「知将 秋山真之」
参考書籍
著者: 生出寿(おいで・ひさし)
発行: 徳間書店(1992/05/15)
書籍: 文庫(381ページ)
定価: 540円(税込)
初版: 光人社(1985/12)
目次: まえがき
第一部
空前の海軍戦術家
恩師八代六郎と親友広瀬武夫
偉兄秋山好古
日本古来の名戦法
秋山流軍学
戦うか、ロシアの属国か
対露戦の連合艦隊司令部
初陣の日清戦争
智名もなく勇功もなし
英傑丁汝昌の最期
第二部
一家全滅すとも怨みなし
広瀬少佐とマカロフ中将
危機のなかの東郷
唯一の名航海
天下分け目の黄海海戦
児玉源太郎の神算
「七段構え」の全滅作戦
天気晴朗ナレドモ浪高シ
絶好機の「丁字戦法」
智謀湧くがごとし
あとがき
補足情報:
幸運、天佑神助をひっくるめ、小国日本が、どのようにして大国ロシアの大軍を破り、その侵略を撃退することができたのか。 それを、連合艦隊参謀(開戦二ヵ月後から先任参謀)の秋山真之の行動を中心にして、もういちど見なおし、 今日の問題を解決するヒントをさぐることにしたい。 (まえがき)
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引用鈴木は、日清戦争では水雷艦長、日露戦争では駆逐艦司令として、おどろくべき大戦果をあげ、 “鬼貫太郎”とうたわれた勇士だが、曲がったことが大きらいの、外柔内剛の人物であった。
引用大正三年(一九一四年)二月、ドイツのシーメンス兵器会社その他への軍需品発注にからみ、 海軍の高級将校数名がワイロを受け取っていたことがバクロされ、議会で責任を追及されて、 三月二十四日、海軍大将の山本権兵衛内閣が総辞職した。
松本和中将(兵学校第七期)がイギリスのアームストロング社から、 沢崎寛猛大佐(兵学校第十七期)がシーメンス社から、 藤井光五郎機関少将その他がイギリスのヴィッカース社、三井物産から収賄していたのである。
四月十六日に大隈重信内閣が成立し、前海相斎藤実大将(兵学校第六期)に代わり、 大隈のフトコロ刀の加藤高明外相のすいせんで、八代六郎中将が海相となった。
八代は、鈴木秋山と協議のうえ、山本斎藤は、たとえ海軍育ての親であっても、 監督上の責任で、予備役に退くべきであると判断し、そのような処置を取ろうとした。
引用好古は明治十年(一八七七年)に陸軍士官学校に入り、明治十八年に陸軍大学校を卒業した。
その後、日本陸軍ではじめて騎兵隊をつくり、育成し、日清、日露戦争で大活躍した。
日露戦争では、小部隊の騎兵旅団を指揮して、世界最強と言われるコサック騎兵の大集団をふくむロシアの大軍を破り、 日本軍を勝利にみちびく大功を立てた。
その戦いぶりは、楠木正成、源義経、織田信長に勝るとも劣らないほどである。
好古は大正五年(一九一六年)に大将となり、やがて元帥になると目されていたが、 そのまま大正十二年に予備役となった。 当時の陸相田中義一によると、好古が辞退したからだという。
好古と陸軍士官学校第三期の同期生で元帥となった上原勇作は、
秋山は典型的な古武士的風格のある武将で、もうこののち、ああいう人間は種切れになるだろう」
と語っている。
好古は無造作、無欲恬淡、豪放磊落、酒好きの大仙人といった男で、部下たちは、器量が大きく、 戦に強い頼もしいおやじと敬愛していたようである。
小柄な真之とちがい、体つきも顔かたちも大きかった。
顔では、きわだって切れ長の大きな目、高々とした鼻、象のように大きな耳がめだった。 将軍になってから、日本のヒンデンブルグと綽名されたが、まさしくドイツ人のようであった。
幼名は信三郎と言い、子どものころは、「鼻信」と綽名されていた。
丁汝昌自殺
引用「鎮遠」の丁汝昌は、港外に撃って出て、最後の一戦に全力を尽くして死のうと決意していたが、 どの艦長もどの水兵も、出撃に反対し、丁に降伏を迫った。
丁は降伏する以外に道がなくなり、二月十二日朝、威海衛の東どなりにある陰山口湾に停泊中の「松島」に、 軍使が乗って白旗をかかげた砲艦「鎮北」をおくった。
軍使程壁光(少佐)から伊東司令長官が受け取った降伏書には、要旨、つぎのようなことが書いてあった。
―私は初めあくまでも決戦し、艦沈み人尽きてから已まんと思ったが、 いまは百千の生霊を保全しようと願い、停戦を請いたい。 いま劉公島にある艦船および劉公島の砲台兵器をすべて貴国に献ずる。 よって戦闘員と人民の生命を傷害することなく、またかれらが島を去り、帰郷することを許されたい。
伊東はこれを全面的に受け入れ、返書を書いて程に渡し、合わせて、ころ柿、シャンパン、ぶどう酒を贈った。
翌十三日午前、代わって砲艦「鎮中」が、丁の返書をとどけに来た。
―ただいま覆翰に接し、生霊のために感謝す。 恵礼の物品はこの両国有事のさい、私受しがたいので、謹んでお返しいたします。
という主旨のもので、伊東が昨日贈った品々が添えられてあった。
伊東が読み終わると、喪服を着た軍使の程は形をあらためて言った。
「丁提督は閣下のご好意に感泣し、いまは思いのこすことはないと言われ、北京の方を拝し、 毒をあおいで自殺されました」
伊東は深く感動した。
程が帰ったあとの午前十一時、伊東は全艦隊にたいして丁汝昌の死を知らせ、 奏楽を禁じて、弔意を表した。
二月十七日夕刻、小雨のなか、丁の柩と三千五百余名の降伏兵を乗せた新商船康済号は、威海衛から出て行った。 芝罘に着き、そこからそれぞれの故郷へ帰るのである。
港内の連合艦隊各艦は半旗をかかげ、弔砲を発して見おくった。
下関条約調印
引用威海衛の戦いで日清間の戦闘は終わり、両国の講和交渉が三月二十日から、日本の下関ではじまった。 日本全権は首相伊藤博文と外相陸奥宗光で、清全権は宰相李鴻章である。
交渉ははじめ日本のペースで進んでいたが、三月二十四日、小山豊太郎という男が、 奸物を倒すと称してピストルでを撃ち、顔面に重傷を負わせてから、形勢は清国に有利にかたむいた。
小山がなぜそのような気持になったかというと、多くの新聞が「は奸物」と罵倒していたことに影響されたからであった。 だが、それらの新聞は、が撃たれると、手の平を返したように、の功績を称えはじめた。
日清間の講和条約は、四月十七日に調印され、四月二十日に天皇の条約批准がおこなわれ、 九ヵ月にわたった日清戦争は、ここに終わった。
しかし、一難去った日本に、すぐさま数倍の困難がふりかかってきた。 露、独、仏の三国干渉と、それにつづくロシアの清侵略である。
引用沈没しはじめた広瀬の福井丸は、左舷のボートを下ろした。
福井丸閉塞隊の一員だった戦艦「朝日」機関科の山本半二一等機関兵曹は、その後の広瀬少佐を、つぎのように語っている。
『右舷のボートには、砲弾がめちゃくちゃに飛んできて寄りつくことができない。
左舷のボートを下ろして、全員それに乗り移った。
少佐は、
「番号」
と人員点呼をされたが、一人足りない。
杉野上等兵曹(孫七、指揮官付)がいないというので、
「おれがさがしてくる」
と言って、上甲板にもどられ、
「杉野、杉野」
とどなりながら、何回もさがしておられたが、無駄だった。
そのうちに船は沈みかける。少佐は、
「残念だな」
と言われながらボートに乗り、艇尾の座席(筆者注・右舷)に腰をかけ、発進を令された。
六挺身ほど本船をはなれてから、電線で爆薬に点火した。(筆者注・広瀬がスイッチを押したようである)
わたしはストローク(艇尾にいちばん近い漕手席)を漕いでいたので、少佐とはすぐ向かい合っていた。
少佐は元気に、
「みな、おれの顔をよく見て漕げ」
と力づけながら、降りしきる砲弾と水煙のなかを、沖へ沖へとボートを進めさせた。
小池一等機関兵曹が、
「やられました」
とさけぶと、
「そうか、元気を出せ。代われ、代われ」
と言われた。その瞬間、
「うーん」
という声か呻きか、にぶいさけびが聞こえたので、ふと顔を上げると、少佐の首が見えず、 真っ赤な血がもくもくと首から溢れ出るうちに、その胴体がころりと海中に落ちこんでしまった。 (筆者注・広瀬は紺の冬軍装の上に外套を着ていて、さらにひきまわしを羽織っていた)
それは一瞬のできごとだった。
クソッと思ってオールを引くと同時に、わたしは胸のあたりに生温かいものを浴びせられた。 それは少佐の血で、壮烈ともなんとも言いようのない、思い出すだけでも身震いするような最期だった』(雑誌『東郷』昭和六十年二月号より)
広瀬はあと二ヵ月で満三十六歳であった。 広瀬が生きていれば、かれの満三十七歳の誕生日は明治三十八年五月二十七日で、 ちょうど連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅する日本海海戦の日と重なったのである。
第二回旅順港口閉塞作戦も失敗に終わった。
被害は、戦死広瀬少佐、杉野上等兵曹(行方不明が正確)、小池一等機関兵曹ほか一名、合計死傷十三名であった。
連合艦隊、魔の五月
引用五月なかばになると、連合艦隊は、マカロフの怨霊に祟られたように、つぎつぎに災厄に見舞われた。
五月十二日、大連湾ふきんで掃海をしていた第四十八号水雷艇が、ロシアの機雷に触れて沈没した。
五月十四日、おなじ海域で掃海隊を援護していた第五戦隊の通報艦「宮古」(一八〇〇トン)が、やはり触雷して沈没した。
五月十五日、出羽司令官の第三戦隊が、旅順沖から裏長山列島へ向かう途中、濃霧のなかで、 二等巡洋艦「吉野」の左舷に、一等巡洋艦「春日」が艦首から衝突して、「吉野」は艦長以下三百余名を乗せたまま沈没した。
同日、旅順沖のパトロールに出た第一戦隊司令官梨羽時起少将(兵学校期外、のちに中将)座乗の戦艦「初瀬」が老鉄山南東で触雷し、 つづいて戦艦「八島」も触雷して、両艦とも沈没した。
さらにこの日、第一艦隊の通報艦「竜田」(八六〇トン)が大連北東六十キロの光禄島南東岸にのし上げた。
五月十七日、砲艦「大島」が濃霧のなかで砲艦「赤城」に衝突されて沈没した。
同日、第一駆逐隊の「暁」が、老鉄山沖で触雷して沈没した。
十二日から十七日の六日間に、合計八隻、総トン数約三万五千トン、人員八百四十三名が海の藻屑と消えたのである。
とくになんと言っても、主力艦の「初瀬」「八島」がやられたことが、大きな痛手であった。
日露戦争後の秋山真之
引用日露戦争に、連合艦隊先任参謀として参加した秋山は、戦争の勝敗、人間の生死に、人間力を超えるナニモノかの力を感じた。
これを天佑、あるいは戦運ということばだけではかたづけられず、戦後すぐ霊力研究をはじめ、やがて宗教研究に入った。
はじめは神道であった。 神道家川面凡児に教えを受け、二人で皇典研究会というものまで設立した。
しかし、神道だけでは足らず仏教研究にうつった。 小笠原長生や佐藤鉄太郎らの日蓮宗団体天晴会に入り、観音経を身につけるようになった。 のちのことだが、死にぎわには般若心経を唱える。
秋山は、戦術研究のときに海賊戦法に熱中したように、大本教や「池袋の神様」などの新興宗教研究にも熱中した。 ただし、これからは得るものがなく、失望して仏教研究にもどった。
特定の宗教に帰依するようなことはなかった。 さまざまの宗教を研究し、そこからこれと思える宗教原理をつかもうとした。
秋山の長男大は、秋山の死後、
「世間が誤解しているように、大本教という宗教にカブレて毒されたということはないはずです。 父の宗教にたいする態度は結局において批判的でした。 世間ではなんと評そうと、父の宗教にたいする思想には一貫した条理がありました」
と語った。
親しくしていた山本英輔(兵学校第二十四期、連合艦隊司令長官、大将)は、
秋山さんは宗教に入りきるには、あまりに理性がありすぎた。 宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分というところで入りきれずに悩んでいたのではないかと思う」
と語った。
秋山は、理でつきつめられる戦術とはちがい、理でつきつめられない宗教では、 ついに秋山流の原理をつかむことはできなかったようである。
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