことが、注目される点である。 生産制限に農民を同意させるかわりに、莫大な額の補償金を彼らに分配することが約束された。
引用テネシー川流域開発公社法(TVA)。 ニューディールを口にするときに忘れることのできない法律であろう。 この公社のおもな目的は、安価で豊富な電力を供給するために、ダムを建設することであった。 が同時に、それに関連して、肥料の生産、運河の開鑿、植林などの多角的な事業にもあたるべきものとされた。 要するに、当時アメリカでもっとも荒廃しているといわれた約十万平方キロにわたるテネシー川流域を政府の手で綜合的に開発するのが、 そのねらいだった。
引用全国産業復興法(NIRA)。産業界のたてなおしをめざした初期のニューディールのもっとも代表的な法律である。 しかし、その成立にあたっては、財界、労働界、ニューディーラーたちがそれぞれの立場からこの法律に自分たちの利益や主張をもりこもうとしたために、 結果的には、オムニバス的なものとなった。 すなわち、一方で財界の要求をいれて、反トラスト法の規制を免除し、各産業界の自主的統制をみとめ、 他方では、労働者のために団体交渉権を保障するとともに、最低賃銀、最高労働時間の原則をとりいれるといったぐあいだった。 そのほか、失業救済を目的として、公共事業に三十三億ドルを投下することも、この法律で定められた。
引用三〇年代にはいってくりかえされた蒋介石の共産軍討伐戦は、一九三三年十月にはじまる第五次討伐戦において、峻烈の極に達する。 すなわち、河西の中央ソヴェート区のまわりに鉄条網でつながれた頑丈な調堡()の輪をはりめぐらし、 軍事的にも経済的にも共産軍をしめあげていったのだ。 この結果、孤立したソヴェート区内部の物価は騰貴し、住民に塩を十分に供給することさえできなくなってしまった。 「敵を深くさそいこむ」という毛沢東お得意のゲリラ戦法も、こうしたの調堡()戦術のまえには無力だった。 紅軍の全滅をさけようとすれば、敵の包囲網を脱して本拠の移動をはかるほかはない。 そこで、ついに一九三四年十月十六日、約九万の紅軍主力は、夜陰に乗じて封鎖を突破し、いわゆる長征の途につくのである。
引用一九三六年の十二月はじめ、蒋介石は、おりから陝北地区の共産軍討伐にあたっていた張学良、楊虎城の軍隊を督戦するために、 西安に飛んだ。 ところが、すでにそれ以前から共産党の統一戦線結成のアピールに耳をかすようになっていた張学良たちは、十二日、 突如蒋介石を幽閉する挙にで、その方針の転換(つまり内戦の中止と抗日のために統一戦線の結成)をせまったのだった。 は、はじめのうちこの要求を拒絶した。 だが、まもなく西安にまねかれた中共代表の周恩来の斡旋もあって、この年もおしつまった十二月二十四日、 ついに両者のあいだに和解が成立した。 蒋介石は、釈放されて南京への帰還をみとめられるかわりに、たちの要求をうけいれたのである。
スチムソン・ドクトリン
引用一九三二年一月、フーヴァー政権の国務長官スティムソンは、いわゆるスティムソン・ドクトリンを発表し、 (一)国際連盟による日中間の紛争の終局的解決への期待、(二)中国の主権、領土の保全、門戸開放などの原則に対する侵害行為の不承認、 といった立場をあきらかにする。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「調堡」の「調」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。