「日本の歴史(26) ― よみがえる日本 ―
参考書籍
著者: 蝋山政道(ろうやま・まさみち)
発行: 中央公論社(1974/10/10)
書籍: 文庫(488ページ)
定価: 940円(税込)
目次: はじめに
戦争完敗に終わる
占領統治始まる
占領下の民主化過程
占領政策と経済復興のエネルギー
冷戦下の講和独立
保守・革新対立の様相
長期化する保守政権
技術革新と消費革命
大衆社会と大衆運動
自主外交への歩み
安保騒動の一ヵ月
所得倍増計画のゆくえ
国土と国民文化の変貌
近代化に苦悩する政治体制
平和と安全を求めて
よみがえる日本
補足情報:
米ソ冷戦下に進められた占領政策は保守・革新の激突をもたらし、 講和独立・安保問題に至ってついに国論は二分した。 しかし険しい戦後史を生きぬいた国民は、ナショナリズムとデモクラシー、 連続と断絶の融合の上に国論の一致を求めてゆく・・・・・・。(裏表紙)
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占領軍の軍政方針
引用マ元帥の総司令部が成立するや、この内閣にとって最大の課題は、占領軍の直接統治、すなわち軍政をくいとめることであった。 九月三日、マ元帥の日本国民への布告文を非公式に内示された重光外相はおおいに驚いた。 その内容は占領軍が日本全土に軍政を布くというのである。そのほかに、
(1)米軍の軍事裁判所が日本国内の裁判権を行使する
(2)総司令部は日本において軍票を行使する
とあった。重光外相は、占領軍はポツダム宣言の実行を要求し、かつまたその実行をもって満足されるものと了解し、 それならば日本政府を通じて占領政策を行なうことがもっとも実際的であるという立場から、マ元帥とつよく交渉した。 その結果、ドイツのばあいとちがって、直接軍政ではなく間接統治ということになった。
初期対日方針
引用八月二十九日(公表は九月二十二日)、米国政府はマ元帥にあてて「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」を伝えた。
これによると、日本占領が連合国のための作戦行動たる性質をもつ以上、連合国諸国の軍隊の参加が歓迎され、期待された。 しかしその占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下におかれることとなり、 ソ連の要求する司令官の二人制と分割統治案を拒否して、事実上米国の単独占領と定まった。 また日本政府にたいしては、【中略】 総司令官は天皇をふくむ日本の政府機構および機関を通してその権限を行使するが、 これは日本の現存形態を利用することであって、それを支持することではないという間接統治を行なう旨を明らかにした。 これによって、米国による単独占領と日本政府を通しての間接統治という占領政策の基本構造が決定された。
引用二月十三日、【中略】 GHQの憲法草案ができあがり、日本政府に手交された。 そのさいホイットニー民政局長から、「マッカーサー元帥は、かねてから天皇の地位について深い考慮をめぐらしているが、 この草案に基く憲法改正を行うことが、その目的にかなう所以であり、然らざる限り、天皇の一身の保障をすることはない」、 また「日本政府にこれを命ずるわけではないが、日本政府が総司令部案と基本原則及び根本形態を同じくする改正案を 速かに作って出すことを切望する」と付言されたと、これを直接きいた外相の吉田茂が書いている(『回想十年』第二巻)。 要するにマッカーサー元帥は、天皇制の問題について、極東委員会および米国政府の意向を察知して、 これを説得しうる改革を自分の手で行なおうとしたのである。
これより日本政府とGHQとのあいだに、この草案を中心に幾度かの交渉が行なわれ、若干の修正が加えられた。 それが三月六日、政府の発表した「憲法改正案」である。 そして、やがて四月十日行なわれる総選挙に国民の批判を待つことになった。
民主化を阻むもの
引用ポツダム宣言第十項には、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とある。
ここにいう民主主義的傾向の復活強化にたいして障礙となっているものとは何か。 それは、いうまでもなく極端な国家主義や軍国主義の基盤となっていたもので、旧い封建時代に根をもち、 明治時代に強化されたものとして考えられる六つの制度である。 すなわち家族制度・地主制度・地方制度・官僚制度・教育制度・雇用制度これである。
ドレーパー報告と経済安定十原則
引用芦田内閣の責任ともいうべきインフレ克服を中心とする経済緊急対策はどうであったか。 これも、たまたま来朝中の米国陸軍次官ドレーパー使節団が五月十八日に発表した「日本再建四ヵ年計画」によって、 米国の日本占領政策の一環たる経済自立計画の基本方針が定まった。 と同時に、占領後の対日経済政策も一つの転換期を迎えるにいたった。 このドレーパー報告は、日本経済の詳細な分析にもとづき、復興の三大障害として、(1)原料の不足、 (2)大多数の現存工場の状態の悪いこと、および(3)輸送施設の貧弱なことをあげ、 当面のインフレ抑制策として左の六点をあげている。
(1)日本政府はできるだけ早く財政の均衡を図るべきこと
(2)そのために国庫支出を減らすこと
(3)総司令部は日本における米軍の占領費を減らす努力をすること
(4)統制物価をできるだけ速かに生産費と関連させて調整し、国庫補助金の支出をなるべく中止すること
(5)総司令部はひきつづき日本人の納税を奨励すべきこと
(6)日本政府は納税申告書からの所得徴収にいっそう努力し、滞納を許さないこと
きわめて具体的な指示である。 芦田内閣もインフレ克服策として、六月には片山内閣当時から安定本部を中心として策定中であった「中間安定策」なるものを発表したが、 さらにGHQの勧告ともにらみ合わせて具体化し、七月二十−二十三日の閣議をへて「経済安定のための十原則」を発表した。
(1)国内資源の確保ならびに生産の増強
(2)現在の割当および配給制度の有効強力な実施および闇市場の絶滅
(3)食糧供出制度をさらに有効ならしめるよう改善し、このために供出割当の決定をいっそう現実的にする
(4)公定価格を厳重に守り、違反者は即時処罰する
(5)確実にして弾力性ある賃金安定方策の早急な実施
(6)徴税を敏速強力にし、同時に脱税者には刑法上の訴追をもってのぞむ
(7)歳入をさらにふやし、公平の原則に合うよう税負担の再配分を行なうため、新しい税手段を実施する
(8)特別会計の赤字を組織的に減少させる
(9)外国貿易の管理および運用を改善し、政府内に外国為替管理を行なう適当な機関を設ける
(10)現在の資金統制を有効強力に実施する
一方、占領軍の力をかりて労働攻撃を抑えながら、他方こうしたインフレ安定方策によって、 多くに抵抗を受けながら、散発的にまた徐々に経済復興への道を歩む、それが憲法実施後において、 占領下の日本政府に許された一筋の道であった。
ドッジラインと3つの怪事件
引用ドッジ・ラインによる緊縮予算に従って吉田内閣のとった具体的処置、 とくに国鉄九万五千名をはじめとする多数の職員・従業員の行政整理の断行は、官公労を中心とする労働界に大きな衝撃を与えた。 この「首切り」の性格について激しい論争が行なわれ、社会党も共産党も、それぞれの立場からこの「首切り反対闘争」について 声明を発した。
いったい何がその本質であったのか。 これが単に個々の企業不振による首切りでないことは明らかであった。 だが、もし日本経済の再建のためにやむをえないのであったとするならば、 論争は何が企業および産業を防衛するゆえんかに帰着せざるをえない。 したがって論議は紛糾せざるをえない。 いずれにせよ、現実はこの首切りに反対する労働闘争が、地域共同闘争の形態をもって各地に頻発し、 デモ隊と警察隊との衝突が続発することになった。
そのうちに、偶然か必然か、国鉄を中心として今日にいたるもわれわれにはその真相のわからぬ奇怪な三つの事件が発生した。 二十四年七月四日の国鉄第一次人員整理発表の翌日、下山貞則国鉄総裁が、常磐線綾瀬付近で轢死体となって発見されるという下山事件、 同十五日、三鷹駅で入庫中の電車が運転手もなく走り出して民家に突入し、死者六名、重軽傷者十三名を出すという三鷹事件、 そして八月十七日、東北本線松川駅の近くで列車が転覆するという松川事件これである。
三事件の連続発生は世上いろいろ論議をよび、世間には共産党と国鉄労働組合を非難する声が高まった。 しかし十八年たった今日にいたるまで、その真相は不明である。 こうした情勢の中で国鉄の大量首切りは実施され、さらにその他の官公庁・公共企業体・民間産業でも大幅な人員整理が行なわれた。
吉田内閣A不信任案可決と総選挙
引用第二次吉田内閣は、芦田内閣のあとをうけて、野党たる民自党の少数単独内閣として出発せざるをえなかったが、 当面の国家公務員法の改正とインフレを抑えるための新給与法の成立をいそいで、 有利な体制で総選挙にのぞもうとした。 これに反して野党三派は片山・芦田の中道政治失敗の批判をおそれて、選挙の時期をおくらせようとした。 こうして国会の解散をめぐって、与党と野党の対立は決着のつかないまま、二十三年十二月二十三日のGHQ斡旋で、 吉田内閣不信任案は可決され、衆議院は解散された。 選挙はあけて一月に施行されることとなった。
その結果は、中道諸派の惨敗、民自党の圧勝と共産党の飛躍的伸張であった。 民自党は前回二十三年四月の選挙より一三三名多い二六四名の当選者をだし、国会に絶対多数をしめた。 共産党は四名から一躍三十五名となったのにくらべて、中道三派の民主党は六十九名、社会党四十八名、国協党十四名、 合計一三一名という劣勢に終わった。 とくに社会党は片山哲委員長をはじめとして、多数の幹部をふくむ前議員が枕をならべて落選するという惨敗ぶりであった。
民自党の勝因は、一に吉田内閣への国民的支持、とくに国際情勢への判断力をもち、 GHQの信頼も厚い吉田茂個人への信望にあったためである。 また池田勇人佐藤栄作・前尾繁三郎などの高級官僚出身者を多数当選させたのもこの選挙の特徴で、 これは、吉田内閣の当面するインフレ抑制を中心とする経済安定政策の実行が、 国民一般はもとより財界から強く要望されていたからにほかならない。 ここに良きにせよ悪しきにせよ、日本の新しい政党政治は、 吉田内閣(第三次)の出現による保守政権の基盤安定から始まったのである。
三公社五現業の公共事業化
引用経済復興への一つの条件を提供したものとして、官僚行政機構の民主化、とくに官業の公共事業体への改編をあげねばならぬ。 いわゆる三公社・五現業への編成替えである。
明治以来、日本の官庁が鉄道や電信・電話または煙草その他の専売のごとき企業を直営して、 国民経済および財政の基盤形成に寄与してきたことは周知のごとくである。 しかし行政官庁が他の一般行政と同じ官僚機構や規制に従って、かかる企業経営を行なうことは、 単に労働の民主化に反するのみでなく、経営のうえからみても不適当である。
昭和二十三年七月二十二日のマ元帥の声明によって、公共事業体という新しい組織が認められた。
講和への動き
引用そもそも対日講和問題が展開し始めたのは、占領後一年半のころであった。 占領軍の早期撤退論者であったマ元帥は、二十二年三月十七日、早くも対日講和の時期すでに到来していると声明した。 もちろんこれは、占領の延引が日本人の不安と不信とを生むことを懸念したのと、米国の一部にある無期限占領説を打ち消すためであった。 だが、万事にわたって受身であった日本政府にも、講和の用意はまだできていなかった。 むしろ当時の政情からみて、日本政府は早期講和を不利と考えていた。
その後、同年七月十六日、米国政府は極東委員会において正式に対日講和のための予備会議を提案した。 そのさい講和方式として、米英華ソの四大国の拒否権を認めないで、 極東委員会とは別に対日戦参加国の会議によって決定しようと提案したのであった。 これにたいしてソ連が賛成するはずはなく、同月二十三日、不参加を表明してきた。 ソ連は終戦の年十二月、モスコウ外相会議の当時からこの拒否権方式を主張してきたのである。 このときから、すでに米ソ間の冷戦は始まっていたともいえる。
対日講和問題が具体的な展開をみるにいたったのは、一九四九年九月、トルーマン大統領がワシントンに米英外相会議を開催し、 ソ連の反対と対日戦参加国の不確定な態度を承知のうえで対日講和会議の方針を議したことに始まる。 このとき国際情勢をみれば、アメリカはマーシャル・プランの推進、 北大西洋条約機構(NATO)の構想によるヨーロッパにおけるソ連封じ込め政策をとっており、 東南アジアにおいてもポイント・フォア計画によって、冷戦の方針をほぼかためてきた。 こうした中で十一月一日、米国務省より対日講和条約起草準備中と発表された。
この方針にもとづいて、トルーマン大統領は昭和二十五年の春、共和党のダレスを国務省の対日講和問題顧問に採用した。 これより対日講和は、ダレス外交を軸として展開してゆくのである。
社会党分裂
引用政府は昭和二十六年九月八日、この講和条約と安保条約の両条約に調印した。 そしてこの両条約の批准のために、十月十日、国会を招集した。 そのさいの各政党の状況をみると、自由党は与党として、(1)「国際条約を尊重し、自由諸国家群と提携して、 世界の平和と繁栄と安全に寄与する」という原則をはじめとし、 (2)「勤勉力行により国力を充実し、民生の安定と自衛力の漸増強化をはかる」、 (3)「国土の開発、生産の増強、貿易の振興により経済の自立を達成する」という三原則を基本とする新政策を発表して、 全面的に内閣との協力を表明した。 民主党の事情は、多少の異論もあったが自党の代表者を講和全権団の一員に送った関係もあり、全体としては内閣を支持した。
これに反して社会党の内部事情は、保守党のばあいと異なり、きわめて複雑であった。 両条約のいずれにたいしても賛成という者はなく、右派および中間派は、独立達成の必要という点から講和条約には反対する必要はないが、 安保条約には反対という分離論の立場をとった。 これにたいして左派は共産党と同じく、両条約とも全面的に反対した。 そのため両派の妥協はならず、けっきょく十月二十四日、党の分裂となった。
占領法規の見直し
引用講和条約の発効によって占領法規は無効となる。 これより先、二十六年五月一日、マッカーサーに代わって連合軍最高司令官となったリッジウェイ中将は、講和にそなえるため、 占領法規を再検討することを許可すると声明した。 そこで吉田首相は五月六日、政令諮問委員会を設置した。 委員は財界から石坂泰三・原安三郎、新聞界から板倉卓造・小汀利得、学界から中山伊知郎らが加えられていた。
委員会は二十六年六月から年末にかけて、追放解除、独禁法の緩和、ゼネスト禁止、行政機構改革と人員整理、 教育制度の改正、教育委員会の任命制、警察制度の集権化など多方面にわたる答申案を政府に提出したが、 政府が第一にとりあげたのは、治安立法と労働法規改正についてであった。
(1)占領目的阻害行為処罰令(政令三二五号)に代わってゼネストを制限・禁止する立法
(2)ポツダム政令による「団体等規正令」に代わる立法
(3)公共企業体等労働関係法・労働関係調整法・労働基準法などの改正
これら諸法令の立法または改正の主たる目的が、ゼネストの制限・禁止にあったことはもちろんである。 政府は労働組合や全学連などの反対を予想しつつ、「団体等規正令」に代わる「破壊活動防止法」を立案し、 これを立法化するため二十七年三月、国会に提出した。
この破防法の立法化に反対して、四月十二日、総評を中心とする労働組合の第一波の統一行動が行なわれ、 つづいて四月十八日、第二波のそれが行なわれた。 争議権をもっている労働組合は二十四時間ストや時限ストを、争議権のない官公労はいっせいに賜暇や職場集会などをもって、 統一行動に参加した。 炭労をはじめ一部の組合で第一波のストを中止したようなところもあったが、 第二波とともに全部で二百万人以上が参加し、昭和二十二年の二・一スト以来の全面的な政治的ストライキとなった。
朝鮮特需後の企業合理化
引用朝鮮戦争による特需景気は日本経済にたいへん刺戟を与え、経済再建に寄与するところ大であった。 しかし休戦に近づいた二十六年三月、米国が戦略物資の買付を停止したことが契機となって景気は後退過程に入った。 その影響はまず貿易面に現われ、貿易商社や繊維業者の整理・倒産があいついだ。 いわゆる商業恐慌的な事態が発生したのである。
この混乱を収拾する経済政策は、時の蔵相池田勇人が中心となって策定されたが、一度ブームを味わった産業界の協力をうるためにも、 「現在の不況は本質的なものではなく、動乱景気の中だるみとみるべきで、本格的不況対策を樹てる時期ではない」との判断のもとに、 主として企業の合理化促進の方向に向かった。 また産業貿易構造の重点を繊維産業から重化学工業に移し、鉄鋼業などの合理化をはかるために必要な外貨・円資金を供給し、 同時に電力・造船などの基幹産業にたいする重点的な資金投入をするといった拡大経済方針をとった。 これは「国際競争力強化のための近代化」策として、保守勢力から歓迎された。
しかし企業の合理化が企業の側からのみ一方的に進められるならば、 かならずや激しい反対闘争が労働組合の側から起こる。 二十八年から二十九年にかけて国内各方面に起こった労働争議、すなわち三鉱連首切反対闘争(二十八年十一月)・ 尼崎製鉄争議(二十九年三月)・日鋼室蘭争議(二十九年七月)などがその代表的なものであった。 政府・財界でも企業合理化に伴う争議の激化を予期して、二十八年六月四日、 電気事業および石炭鉱業のごとき基幹産業に適用するスト規制法のごとき立法を成立させた。 これは日経連の「基本的労働対策に関する意見」、いわゆる労働七原則にのっとったものである。
全学連の結成
引用全学連(全日本学生自治会総連合)の結成されたのは昭和二十三年九月であった。 当時、学園は戦争により荒廃し、財政の窮迫に苦しんでいた。 新しい日本を夢みていた学生たちは、その再建・復興のためにじっとしていられなかった。 その年の六月、「教育復興闘争」「授業料値上げ反対闘争」などに全国の学生がたちあがり、 大学・高専約二十二校、学生約二十二万人が組織され、全学連が結成されたのである。
学生運動の最初の動機は、学園の再建・復興のごとき地味な、建設的事業に学生として参加することであったが、 全国的な規模で学生を組織するという仕事は、共産党の青年統一戦線の一翼として行なわれたのである。 したがって全学連は、共産党員または活動家が執行部を指導するという形態で発展する。 すなわち大学自治をとなえる学生自治会は、外部団体によって支配されることになる。 ここに、今日にいたるまで大学自治と学生自治との関係において、常識では判断できない相剋が生ずる根本原因がある。
戦後対中外交の基点
引用日本がサンフランシスコ条約で正式にその権利・権原を放棄した地域のうち、もっとも早く外交関係の正常化をはかったのは 台湾の中華民国とである。 その事情は、太平洋戦争の相手国であった中華民国が、 事実上いわゆる「二つの中国」のゆえに代表者が講和会議に招かれなかったため、 日本としては講和会議とは別箇に処理するという日米間の了解があったことにもとづく。  【中略】 その経緯はつぎのごとくである。
すなわち日米間の了解とは、二十六年十二月二十四日、当時の吉田首相からダレス特使にあて、 翌年一月十六日に発表された書簡にあるように、日本は米国の条約批准に先立ち、 台湾の国民政府と講和を結ぶべしとするものである。 簡単にいって、このとき日本に二つの中国のうち国民政府と講和を結んで、米国上院の対日講和条約の批准審議促進をはかったのである。 事実、日華平和条約は二十七年四月二十八日、サンフランシスコ条約発効の日と時を同じくして調印された。
この条約は、台湾・澎湖島を現に支配している国民政府とのあいだの条約であって、 全中国の代表政権として承認したものではない。 この点について吉田首相は、条約審議のとさいに衆参両院の説明においてはっきりさせている。
もちろん、この条約交渉のさいに、国民政府側は全中国の代表政権として日本との平和条約を結ぶ意向であった。 そのために交渉は満二ヵ月以上の長い時間を要したのであるが、条約にかんするかぎり、 日本政府の立場は終始一貫していたといえよう。
その点についても、米国との了解にもとづいていたという事実を評価しなければならない。 すなわち、日華平和条約の交渉が行なわれているあいだに、米国上院においてサンフランシスコ講和条約の批准が完了したことが、 国民政府との交渉を促進する有力な契機となったからである。
しかし、このようなあいまいな状態におかれた台湾政府の中国代表権の問題は、 日本の対中共関係の前途に横たわる最大の障害となるものである。 このことは一般に、外交関係の回復または国交正常化における日本外交の歩みそのものを象徴している。 それは、二つの世界の谷間におかれている日本外交の自主性への限界を示すものである。 そして歴代保守政権の外交が「おとぼけ外交」とか「からくり外交」とか冷評されるゆえんのものである。
インドとの国交回復
引用インドはサンフランシスコ条約にたいして中立主義の建前から不満であった。 すなわち対日平和条約にたいしては、(1)極東における平和維持に直接関係ある諸国の参加が可能でなければならないにもかかわらず、 その可能性が閉ざされていること、(2)西南ならびに南方諸島の処理および米軍駐留の建前に同調しがたいこと、 (3)台湾や千島・南樺太など領土の帰属が明示されていない、などの諸点に不満だった。
しかし、同時にインドは、「日本との戦争状態終結には賛成であって、平和条約の発効と同時に戦争終結宣言を行なうとともに、 二国間の平和条約を締結する用意がある」旨を通告してきた。 それで日印復交条約も、二十七年四月二十八日、サンフランシスコ条約発効の日に調印され、 八月二十七日、批准書の交換も行なわれた。 この条約の内容は、大筋においてサンフランシスコ条約の線にそったものであるが、 インド側が賠償請求権を放棄している点において、インドの平和問題にたいする態度ならびに日本への好意が看取できる。
日ソ国交回復
引用日ソ交渉の発端は昭和三十年六月、ロンドンにおいて、 当時、民主党の代議士松本俊一とソ連のマリク駐英大使とのあいだの会談で始まった。 しかし領土問題で対立したまま三十一年三月、無期休会となった。 ついで七月、重光外相が訪ソしてシェピーロフ外相とモウコウ会談におよんだが、うまくいかなかった。 席上、重光外相は領土問題について、その歴史的根拠と法律論をもって堂々と日本の立場を主張した。 だが、これは日本国民の支持をかちえる国内向けの主張にすぎないかのごとく、 実際の交渉においては「忍び難きを忍んで」歯舞・色丹だけを返還するというソ連案をのまねばならなかった。
これは鳩山内閣としては、一方において日本における国論の一致を求めつつも、 他方さし迫っている漁業問題の解決のため、領土問題を棚上げして交渉をまとめねばならぬという苦しい立場にあったためである。
事実、会談は一時中絶したが、その年の十月七日、鳩山首相みずから病を冒してモスコウにおもむき、 十九日、戦争状態終結および国交回復の日ソ共同宣言と通商航海議定書に調印した。 それにおいても領土問題はソ連の主張どおりになっている。 日本としては日ソ国交回復を先決として、漁業・通商問題の解決を急ぐとともに、 日本の国連加盟に関するソ連の反対をとりのぞくため、領土問題棚上げしたのである。
安保改定阻止国民会議結成
引用三十四年三月、日米間の安保条約の改定交渉がまとまろうとしていたとき、 院外においては警職法改悪反対国民会議の組織をひきつぎ、安保改定阻止国民会議が結成された。 その幹事団体は、社会党・総評・中立労連・平和と民主主義を守る東京共闘会議・日本平和委員会・原水爆禁止日本協議会・ 護憲連合・日中国交回復国民会議・日中友好協会・人権を守る婦人協議会・全国軍事基地反対連絡協議会・全日農・ 青年学生共闘会議の十三団体、これに共産党がオブザーバー団体として参加した。 この幹事団体をふくめて、阻止国民会議参加団体は計一三四団体におよんだ。 この国民会議は、同年四月十五日、第一次統一行動を起こしてから同年末までに十次にわたる統一行動を行なった。 その参加者は労働組合員と全学連の学生とが大多数を占めていた。
安保闘争は、この国民会議が主体となって院外の一大国民運動として拡大していく。 そして翌年の五月十九日、大衆行動としての山場に達する。
安保改定の国会審議
引用安保問題の中心は、なんといっても国会審議の状況である。 二月十九日、衆議院の安保特別委員会が審議を開始した。 その冒頭に、野党側から「条約の承認に関する国会の修正権」をもちだしたので、 一週間ほどその論議がつづいた。 政府の公権的解釈でも、また憲法学者の一般的見解においても、国会には修正権なしということになっていた。
たまたまわたくしは、その問題にかんする公聴会に公述人としてよばれたので、 安保特別委の空気を知ることができた。 公聴会ですら騒然としていた。 わたくしは、政府や憲法学者の見解と異なって、条約といえども、 国会の承認に修正権を認める方が妥当であるという少数意見を披瀝した。
わたくしの根拠は、修正権を認めることによって多数決の強硬や少数意見の無視を避けることができ、 超党派外交の可能性も生まれてこようというわけで、 第一次世界大戦直後の米国上院における国際連盟規約審議のさいのロッジ修正案の例によって説明した。
もちろん条約の締結は、憲法第七十三条の規定にあるごとく行政府の事務である。 また条約は相手方もあるから、相手方を拘束するような修正は国際的には問題であろう。 しかし、そうかといって国会の審議を承認か不承認かで片づけてしまうことは、いたずらに政府与党の多数決主義の濫用と、 これにたいする院外の実力行動主義を正当化するにすぎないと考えたからである。
しかし国会の安保審議は、終始この多数決強行主義と少数実力主義との対決であった。 そしてその最後は、五月十九日、警官導入のもと、反対党の欠席のまま、しかも自民党のあいだからも多数の欠席者を出しながら、 国会の延長と条約の承認を強行採決し、条約の自然承認をはかったのである。
所得倍増計画と物価
引用所得倍増計画の決定以後、消費者物価の上昇ぶりをみると、まったく「駆け足の値上り」だという文句がぴったりだった。 昭和三十五年度には前年度の一・四%だったものが三・七%となり、三十六年度は五・二%、 三十七年度は不景気の年といわれたにもかかわらず前年度を上廻る六・七%、三十八年度は七・九%、 三十九年度は四%、四十年度はふたたび七・一%となった。
これには、経済成長さえ維持できれば二%ぐらいの上昇は平気だという人もいたのだが、 さすがの池田内閣も手をこまねいているわけにはゆかなくなり、いろいろ対策をねった。
消費者物価の激しい上昇が始まったばかりの三十五年九月に、池田内閣は「消費者物価対策」をたて、 とくに当時値上がりのいちじるしかった住宅費や野菜・魚介・食肉・牛乳などの生鮮食品の物価の安定策を強化した。 三十七年には「物価安定総合対策」なるものを樹立して、十三項目の対策を打ち出した。
(1)財政・金融の引締め基調を堅持していく、(2)貿易自由化を促進し、また非自由化品目輸入についても弾力的に考える、 (3)独占禁止法の運用を強化する、(4)労働力の移動を円滑にする、 (5)流通機構の簡素化と輸送力の増強をはかる、(6)間接税・関税の引下げによって消費者価格の低下をはかる、 (7)中小企業の生産性向上に努める、(8)農林水産物の価格安定に努める、 (9)地価・家賃の値上りを抑制する、などというものであったが、多岐にわたるものであるだけに“作文行政”に終わってしまった。
日韓条約
引用十四ヵ年の長いあいだ、数次にわたって続けられてきた日韓交渉が妥結したのは、 昭和四十年、佐藤内閣の手によってである。 椎名外相の韓国訪問により二月二十日ソウルにおいて日韓基本関係条約の仮調印が行なわれた。 つづいて四月三日、前からの会談案件であった請求権と経済協力、漁業、在日韓国人の法的地位の三問題についても交渉が妥結し、 仮調印が行なわれて、六月二十二日には正式調印が行なわれるにいたった。
日韓条約が長びいた理由は、旧植民地としての日本への不信と韓国の政情とにある。 それがともかくも妥結にいたったのは、ベトナム戦争の発展によるアジアの反共体制の強化という客観的情勢を見逃せない。 その意味で、佐藤首相・椎名外相のワシントン詣でが推進の契機となったことは否定できない。 そして米国が日韓両国の国交正常化にたいして斡旋に努めたことも明らかである。 しかし日韓条約を反共的・軍事的性格のものとしてきめつけることは、 韓国政府のおかれている立場からしては大いに考えられることであるが、 日本の意図からするならば、一方的な評価である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。