「20世紀B級ニュース」
参考書籍
著者: おもしろニュース研究会
発行: 角川書店(2000/12/01)
書籍: 新書(207ページ)
定価: 571円(税別)
補足情報:
“B級ニュース”には、庶民の暮らしの息づかいがあふれ、多くの災害や戦争などの苦難を通り抜けながら、 人びとはたくましく、したたかに、そして幸せを追い求めて奮戦しながら生きてきたことがありありと、 手にとるように感じられる。(まえがき)
この本を入手
引用東京・丸善が、英国タイムズ社とタイアップして「大英百科全書」(エンサイクロペジア・ブリタニカ)全二五巻を発売した。 代価はクロース製が一時払いで一七五円、月賦だと一九五円。総皮製が一時払い二八〇円、月賦三一五円だった。
一二月二六日に予約月賦販売を募集したが、最初に五円払い込めば、あとは毎月一〇円支払っていけばよいという方式が人気を呼び、 当初予定の五〇〇部はすぐに売り切れてしまった。 ただちに追加募集が行なわれ、翌年二月の締め切りまでに、一〇〇〇部の申し込み者を得た。
明治の文豪・尾崎紅葉は、この予約を忘れ、「エンサイクロペジア・ブリタニカを買いそびれたことはくれぐれも無念なり」 と悔やんだという。
イルミネーションとメリーゴーランド/内国勧業博覧会/1903
引用殖産興業政策の一環である内国勧業博覧会が三月、初めて大阪で開催されたが、 会場でひときわ人気を集めたのが、多数の電球を灯して飾る、いわゆるイルミネーションである。 「輝かす」という意味の英語だが、当時からイルミネーションという言葉がそのまま使われた。 博覧会会場のイルミネーションは六七〇〇個を超えたという。 あまりのまばゆさに、会場に押し寄せた入場者は、ポカンとした表情でただ見とれるばかりだったという。
これをきっかけに東京、大阪では一大イルミネーションブームが巻きおこり、 家々の軒先にまで電球を吊るすことが流行した。
【中略】
また、この博覧会に、初めてメリーゴーランドが登場。 「快回機」と呼ばれて、乗る人、見物人でごった返した。 当時の新聞記事には、「快回機は木馬にまたがり、愉快に回転する機械なり。 ・・・・・・二列の四十頭の鞍馬があり、四十名の坊ちゃんを乗せて、五分間を要して場内を一周するなり。 其の間、絶えず美妙の音楽を奏す。一回の使用料金五銭」とある。
三越呉服店誕生/1904
引用一二月二〇日、日本初の欧米のデパートメントストア(百貨店)風の商店三越呉服店が誕生。 前身の三井呉服店は、それまで業界の常識だった「座売り」を廃し、陳列販売に踏み切るなど、 常に日本の商法の先端をいく試みを展開してきたが、一九〇三年には呉服のほかに小間物の扱いをはじめ、 「今後一層、販売商品を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて用弁相成る様設備し、結局、 米国に行わるるデパートメントストアの一部を実現する」と報道された。 定款にも、この年「デパートメントストア」の文字を入れている。 さらに一九〇五年には化粧品、一九〇六年には帽子、ステッキ、一九〇七年からは鞄、履物、旅行具などの扱いも始め、 食事はもちろん、洋菓子、コーヒーなども出す食堂もオープン、写真撮影部も新設した。
次いで、白木屋、松屋、松坂屋などの大呉服店も、三越に負けじとデパートメントストア方式に改めていった。
見るだけで買わなくてもよいという気楽さが受け、また喫茶や食事ができる“憩い”と“レクリエーション”の場となり、 デパートメントストアに行くことは、庶民の楽しみとして定着していった。
引用一九〇四年に、タバコの専売制度が発足して以来、煙草専売局(後の日本専売公社)からは続々と新製品が発売された。 なかでも、口つき二〇本入の「敷島」八銭、「大和」七銭、「朝日」六銭などが人気を得た。
とりわけ、この年九月一日に発売された「ゴールデンバット」は両切り一〇本入り四銭と、 庶民にも手を出しやすいタバコとして大人気となった。
この年はタバコの新製品ラッシュであり、「ゴールデンバット」のほかにも、 「ナイル」「オリエント」「スター」「チェリー」「リリー」「胡蝶」「不二」「カメリア」などがいっせいに発売になった。
引用時事新報社が、写真応募による全国美人コンクールを主催した。 このコンクールは、アメリカ・シカゴ市にある『ヘラルド・トリビューン』紙が主催した、世界美人投票コンクールに連動したもの。
第一位に輝いたのは、末広ヒロ子。 一六歳で、福岡県小倉市長・末広正方の娘であった。 ヒロ子はアメリカでの審査でも、世界第六位に輝いている。
しかし、彼女は女子学習院に在学中。 このコンクール入賞の報は、院長・乃木希典の逆鱗に触れ、退学処分になってしまった。
引用九月一五日、東京・芝に「帝国女優養成所」が開所した。 主宰者は俳優・川上音二郎と結婚した川上貞奴。 「帝国女優養成所」という、いかめしい名前がついていたが、場所は理髪店の二階のわずか一七畳ほどの広さにすぎなかった。 しかし、当代一の実業家と名高い渋沢栄一男爵など、当時の日本経済界を代表するそうそうたるメンバーが集まり、 門出を祝ったという。
第一期生は、森律子、村田喜久子など一五名。 以後、この養成所から、日本を代表する女優の多くが旅立っていった。
引用一一月二九日、日本初の南極探検隊が開南丸で東京・芝浦港から出発した。
一行は白瀬陸軍中尉を隊長とする二七名。 白瀬は、北極探検を志し、千島探検などに加わっていたが、この前年、ピアリーの北極点到達の知らせを聞き、 南極探検に方向転換したもの。
探検隊は一九一一年一月一六日、南極に上陸を果たし、二八日、南緯八〇度〇五分、西経一五六度三七分の地点に到達、 「大和雪原」と命名し、日本の領地であることを宣言した。 しかし、食糧不足などのために、南極点到達を断念、ペンギンの剥製などを土産に、翌年六月二〇日に帰国した。
第二次世界大戦の敗戦により、一九五一年に締結されたサンフランシスコ条約で、「大和雪原」の権利を放棄することが要請され、 日本はやむなく放棄に応じた。
引用四月一日、東京・警視庁に鑑識課が設けられることになり、以後、犯人逮捕に指紋が有力な証拠として採用されることになった。 警視庁では前科者の指紋原紙五〇〇〇枚を用意、新時代に備えたという。
四月六日、東京・神田錦町で殺人事件が発生した。 犯行現場は鉄道技師宅。 殺されたのはこの家の女性の使用人である。 捜査官が犯行現場の指紋を採取し、前科者の指紋原紙と照らし合わせたところ、合致するものを発見。 殺人犯が割り出された。 八月四日、逮捕されたが、指紋という動かぬ証拠に、言い逃れることはできず、素直に犯行を自白した。
引用一月、東京の中野−昌平橋間を走る電車に、婦人専用車が登場した。 婦人専用車が走るのは、午前八時半と午後三時半。 つまり、主として、通学の女子学生を不良学生から守るのが目的だった。
新聞は、婦人専用車の登場を次のように報じている。
「近来、不良学生が山手線遠方より市内各女学校に通う女学生の何も同一時刻に乗車するを機とし、混雑にまぐれて、 女生徒の体に触れるを楽しみとする風がある。 彼等はこの女学生を満載せる電車を称して“花電車”と呼んで居るが、今回、中野昌平橋間に各駅から婦人専用車を数回運転せしむることに決定し、 御茶ノ水付属女学校、女子学院、千代田女学校、雙葉女学校等に対し通知し、来る三一日より実施することになった」
引用六月森永製菓が、ミルクキャラメルを発売した。 当時の広告には、「滋養豊富ミルクキャラメル・一粒五厘なり。 本品は夏期の衛生に適応すべき、最新式製法を応用し、製造したる風味佳良・滋養豊富の新菓なり。 粗製偽品あり」とある。
しかし、当時の人はミルクやバターの味になじんでいなかったため、キャラメルは意外にも不人気だった。 あまりの売れ行き不振に、森永の社員は外出時には必ず、キャラメルを持ち歩き、わざわざ電車の中で食べてみせたりしたという。
しかし、森永は「煙草代用」のキャッチフレーズを思いつき、そこからキャラメルは一気に需要を伸ばし、 キャラメルは大衆の間に浸透していった。
宝塚唱歌隊結成/1914
引用清く、正しく、美しくをモットーに「スミレの花咲くころ」の歌で有名な宝塚唱歌隊が一九一三年七月に設立され、 この年四月一日に初演した。
宝塚唱歌隊は宝塚温泉に客を誘致するために、箕面電鉄株式会社(後の阪急有馬電気鉄道)が、 三越の少年音楽隊を手本に発足させたもの。 初の公演も宝塚温泉内のパラダイス劇場で行われた。 隊員の女性の平均年齢は一二歳前後。 第一回公演のスターはソプラノ歌手だった高峰妙子。 彼女は男性役として、桃太郎を演じたという。
その後、唱歌隊は宝塚歌劇団へと発展していった。 宝塚では、その後、長いこと、百人一首から芸名をとるのが伝統となり、天津乙女、小夜福子、有馬稲子らの人気スターが輩出した。
平塚らいてう、「若い燕」と同棲/1914
引用一九一一年、雑誌『青鞜』を創刊し、“新しい女性”の代表となった平塚らいてうは、この年一月、五歳年下の画学生・奥村博 (一九一六年に博史と改名する)と同棲を始めた。
らいてうの自伝によれば、出会いの瞬間、奥村には、「最初に目が合った瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたような戦慄がはしり」、 らいてうも、「かつてどんな異性にも抱いたことのない、強い関心が生まれた」という。
当時、らいてうは『青鞜』の同人・尾竹紅吉と同性愛的な感情を交えていたらしいが、 奥村との運命的な出会いをし、尾竹との関係にヒビが入った。 奥村は、「二羽の水鳥がなかよく遊んでいるところに、一羽の若い燕が飛んできたために騒ぎが起こり・・・・・・」 と表現したため、「若い燕」という言葉が流行語となった。 らいてうの一挙一動は、世間から強い関心をもたれていたからである。
一九一五年、二人の間に長女が誕生したが、因習的な家族制度を否定していた彼女は奥村と入籍はせず、 「未婚の母」となった。
東京駅落成式/1914
引用一二月一八日、東京駅が完成し、落成式が挙行された。 東京駅は、鉄道院総裁・後藤新平が、「大国ロシヤを負かした日本にふさわしい、世界が驚くような立派な駅を造ろう」 と渾身を傾けて完成させたもの。 オランダのアムステルダム駅をモデルに辰野金吾が設計した総煉瓦張りの壮観な建物は、完成までにのべ六七万人の労働力と 二七〇万円の賃金を要し、完成まで六年六か月の歳月が費やされ、名実ともに東洋一の威容を誇った。 しかし、あまりに完成を急いだため、試運転も満足に行っておらず、そのため、 開業初運転の電車は品川と鶴見間でエンコしてしまうというていたらくだった。
夕刊発行開始/1915
引用一〇月一〇日、『大阪朝日』、『大阪毎日』などがこぞって夕刊を発行し始めた。 日本で、初めて夕刊を発行したのは『報知新聞』で、すでに一九〇六年一〇月から発行していた。 大正期に入って、第一次大戦を経験し、号外を多発したところから、大手各紙も夕刊発行にふみきったもの。
引用一月五日朝、人気絶頂の女優、松井須磨子が、東京・新宿牛込町にある芸術座の本拠地・芸術倶楽部で、 首吊り自殺する。 一九一八年一一月五日にスペイン風邪で死亡した愛人、島村抱月の後を追っての自殺であり、大変な騒ぎとなった。
文芸協会の女優募集に応募し、研究生に採用され、すぐに頭角をあらわした松井須磨子は『人形の家』のノラを演じて、 明治末ごろから、圧倒的な人気を誇るようになる。
私生活では、演劇の指導を受けた島村抱月と恋愛関係にあり、抱月に妻があったことから、 その恋の行方にも世間は大きな関心を寄せた。 一九一三年、抱月は早大教授の職を辞して家を出、芸術座を起こし、須磨子を中心に公演をプロデュースするようになる。 翌年、トルストイの『復活』が大ヒット。 劇中で歌った「カチューシャかわいや 別れのつらさ・・・・・・」は日本中で歌われ、須磨子は芸術座の女王といわれるようになる。
しかし、須磨子は自分の全存在は抱月あってのものだと信じ込んでおり、抱月の死の二月後の命日、 抱月と自分の写真を並べ、花と線香をたむけた前で首を吊った。
カルピス発売/1919
引用七月、「カルピス」が発売された。 「カルピス」の開発者・三島海雲は、一九〇六年、内蒙古で酸乳の存在を知り、これを飲用に改良することを思いつく。 帰国後、牛乳を分離して得たクリームに乳酸菌を加えて培養したものを「醍醐味」として発売した。
ところで、「醍醐味」の製造後は大量の脱脂乳が残る。 その処分に困り、さまざまな加工を試みては売り出し、失敗を重ねていた。
しかし、灯台もと暗し。脱脂乳にただ砂糖を加えただけのものは意外に美味で、好評だった。 そこで、これをベースにさらに改良を加え、「カルピス」として商品化したもの。 「カルピス」の名は、カルシウムと、梵語で「醍醐味」を意味するサルピスとからの造語。 三島のアイディアだという「初恋の味」というキャッチフレーズが一世を風靡し、大ヒット商品となったのである。
鬼熊事件/1926
引用八月、千葉県の久賀村で、荷馬車引きの岩淵熊次郎が、自分を裏切った女性と恋敵を殺害、ほかに四人も傷つけ、 放火して山中に逃げ込むという事件が起こった。 熊次郎はほかにも数人の女性をつけねらい、神出鬼没といった行動で、ついには巡査まで殺害してしまう。 新聞は連日、鬼熊事件をセンセーショナルに書き立てた。
結局、犯人は事件発生から四二日目、祖先の墓前で自殺、事件は落着した。
新元号「光文」/1926
引用大正天皇崩御の報せに、政府がただちに会議を開き、新しい元号の選定を始めた。 最初、新元号は「光文」に決定したが、新聞社に出し抜かれそうになったため、急遽、第二候補の「昭和」に決定したもの。 「昭和」は、『書経』の中にある〈百姓昭明 万邦協和〉という一節からとったもの。
井上中尉夫人自決/1931
引用一二月一二日、歩兵第三七連隊井上清一の妻千代子は、夫が満州に出征する前夜、短刀でのどをついて自殺した。 遺書によれば、「私の御主人様、私嬉しくて嬉しくて胸が一杯で御座います。 何とお喜び申しあげてよいやら、明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。 何卒、後のことを何一つ御心配下さいますな・・・・・・」とのこと。 この壮烈な死は日活映画『ああ、井上中尉夫人』、新興キネマ『死の餞別』として映画化された。
この井上夫人の死をきっかけに、大阪国防婦人会が結成され、後の大日本国防婦人会につながっていった。
白木屋火災/1932
引用一二月一六日、新装なったばかりの東京・日本橋の白木屋デパートの四階玩具売り場のクリスマスツリーの電飾から出火。 火はたちまち全館にまわり、約六〇〇人の客は逃げ場を失って大騒ぎとなり、消防車三三台、 ハシゴ車三台のほか軍隊まで出動した。
屋上へと逃げた人の救助策として、七機の飛行機から数十本のロープを投下し、 このロープを地上にたらして救出する、という方法が考え出された。 救命ロープを頼りに脱出すれば助かったのに、当時、女子従業員らは和服だったため、下着を着ていないから、 と裾の乱れを気にしてロープによる脱出をためらい、一四人が死亡、重軽傷者一三〇人を出す惨事となった。
引用東京・渋谷の駅前に忠犬ハチ公の銅像が立てられた。
ハチ公は、東京帝大教授上野英三郎の飼い犬だったが、毎日、渋谷駅まで主人を迎えに行くのが習慣だった。 しかし、上野教授が亡くなった後も一〇年間毎日、渋谷駅に通い続け、その忠義ぶりが讃えられ、銅像になったもの。 新聞によれば、「一度飼われた主人の亡き後まで涙ぐましい思慕の情を見て、二主につかえぬという秋田県の特性をよく現わして 銅像にまでなった忠犬『ハチ公』が今度、国定教科書に採用され・・・・・・」とある。
渋谷駅周辺では、ハチ公せんべい、ハチ公そば、ハチ公焼きとり、ハチ公丼などの名物が誕生し、 「ハチ公音頭」なるレコードまで発売される騒ぎになった。
引用一一月一日、南満州鉄道株式会社は特急「あじあ号」の運転を開始した。 「あじあ号」は大連−新京(現在の長春)間、七〇一・四キロを八時間半で走る世界第一級の高速列車で、 国内最高速度を誇る「つばめ号」より時速で一五キロも速かった。 翌年には、ハルピンまで延長された。
スマートなその姿はたちまち「流線型」という流行語を生み、婦人服のデザインにも取り入れられる有り様。 「汽車も自動車も流線で、風をきるきる タランタ ランラ・・・・・・」という「流線ぶし」もヒットした。
女優志賀暁子、堕胎罪で告訴される/1935
引用七月一八日、新興キネマ女優・志賀暁子が堕胎していたことが明るみに出、警察につかまった。 暁子は一九三三年、『新しい天』でデビュー、この作品の監督・阿部豊と付き合うようになったが、 妊娠を知ると阿部は冷たくなり、他の女性と結婚してしまった。 暁子は思い悩んだ末に堕胎した。
法廷では「この子が父なし子になると考えたら、どんな反省も考慮もなく、暗い罪に走ってしまいました」と述べ、 懲役二年、執行猶予三年の判決が下された。
「二人は若い」大ヒット/1935
引用一〇月に封切られた日活映画『のぞかれた花嫁』の主題歌「二人は若い」が大ヒット。 「あな〜た な〜んだい あとはいえない 二人は若い」という歌を、全国津々浦々の小学生までもが口ずさんだ。
ファシズム、軍国主義の色が濃くなりつつあり、しだいに息苦しさを増す時代の中で、 軽快なメロディーのこの曲は国民の心を明るくはずませる、数少ないものだったのだろう。
引用一一月一二日夜、人気俳優・林長二郎が、『源九郎義経』のスチール写真を撮影した帰途、 左顔面を耳下から鼻の下にかけて、斜めに切りつけられた。 凶器はかみそり状の刃物で、傷は長さ一二センチ、幅一センチ、骨膜に達する重傷だった。
長二郎は付き人が止めるのもきかず、「私は俳優です。鏡を見せてください」と俳優部屋に駆け込み、 その後、病院で手当てを受けた。
犯人は元運転手。この秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、 新興キネマ京都撮影所長らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。
事件後、林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。
引用一月三日、新劇女優・岡田嘉子は演出家・杉本良吉とソ連に亡命した。
かねてから二人は恋愛関係にあったが、杉本に思想犯の前歴があることから、 召集は時間の問題だと見て、ソ連への亡命を決意したもの。 一説には、杉本には弾圧によって、壊滅状態にあった共産党再建のために、 コミンテルンと連絡をとるという任務が与えられていたともいう。
二人は前年末、樺太を訪れ、二日、気屯に入った。 そして三日午後三時半ごろ、樺太半田沢の警部補出張所を慰問に訪れた後、馬橇で北緯五〇度の日ソ国境まで行き、 四時過ぎに歩いて国境を越えた。
杉本には妻もあったことから、“赤い恋の逃避行”とセンセーショナルな話題となったが、その後、 二人はソ連当局によって引き離され、杉本は二年後、風が悪化、肺炎で死んだと岡田に伝えられる。
岡田は、労役三年の刑の後、太平洋戦争中はハバロフスクの対日放送で、戦後はモスクワ放送で活躍するかたわら、 モスクワ大学の演劇科で学び、一九七二年に初めて帰国。 その後は日本でも演劇活動を再開した。
木炭バス運転開始/1937
引用五月一日、重要産業統制令が出され、「ガソリンの一滴は血の一滴」「赤心燃して燃料節約」といわれるようになり、 木炭自動車が走り出した。
木炭自動車とは、木炭を蒸し焼きにしてガスを発生させ、ガソリンエンジンに導入して使用するもので、 従来の自動車に木炭ガス発生装置をつけるだけで、簡単に改造できた。 七月からは、東京のバスも改造を始め、町に木炭バスが走り出した。
引用九月一五日、誠文堂新光社から刊行された『日米会話手帳』は、初版三〇万部をあっという間に売り尽くし、 年末までに三六〇万部という大ベストセラーになった。 企画をたてたのは靖文社新光堂の創業社長・小川菊松。 天皇の「重大発表」を聞いた途端に、それまで敵性語とされていた英語がもてはやされると直観したのだという。
しかし、当時、紙の価格は鰻登り。 「『日米会話手帳』に使った紙をそのまま持っていたら、大儲けできたのに」と菊松は大いに後悔したと伝えられる。
「額縁ショー」/1947
引用一月一五日、新宿帝都座五階劇場で、甲斐三和が、初めてのストリップショーを行った。
このショーは、名画をモデルにし、女性の上半身をあらわにして、額縁をかたどった中で立っているというもので、 「額縁ショー」「名画ショー」などと呼ばれた。
甲斐三和は一九歳のダンサーで、身長も高く、立派な体つきをしていた。 ショーは、黒いカーテンを開いてから閉じられるまで、わずか四、五分の間という短いものだったが、 場内の観衆はかたずをのんで見守ったという。
翌年になると、浅草の常盤座で本格的なストリップが上演され、以後は全国にストリップ専門劇場が続々誕生した。
引用五月、横浜国際劇場で一二歳の少女が、笠置シズ子の「セコハンブギ」を歌ってデビュー。 あまりに達者な歌いぶりが大きな話題となった。
少女はこの年、美空ひばりという芸名で、浅草国際劇場に進出。 翌年、コロムビアと契約して「悲しき口笛」でレコードデビュー。 五〇万枚の大ヒットになった。
引用九月二四日、インド象のインディラが来日した。 この年の春、東京・台東区の子供たちが、インドのネール首相にあてて、「象をください」と手紙を出した。 上野公園には戦前、三頭の象がいたが戦時中に空襲に備えて処分されていた。
ネール首相はさっそくその願いを聞き届け、インディラと娘の名をつけたメスの象を贈ってくれたもの。 インディラは九月二五日に上野動物園に到着。 動物園には九万二〇〇〇人の入園者が殺到した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。