「張作霖爆殺 ― 昭和天皇の統帥 ―
参考書籍
著者: 大江志乃夫(おおえ・しのぶ)
発行: 中央公論社(1989/10/25)
書籍: 新書(190ページ)
定価: 円(税別)
目次: T 日本の対中国政策と張作霖爆殺事件
U 爆殺事件をめぐる陸軍部内の動向
V 昭和天皇即位前後の情勢
W 天皇の内閣不信任
X 天皇の聖域、統帥大権
Y 天皇がかけちがえたボタン
おわりに
補足情報:
一九二八年六月四日、関東軍高級参謀の河本大作ら急進派がしかけた国際謀略・張作霖爆殺事件は、 そのまま連続して柳条湖鉄道爆破事件の開戦謀略につながり、 満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと日本の破滅の道の第一歩となった。 日本帝国の天皇は統帥大権を保持する大元帥であり、軍は勅命なしの軍事行動は絶対に許されない「天皇の軍隊」であった。 それにもかかわらずなぜ軍部は独走したのか? 天皇の統帥権を検討する。(表紙裏)
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引用張作霖は満州のいわゆる馬賊の出身で、 日露戦争当時にロシア軍とつうじているとされて日本軍に捕らえられたが、 当時の満州軍総司令部の作戦参謀であった田中義一に命を救われ、 日本軍に協力するようになった。 清朝政権が打倒され、 中国各地に軍閥が割拠する時代に奉天省(現在の遼寧省)の督軍兼省長となり、 奉天、吉林、黒龍江の三省からなる東三省(満州)全体を支配する軍閥政権をきずきあげて中央政界に進出し、 一九二七年に北京政府の大元帥にかつがれ、 南京政府による国民革命の北への波及を阻止しようとした。
大連会議
引用東方会議のあと、八月十五日にが主宰しておこなった現地主要文武官を召集しての いわゆる大連会議の内容が、東方会議における満蒙政策の具体化の会議であったとして、 内外できわめて重視されるにいたった。 その内容は、強硬論を主張するの独演会ともいうべき性格のものにすぎなかったが、 一種の怪文書である「田中上奏文」の流布によって、その真実性がながく信じられたのである。
「満州治安維持」通告
引用五月十六日、閣議は「満州地方の治安維持に関する措置案」を決定し、 翌十七日に田中首相兼外相より天皇に奏上し、英・米・仏・伊の四国大使を外務省に招いて声明書を手交するとともに 詳細な説明をおこない、さらにその翌十八日に覚書のかたちで張作霖と南京政府に通告し、 林総領事の意見にもとづき、芳沢謙吉公使をして張作霖の満州引きあげを勧告させた。 陸軍の主張する張作霖下野にたいしても田中首相は反対した。
通告は、「戦乱京津地方に進展し其の禍乱満州に及ばんとする場合は、 帝国政府としては満州治安維持の為適当にして有効なる措置をとらざるを得ざることあるべし。 然れども交戦者に対し厳正中立の態度を持すべき帝国政府の方針に至っては固より何等改変無き次第なる故、 右の如き措置に出ずる場合に於ても其の時機と方法とにつきては両者に対し何等不公平なる結果を生ずるに至らざるよう 周到の注意を払うの用意あることを確言す」という内容であった。 南京政府は、この通告を日本政府が済南で北伐を阻止する意図がないことを明らかにしたものとうけとめ、 京津(北京、天津)地方を確保して関内の統一を完成した以後は、 関外への追撃をおこなわないことを約束した。 日本の武力援助によって関内にとどまることを期待していた張作霖は勧告に不満であったが、 芳沢公使の説得に応じて奉天に帰ることを承諾した。
上原閥
引用上原は旧薩摩藩(その出身地は宮崎県都城で旧薩摩藩領)の出身であり、 薩摩出身の元帥野津道貫の女婿で、陸軍第二の藩閥であった薩摩閥の総帥ともいうべき地位にあった。 しかし、長州閥の田中とおなじように、田中上原世代のあと、 藩閥の後継者となる人材に欠けていた。 陸軍部内ではきわめて微力であった旧佐賀藩から田中のライバルとして宇都宮太郎がでて、 人材の育成に力をそそいだが、宇都宮は朝鮮軍司令官を務めた以後健康を害して現役大将で病死した。 宇都宮が育成した人材を上原が引きついた。
これら上原が引きついだ旧宇都宮グループのおもな人材は、 張作霖爆殺当時の職でいえば、教育総監・大将武藤信義(佐賀)、 関東軍司令官・中将村岡長太郎(佐賀)、第八師団長(弘前)・中将真崎甚三郎(佐賀)、 参謀本部作戦部長・中将荒木貞夫(東京)、奉天特務機関長・少将秦真次(福岡)、 騎兵第一旅団長・少将柳川平助(佐賀)、歩兵第十旅団長・少将香椎浩平(福岡)などである。
引用さらに大きな事件となったのが、無政府主義者として、 またベストセラーになったファーブルの『昆虫記』の翻訳者としても有名な大杉栄、伊藤野枝の夫妻をその六歳の甥ともども、 麹町憲兵分隊長の甘粕正彦憲兵大尉らが拉致し、 憲兵隊内で殺害した事件であった。 この事件は殺された幼児が米国籍であったということもあり、閣議の問題となった。
結局、甘粕らは軍法会議にかけられ、 福田戒厳司令官は更迭された。 軍法会議で大杉殺害事件は甘粕の個人的犯行とされ、その上官への追及はおこなわれなかった。 おなじ構内にある憲兵司令部勤務(憲兵司令官副官)の上砂勝七憲兵大尉は、 自分も社会主義者の福田狂二の殺害を命じられたと、手記に書きのこしている。 ただ、上砂も殺害を命じた上官がだれであったか、書いていない。 上砂は福田をおそったが、福田が家族ともども大阪に避難する準備をしていたので、見のがすことにしたという。
孫文のラストメッセージ
引用十一月十四日、北京にむかう途中で神戸にたちよった孫文が演説をした。 孫文は、この演説で日本が日露戦争の勝利で全アジア民族に大きな喜びと希望をあたえた事実を指摘したのち、 日本人にたいするきびしい警告の言葉をもって演説をしめくくった。 「諸君日本人は、今後世界文化の前途に対して西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、 それはあなたがた日本人が慎重に研究して選ぶべきである」。 孫文は北京に滞在中、翌年三月に病死した。 この警告が日本人にたいする孫文の最後のメッセージとなった。
タゴール来日A
引用六月、インドのヒンズー文化を代表する詩人であり、 一九一三年にノーベル文学賞を受賞したタゴールが二度目の来日をし、日本国民に語りかけた。 「いまあなた方は、歴史のうえでもったことのないもの、属国というものをもっている。 またあなた方より軍事力の弱い国を、一つ近隣にもっている。 極めて率直にいわせていただけば、朝鮮人や、みなさんよりずっと不幸な人々への、不正な取り扱いの実例を、 たまたま聞いて、私はひどく失望させられ、深く心を傷つけられている」。 朝鮮を植民地化し中国を侵略しつつある日本を、アジアの世界的詩人はけっしてゆるさなかった。
引用憲政会総裁の加藤高明が、憲政・政友・革新の三派連合のいわゆる護憲三派内閣を組閣した。 政友会総裁の高橋是清が農商務大臣として、革新倶楽部総理の犬養毅が逓信大臣として入閣した。 三派内閣は、日ソ国交回復を実現し、普通選挙法を成立させた。 しかし、同時に、日ソ国交回復と労働者階級の選挙権公使から予測される共産主義運動を弾圧するために、 治安維持法を制定した。 その後、高橋は大臣を辞して政友会総裁のポストを陸軍をしりぞいた田中義一にゆずり、 犬養も大臣を辞して革新倶楽部は政友会に合流した。
引用第一次大戦で空前の活況をていした日本経済は、 放漫な金融によって事業資金の需要にこたえてきたが、 戦後の不況によって多額の不良手形を未決済のまま市場にのこすことになった。 これらの手形が不渡りになれば企業の倒産があいつぎ、日本経済は不景気のどん底におちこむ。 この事態をさけるために、日銀は特別貸出をもって個別に企業の救済策を講じてきたが、 日銀の財界救済融資が限界にたっしたとき、関東大震災がおこった。
日本の金融中枢が大被害をうけたので、政府は経済的混乱をふせぐためのとりあえずの救済策として、 震災手形損失補償令を公布した。 それは、震災地を支払先とする手形、震災地に当時営業所を有したものが振りだした手形、 またはこれを支払人とする手形で、九月一日以前に銀行が割引していた手形を、 日銀が再割引に応じてその取立てに二年の猶予をあたえ、 日銀の損失については政府が一定額の補償をするなどの内容であった。
補償令によって、震災以前に銀行がかかえこんだ多額の不良手形が生きのびることになった。 放漫金融は未整理のままとなり、それに震災復興のための需要形成によって輸入が激増した。 こうして大戦中にかせぎだした在外資金をくいつぶしてしまっただけでなく、 国内の正貨の輸出さえ必要とされるにいたった。 為替相場ははげしく変動し、円相場は急落した。 このような経済情勢のもとでは、震災手形の整理に手をつけることができず、 補償令の決済期限は一九二七年(昭和二)九月まで延長されるにいたった。
鈴木商店
引用大戦中に急成長をした鈴木商店は、 三井物産につぐ日本第二の商社にのしあがり、総合財閥への発展をめざして多面的な工業投資をおこなっていた。 当時の鈴木商店傘下の企業には、現在の一部上場企業である神戸製鋼、帝国人絹(帝人、以下カッコ内は現在の企業名)、 東洋精糖、東洋高圧(三井化学と合併して三井東圧)、播磨造船(石川島造船と合併して石川島播磨重工)、 大日本セルロイド(ダイセル)、豊年製油(ホーネン)、日本発条などがあり、 倒産後の鈴木商店も商社の日商(岩井産業と合併して日商岩井)として更生した。
「思想的国難に関する決議案」可決
引用第五十五議会では、 法案提出にさきだって野党の尾崎行雄が提出した「思想的国難に関する決議案」が政府の出鼻をくじいた。 決議案は「共産党事件に対し政府が刑罰のみを以て之に望むは不可なり。 宜しく其の環境を改善するの途を講ぜざるべからず」という内容のものであった。
尾崎は決議案の説明で、改善すべき「環境」とは何であるかを具体的にのべている。 すなわち、「朝野両党共に政権争奪に没頭して国家内外の政務を懈怠したるが如き、 租税の徴課分配其の道を誤て不合理的に貧富の隔絶を招けるが如き、 救恤恩給独り官吏に厚くして人民に薄きが如き、 労使関係其の宜しきを失して産業界の秩序を壊乱せるが如き、皆な為政家怠慢の致す所にして、 而も悪思想発育蔓延の素因ならざるはなし。 素因を排除し環境を改善せずして単に刑罰のみに由て悪思想を撲滅せんと欲するも到底其の目的を達する能わざる事は 古今内外事跡の証明する所」であった。
尾崎の提出した決議案は可決された。 この会期では、治安維持法改悪案は衆議院の実質的審議にはいることなく、審議未了で廃案となった。
生まれながらの皇位継承者、昭和天皇
引用昭和天皇は、制度上、生まれながらの皇位継承者であった最初の天皇である。 一八八九年(明治二二)二月に皇室典範が制定されるまでは、 皇位の継承順についての制度上の規定はなかった。 明治天皇は孝明天皇の庶出の長男子であり、嫡出の皇子がなかったので八歳で皇太子になり、 のちの英照皇太后の実子にさだめられた(嫡子待遇)。 大正天皇明治天皇の庶出の第三皇子であったが、 異母兄である庶出の第一皇子、同母兄である第二皇子がいずれも生後まもなく病没して長男子となったので、 皇室典範制定後の十一月に皇太子となった。
昭和天皇は一九〇一年(明治三四)四月、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の長男子として生まれた。 皇室典範のさだめる皇位継承の順序は、男系の男子で皇長子、皇長孫の順序である。 裕仁親王は皇長孫であり、皇太子が皇位を継承すれば自動的に皇太子になる制度のもとに生まれた。 皇長孫の裕仁親王は生後三ヵ月から海軍中将川村純義の邸にあずけられてそだてられ、 皇位を継承することが確実な皇長孫として教育された。
引用明治天皇は、裕仁親王の学習院初等科入学(一九〇八年)にさきだち 現役陸軍大将乃木希典を学習院長に任命し、裕仁親王の教育を託した。 乃木は、裕仁親王が皇太子になった直後の一九一二年(大正元)九月、 明治天皇の大喪の日に自決した裕仁親王が初等科五年の年であった。 後任「学習院長の人選に就いては小笠原子爵、徳川公爵等其候補者に擬せられ居たるが、 今回愈々陸軍大将大迫尚敏氏を其後任たらしむることに決定」した(『東京朝日新聞』十一月八日)。 皇太子は一九一四年(大正三)春に初等科を卒業した。
学習院初等科卒業とともに、その年の五月、皇太子に帝王学をさずけることを目的とした東宮御学問所が設置され、 元帥海軍大将東郷平八郎が御学問所総裁に任命された。 皇太子は二十歳をむかえる一九二一年(大正一〇)二月に東宮御学問所を修了、 御学問所は閉所された。 御学問所修了のすぐあと、皇太子は三月にヨーロッパ訪問の旅にでた
松本剛吉
引用自由民権期に警察の密偵として人生のふりだしをはじめ、 次第に官界に顔を売り、やがて衆議院議員となって政界にも交際圏をひろげ、 政界の表面からしりぞいて元老山県、ついで西園寺に重宝がられた政界情報屋となり、 田中内閣のもとで貴族院勅撰議員にまで出世した特異な人物に、松本剛吉(一九二九年四月没)がいた。 松本は政界の裏情報を『松本剛吉政治日誌』としてのこした。
奈良武次
引用奈良武次は、「省部業務担任規定」制定当時の陸軍省高級副官、 一九一六年(大正五)三月から一九一八年(大正七)十二月まで陸軍省軍務局長(一八年七月に中将に進級)、 同年十二月に参謀本部付となりベルサイユ講和会議の陸軍側の主席随員をへて、 帰国後の一九二〇年(大正九)七月に東宮武官長となった。 皇太子ヨーロッパ訪問旅行にも供奉員として随行し、 皇太子摂政となったのち一九二二年(大正一一)十一月に侍従武官長に転じた(一九二四年大将進級)。
軍服を脱いだ河本大作
引用河本は中国貿易の中公司の顧問となり月二百円の給与をうけながら、 清国の廃帝・宣統帝(溥儀)を満州の主権者とする「満州独立」謀略を推進しはじめた。 小磯軍務局長と打合わせて旅順に行き、板垣石原と相談したうえで天津に行き、 宣統帝側近の羅振玉、鄭孝胥に会って見とおしをつけて旅順にもどり、 板垣石原と相談ののち帰国して小磯に報告した。
河本はさらに、満州における謀略工作の民間側の担当者として、 大杉栄らの殺害犯人であった元憲兵大尉甘粕正彦を送りこんだ。 河本は、自分の謀略の失敗のひとつの原因が現地の民間日本人によい同志をえられなかったことにあったと、 考えたのであろう。 甘粕は、非公式のルートで参謀本部の建川第二(情報)部長、永田軍事課長と連絡をしていた。 軍服をぬいだのちの河本は、その自由な身分を買われて陸軍をプロモーターとする「満蒙問題」解決の プロデューサーの地位についた。
五課長会議
引用一九三一年(昭和六)六月十一日、岡村日記によれば、 「参謀本部情勢判断対策に関し実行案を練るため本省にて永田と予、参本にて渡、山脇、重藤三大佐計五人内密の委員を 非公式に命ぜられ本日第一回会合を偕行社に開き第一着手の方針を協議す」とある。 永田は軍事課長、岡村は補任課長、山脇は編制課長、渡は欧米課長、重藤は支那課長で、 国策研究会議(俗に五課長会議)と呼ばれ、委員長は情報・謀略部門の責任者である建川第二部長であった。 この会議の設置は四月十四日に宇垣陸相の後任陸相となった南次郎陸相の命令によるものである。 会議は連日おこなわれ、岡村日記でははやくも六月十九日、「午後四時より永田、渡、山脇と四人して 国本社一室にて例の国策研究対満蒙方針の原案略々成る」とある。
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