「ソ連から見た日露戦争」
参考書籍
著者: ロストーノフ編
訳者: 及川朝雄(おいかわ・あさお)
監修: 大江志乃夫(おおえ・しのぶ)
発行: 原書房(1980/07/30)
書籍: 単行本(379ページ/二段組)
定価: 2800円(?)
目次: 序論
第一章 戦争の起源
第二章 両国の軍備と計画
第三章 開戦と戦略的展開
第四章 旅順港の防衛
第五章 満州作戦
第六章 ツシマ海戦
第七章 極東地域の防衛
結び
補足情報:
ロストーノフの日露戦争史論はソ連の軍事史学界を代表する見解であると解して誤りないであろう。 したがって本書に書かれている論旨は最近のソ連の軍事史学界の支配的な思潮を示すものと受取ってよい。 (解説)
三国干渉
引用日本の急速な成功にともなって、極東における勢力関係が一変した。 朝鮮と南満州を手にいれたことによって、日本は南ウスリー地域の国境にぴったりと近づくようになった。 こうして日本は、極東においてロシアの利益を直接脅かすようになった。 ツァーリ政府は、事件の進展に当惑し、一八九五年四月十一日、つまり下関条約の調印を前にして、現状を審議するために、 特別閣僚会議を召集した。 この会議で蔵相エス・ユ・ウィッテは発言して、今次の戦争は直接ロシアに向けられたものであるといい、 次のように指摘した。 「われわれが今日日本人に満州を許すとすれば、わが国の領土を守るため、・・・・・・一〇万の兵と、 わが艦隊の増強が必要となる。 遅かれ早かれわれわれは、どうしても日本人とたたかわねばならなくなるからである」とし、 南満州を放棄するよう日本に最後通牒をつきつけるよう提案して、こうのべた。 「わが国にとって、今日戦争を決意するほうがずっと有利である。 そうでないと、ロシアは将来ずっと大きな犠牲を払わなければならなくなるからである。 会議は全員一致して、日本が南満州を占領しないよう「当初は友誼あるように」忠告することに決した。 これを拒否してきた場合、日本政府にたいし、ロシアは行動の自由を留保し、自国の利益にしたがって行動するものであると、 声明するよう提案がなされたのであった。
一八九五年四月、下関条約の調印後、ペテルブルグで特別閣僚会議が再度開かれた。 ウィッテは日本にたいし、遼東半島を占領しないよう要求し、もし聞きいれない場合には、 日本にたいし海上から軍事行動を開始すると威かすよう提案した。 会議出席者はこれに同意を表明した。 ツァーリ政府は、プリアムーリエ地域を攻撃するための基地になりうる朝鮮と南満州にたいする日本の奪取を許すまいとして、 積極的に行動するよう決定した。
アメリカと満州
引用一九〇一年の満州にたいするアメリカの輸出額は、イギリスが五〇〇万両(テール)、日本が二〇〇万両であったのにたいし、 七−八〇〇万両にたっしていた。 満州市場は、アメリカから中国に輸入される綿布類総額中約八〇−九〇%を占めていたのであった。
シベリア鉄道とイギリス
引用鉄道の建設にたいし、イギリス帝国主義者も、ひどく不安をいだいていた。 後に、イギリスの歴史家ホドソンは、こう指摘していた。 この鉄道は、「ロシアが極東において、ロシアやその他のヨーロッパ大陸の列強にたいして、 自国の海上支配のおかげで享受してきたイギリスの独占的地位を掘りくずせるのであった。 トラファルガー海戦以来、・・・・・・イギリスは、その他のヨーロッパ列強の対外植民地政策がもとで生じる一切の紛争の仲裁国であった。 ただロシア国だけは、陸路でアジアとつながっていたので、イギリスのヘゲモニーを軽視することができたのであった。 だがシベリア鉄道が完成されるまでは、ロシアのこういった優位性は、純粋に潜在的なものでしかなかった。」
ウィッテ失脚へ
引用中国との交渉で失敗したため、政府部内でのウィッテの影響力はくずれてしまい、 ベゾーブラゾフ派が極東問題にたいする自分たちの方針を政府に押しつけられるようにしてしまった。
鴨緑江の森林利権
引用それまで鴨緑江の森林利権を所有していたのは、ウラジウォストクの商人ユ・イ・ブリネルであって、 かれはこの利権を朝鮮政府から、一八九六年八月に二〇年の期限で手にいれたものであった。 この利権は、豆満江および鴨緑江の二大河の流域にまたがるものであった。 利権所有者は、同地域に道路を建設し、電信を敷設し、建物をたて、汽船を維持し、その他の利権をもつ権限を行使していたのだから、 利権期間中このものは、事実上北鮮の主人になったわけであった。 ブリネルは必要な資金を集められなかったので、かれからこの利権を手にいれたのが、その他の民間人と共同ではあったが、 ア・エム・ベゾブラーゾフなのだった。 この利権をつかって、ベゾブラーゾフ派は東アジアにおいて、商工業活動を拡大しようと目論んでいたのだった。
日露交渉に関するアレクセイエフの認識
引用日本政府は、協定案中に満州にかんする条項を挿入し、中立地帯にかんする条項をとり除くよう要求した。
ベゾーブラゾフ派は、こうした要求の受けいれに断固として反対した。 とくにこの点を固守したのがアレクセーエフ総督であって、ラムズドルフに宛てて、こう書き送っている。 「日本は、ロシアが朝鮮を日本の安全な保護統治下におくことを承認するよう執拗に要求するとともに、 満州問題の決定に参加する件を、すこしも放棄していない。 交渉と同時に日本は、自国の戦闘準備を強化し、朝鮮に基地を設けることさえやりだした。」 さらに、こうつづけて書いている。 「日本にたいするわれわれの関係を激化させるようになった不和の根元をもっと深く見抜かねばならない。 極東において優位にたって支配するという日本の考え方こそ、この不和のもとになっていた。 この野心満々たる考え方を達成するために、朝鮮問題や満州問題は、日本にとってはひとつの手段にすぎない。 したがって、これを地盤とした対日武力衝突は、ロシアには大きな不幸をもたらすとはいえ、 不可避であることを認めなければならない。」
ロシア側最終協定案
引用一月二十一日旅順港あてに発せられ、二十三日の夕方東京に手渡された電報、 さらに一月二十二日ラムズドルフが直接東京に発した電報がローゼン男爵の手に渡ったのは、 やっと一月二十五日(二月七日)のことであった。 これらの電報は長崎電信局で一日間とめおかれていたのだった。 そのためロシアの公使が電報を受けとることができたのは、日本がロシアとの外交関係が断絶したと公式声明をだした翌日になってからであった。 一九〇四年一月二十七日(二月九日)には、旅順港外にでていたロシア艦隊にたいし日本の水雷艇が攻撃をしかけていたのだった。
クロパトキンの決断力
引用極度に決断がたりなかったのは、満州軍司令官のア・エヌ・クロパトキン将軍であった。 エム・デ・スコベレフ将軍は、―一八七七−一八七八年の露土戦争当時、 クロパトキンは参謀長として勤務していた、クロパトキンにこう忠告したのである。 「君は二流の役割が適していることを、おぼえておきたまえ。 いつか主役を引き受けることなど、やめたまえ。君には決断力と堅固な意志が欠けている、 ・・・・・・どんなすばらしい計画もたてられないし、それを最後まで、けっしてやりぬけはしない。」
引用一月二十二日(二月四日)の夕方、東京では、ロシア艦隊が外泊地にいることが明白になった。 日本の軍司令部は、この好機をつかまえようと決めた。 日本の最高官吏が出席して開かれた天皇の御前会議において、ロシアとの開戦の決定が採択された。 東郷海軍中将は、ロシア艦隊を攻撃し、朝鮮に軍隊を上陸せよとの命令を受けた。 国内では動員令が発令された。
引用午後一〇時頃、旅順港の東方二〇海里の地点を巡航中の戦艦「ベストラーシヌイ」号と「ラストロープヌイ」号は、 戦闘灯で海面を照らしていたので、自分のいる場所を教えてしまった。 そのため、日本の水雷艇はロシア艦との遭遇をかわすことができた。
敵艦はロシア水雷艇の運行速度や方向を確認した後、「ベストラーシヌイ」号と「ラストロープヌイ」号が到着するよりも前に、 妨害されることなく外泊地にたっすることができた。 日本の水雷艇は灯台の明りや艦船の灯火を目当てにして、ロシア艦隊に近づき、近距離からロシアの艦船に向かって魚雷を一六発射ちこんだのだったが、 そのうちの三発が命中した。
午後一一時三五分、戦艦「レトヴィーザン」号で最初の爆発がおこった。 左舷の全砲門が日本の水雷艇に向かって、即時火をふいたのだった。
いくつかのロシア軍艦の兵員にたいしては、司令部の矛盾にみちた命令がだされていたため、それが禍して、 自分の艦を攻撃してくる日本の水雷艇を見つけても、ロシアの砲手や魚雷手はまちがいを犯すまいとして、 自艦を目がけて進んでくる魚雷をみたり、爆発の音を聞くまでは、砲門を開かなかった。 後にスタルク提督が総督に報告しているように、旗艦においてさえ、当初「爆発(最初の爆発)が偶然のものであったという考えが支配的であった。 当日戦闘に際会したときの準備として、わが方の水雷艇の魚雷が爆発したのだとさえ、考えられていた。 戦艦「ツェザレーヴィチ」号からの信号で、疑念がすべて解けたのだった。」
引用二月十一日(二十四日)の夜半、敵は港内の出入口を閉塞する第一回の企図を実行した。 閉塞船のために最適の地点を示すために、水雷艇「暁」がつけられた、同艦は老鉄山半島から南にある指定地点で合図をだすことになっていた。 停泊地に出現した日本の水雷艇は、「レトヴィーザン」号を攻撃しようとしたが、この攻撃は撃退されてしまった。
閉塞船が近づいてくるので、ロシア側の探照灯は、錨地に向って進んでくる汽船を照明した。 沿岸の砲台、「レトヴィーザン」号やその他の艦船から火蓋がきられた。 「レトヴィーザン」号の艦長で海軍大佐のエ・エヌ・シチェンスノヴィチは、この戦闘について、次のように報告している。
一時三〇分頃要塞の探照灯の明りで、二本の煙があがるのが見えた。 二時四五分に「レトヴィーザン」号の水兵たちは、損傷したロシア軍艦に向って真直ぐ進んでくる敵の大型水雷艇を見つけた。 直ちに敵にむかって砲門が開かれた。 そのすぐあと、戦艦ではさらに敵の水雷艇二隻を見つけた。 発射後敵の水雷艇は停止し、同艦の上には水蒸気の雲が見えた。 水雷艇の陰から、二隻の輸送船がでてきた。砲火は輸送船にあびせられた。
右方を進んできた輸送船は、砲火を避けようともしないで、右に向きを変えだした。 同船に火がつけられ、灯台の岬の石のあるところに座礁した。 もう一隻の輸送船もまた、向きをかえようとしていたが、砲弾をうけて大破し、水中に沈みかけ、沈没してしまった。 そのあと、砲火は、輸送船をすてて、海洋に立ち去ろうとしていた短艇にあびせられた。
沿岸の砲台と艦隊の砲火、探照灯の明りのため、日本軍の旅順港口の水道閉塞計画は失敗に終った。
マカロフ
引用短期間ではあったが、太平洋艦隊司令長官に海軍中将エス・オ・マカロフが就任したことは、 ロシア太平洋艦隊の戦闘行動において新しいペイジを開くものであった。 かれはロシア艦隊の優秀な提督の一人で、行動的で、創意に富んだ人物であって、 すぐれた理論家=学者とすばらしい実践家とを巧みに兼備していた。 かれが勇敢で、機知に富んでいたことは、一八七七−一八七八年のロシア=トルコ戦争のさい、 くり返し証明されていた。 だがマカロフは直情径行で、妥協性に欠け、「落ち着かない性格」のところから、 ニコライ二世やその側近者の受けがあまり香しくなかった。
マカロフは極東情勢に明るく、それに関心をもっていて、その情勢の変化を注視していたし、 クロンシタットから海軍の軍司令部にたいし、この地域における諸事件の今後の発展について時宜に適した警告をおこなっていた。
引用ロシア艦隊の積極的な行動をみて、日本の軍司令部は、旅順港の出入を閉塞する試みを大急ぎで実施しようとした。 三月十四日(二十七日)の夜半、東郷提督は連合艦隊の第一戦隊および第三戦隊、三七〇〇−四〇〇〇トン級の輸送船四隻を伴う水雷戦隊にたいし、 戦闘任務を遂行するため旅順港に向かうよう命令を下した。 暴風雨の天候と関連して、閉塞船を守るため、通報艦「竜田」と水雷戦隊がかり出された。 日本側は新しい作戦準備を秘密裏に実施しようとしていたが、マカロフはスパイを通じて、この件についてそれなりの報告をにぎっていた。 新しい攻撃を予想して、艦隊司令長官は巧みに撃退してしまうために、各種の措置をこうじた。 錨地と港内入港を守る組織が入念に考えられ、作成された。
敵の攻撃にたいする撃退を指揮したのが艦隊司令長官その人であって、戦場地区の近くにいようとして、 旗艦「ペトロパーヴロフスク」号から砲艦「ボブル」に移った。
夜間は暗かったが、沿岸の探照灯が、日本の軍艦が近づいてくるときにすでに照射したのであった。 三時三〇分、巡邏艦と沿岸砲台とがこれに砲火をあびせた。
最初の一斉射撃で、先頭の閉塞船が燃え始め、爆破した。 ロシアの水雷艇「シーリヌイ」号(艦長はイェ・イ・クリニツキー大尉)が発射した魚雷が二番目の閉塞船に命中した。 水雷艇「レシッテリヌイ」号は、三番目の閉塞船を攻撃して、これを撃沈した。 そして四番目の閉塞船は砲撃されて、岩の上に乗りあげてしまった。
ロシア軍の水兵は、数隻の日本船から、大砲や機関銃をとりあげてしまった。 その後、これらのものは旅順港防衛のために利用されたのだった。
満潮となるや、ロシアの艦艇は再び、港内から出航して、旅順港に近づいてきた日本艦隊にたいし、 港を閉塞しようとした新企図が効果をあげなかったことを実証してみせたのであった。
連合艦隊、魔の五月
引用五月二日(十五日)に、戦艦「初瀬」、「八島」、「敷島」と巡洋艦三隻[実際は巡洋艦「笠置」と通報艦「竜田」の二隻]からなる敵の艦船が 旅順港に姿を見せた。 ロシアの沿岸監視所は、戦隊の動きを注意深く監視していた。 間もなく、一番後を進んでいた戦艦「初瀬」に爆発が起った。 軍艦はひどく傾いた。 乗組員を助けようとして、ボートがだされた。 損傷をうけた軍艦に危険を犯して近づこうとした戦艦「八島」が間もなく第二機雷に接触して、これまた爆破した。 日本の戦艦二隻が沈没してしまった。 「初瀬」だけで、敵は士官と兵曹三六名、水兵四五七名を失ったのであった。
この日は日本艦隊の厄日といわれるようになった。 戦艦二隻以外に、日本海軍はエリオット島(裏長山列島)地域で、巡洋艦「吉野」を失ってしまった。 同艦では三三五名が戦死した。 その二日後、旅順港のロシア機雷にふれて、水雷艇「暁」が爆破したし、 日本の砲艦「大島」が、停泊中別の日本砲艦と接触して沈没してしまった。
得利寺の戦い
引用得利寺戦では、九連城戦のときと同じように、ロシア軍司令部は要求に十分応えられなかった。 ツァーリの将官連は、ごくわずかな例外をのぞいて、不決断であり、自分の手持ちの予備隊を活用できなかった。 ア・ア・イグナチエフは、こう書いている。 「得利寺戦は、最高司令官たちの教育上の主要欠陥の一つ―相互支援感の欠如、 官位の年功序列といった狭量さ―を暴露したものであった。」
得利寺戦では、ロシア軍の砲兵隊が中途半端にしか行動しなかったし、開かれた陣地から砲門を開いたため、 日本軍の砲兵隊は、それを急速に制圧できたのだった。
金州陣地
引用ロシア軍が後退してきた金州陣地は、遼東半島と関東半島とを結ぶ狭い地峡(幅約四キロメートル)の高地に配置されていて、 旅順港から六二キロメートルの地点に所在する金州陣地は、「旅順への門」ともいわれ、 旅順とは密接に結びついていた。 金州地峡に設けられた堡塁は、一三個の砲台、五個の多面堡。三個の眼鏡堡からなり、 歩兵の塹壕もまた、二段、場所により三段に掘られていて、互いに交通路で結ばれていた。
この陣地の東方と北方には、鉄条網と、電気導火線のついた地雷八四個からなる障碍物が設備されていた。 それ以外に、陣地には六六個の掩蓋が張られ、坑道が八本も掘られ、電話線が敷かれ、探照灯が二つ設備されていた。 金州陣地の左翼から北方にのびていた金州の町もまた、防衛できるようになっていた。
引用ロシア軍艦の正確な砲撃は、金州陣地の防衛軍の士気を高め、敵軍の左翼を混乱におとしいれてしまった。 昼頃までに日本軍歩兵の攻撃はやんだし、敵の砲兵もまた、ロシア陣地にたいする砲撃を中止した。
午後二時、攻撃が再開された。 第五東シベリア歩兵連隊の激しい小銃=機関銃の射撃をうけて、敵軍の戦線は多大の損失をうけ、 前進運動も緩慢になり、その二時間後には、この攻撃も息切れしてしまった。
日本軍の第二軍司令官の金州戦にかんする公式報告には、次のようにのべられている。 「敵歩兵の執拗きわまる抵抗にあって、事態は午後五時まで変らなかった。 それ以前にはわが軍は、わが歩兵が攻撃するための突破口を見つけだせれなかったし、わが軍左翼の第三師団は、 このとき包囲される危険におちいっていた。 敵軍は手持ちの歩兵をわが軍左翼にたいし強化し、南関嶺の両砲台が敵の攻撃を支援したからであった。 このため、師団の左翼はますます脅かされるようになったのと同時に、野砲の手持ち砲弾がほとんど底をついてしまい、 これ以上戦闘を続行するのは、きわめて危険であることが明らかになった。 そこで私は、わが軍歩兵にたいし、陣地に突撃を敢行の上、いかなる犠牲を払ってでも陣地を占領せよとの命令をだした。 わが軍砲兵にたいしては、敵軍に猛烈に砲撃するため、残っていた砲弾を射ちつくせと命令がだされていた。 わが第一師団の歩兵は、敵のはげしい側面砲火によって、大量のわが兵が戦死したり、負傷をうけてしまった。 今後攻撃は不可能と思われ、事態は危機に瀕するようになった次第である」と。
だが日本軍司令部には、絶望的と思われるようになったこの時期に、第四師団部隊が艦砲射撃の支援をうけて、 ほとんど完全に破壊されたため、第五東シベリア連隊の兵たちが放棄してしまった金州陣地の左翼塹壕を占領できたので、 日本軍の歩兵は、この突破口から陣地に突入したのだった。
敵軍がロシア軍の左翼を突破したことで、地峡戦は事実上終った。 午後六時すぎ、第五東シベリア歩兵連隊の各部隊は、フォーク師団の主力の支援をうけないまま、 金州陣地から旅順港に向って総退却を始めた。
乃木上陸時点での旅順戦線
引用諸外国の軍事評論家、B・W・ノリハード、E・A・バートレット、K・グランブレ、その他の人たちが、 五月後半をつうじて、一三−二〇キロメートルにわたって安子山、台子山の線で防衛していた日本の第三軍の現状は危機的なものであったとみなしているが、 それは理由のないことではなかった。 この時期にはロシア軍の側が兵力の点で優勢をしめていたから、日本軍司令部には、 旅順港側からの攻撃を懸念する一切の根拠があった。 それなのに、ステッセルと彼の幕僚たちは、敵軍、その兵力、意図についていくぶんでも確実な情報をにぎっていなかったため、 関東半島にでてきた好機を利用しなかったばかりか、それとは逆に、敵軍が決定的攻撃に転じてくるのを終始恐れていたのだった。
六月当初の一二日間には、関東における両国軍の現状になんら本質的なものが持ちこまれなかった。 ロシア軍も、日本軍も、自分たちの陣地の補強に働きつづけていたし、 その間日本軍司令部は、前哨部隊を漸次ロシア軍の配備地域のできるだけ近くまで前進させておいて、 敵軍の一番脆弱な個所を見つけだそうとしていた。 前哨部隊のあいだでは、小競合いがほとんど毎日のようにおこなわれたものの、いかなる大衝突も起らなかった。
ヴィトゲフト
引用ヴィトゲフトの個人的勇敢さは、疑いのないものだった。 こんなことは、たいしたことではなかった。 彼は立派な参謀の資格をそなえてはいたが、艦隊を指揮する実際の経験をもっていなかった。 アレクセーエフの出立後艦隊の長官にとどまっていたのであって、 ヴィトゲフトは、艦隊司令長官と各艦長との最初の会議で、はっきりとこう告白したものだった。 「諸君は、協力するだけでなく、忠告もして貰いたい。 自分は艦隊司令官じゃないのだから。」
ステッセルの指揮権
引用旅順港防衛の全般的指揮は、要塞司令官カ・エヌ・スミルノフ海軍少将がおこなうはずになっていた。 しかし要塞内では先任長官としてア・エム・ステッセルがそのまま残っていた。 彼は関東要塞地区の長官として、一九〇四年三月に任命されたのであったが、 七月にロシア軍が旅順港に撤収したので、それはもはや存在していなかった。
ステッセルの職務は、当然なくなった訳である。さらに六月に入って、彼はア・エヌ・クロパトキンから、 指揮権を要塞司令官に引き渡した上、自身満州に赴けとの命令を受けた。 だがステッセルはこの命令を遂行しなかった。 スミルノフにあてたクロパトキンの命令の写しが偶然に彼の手にはいったので、それを秘匿してしまったのだった。
ステッセルのこうした犯罪行為の結果、要塞とその守備隊の指揮には、 防衛の当初から本質的な欠陥が存在していた。 旅順港の防衛最中に、部隊がステッセルの命令とスミルノフの命令とを同時に受けるようなことがしばしばおこった。 ときには、これらの命令が相互に相反するものであったりした。 要塞司令官のスミルノフは事実上、自分の直接義務の遂行から遠ざけられていたのだった。
コンドラチェンコの活躍
引用旅順港の防衛組織において目ざましい役割をはたしたのは、陸上防衛隊長であったエル・イ・コンドラチェンコ少将であった。
開戦のさい、要塞の陸上戦線の事情は危機にひんしていた、多くの築城施設の建設がまだ完成していないで、 そのうちのいくつかは、まだやっと設計の段階にあった。 指揮官および軍事技師としての深くて多面的な知識、尽きることを知らない精力と創意、 軍隊内における特別の権威によって、コンドラチェンコは事実上新規に、ごく短期間で要塞防衛体制をつくりあげることができた。 陸上戦線を補強するために、数ヵ月間で、一八九八年以降実施されてきた以上のことが成しとげられたのだった。
コンドラチェンコの指揮下で、旧堡の改善と新堡の築城工事が実施された。 新設された半永久堡および野戦築城物のいくつかは、かつてカ・イ・ヴェリーチコの設計によっても考慮されていなかったものだった。
それとともに、コンドラチェンコは、旅順港の防衛が、兵と士官の士気が高く、 創意性を発揮する場合にはじめて成功できるものだと理解していた。 彼は、兵と士官の英雄心を発揮させようとして、どんな一つの偶然の機会をも見のがさなかった。
コンドラチェンコについての評価
引用皆が認めているように、エル・イ・コンドラチェンコは、守備隊員のあいだで大きな権威をもっていて、 旅順港防衛の本当の中心人物であった。 防衛に参加していたヤ・ウ・ミシコは、コンドラチェンコについてこう書いている。 「旅順には彼が見渡し、先頭にたって、すぐさま堡塁、仮設堡、砲台の出番を示そうとして、 動きださないような所はどこにもなかった。 ・・・・・・コンドラチェンコ将軍は旅順にとってすべてであり、英雄心を発揮させる力でもあり、 魂でもあり、思考でもあり、精髄なのでもあった。」
旅順要塞明け渡し勧告
引用関東半島攻略戦のときと同じように、旅順港前衛陣地のロシア軍が執拗に防衛し、 この戦闘の最中に、第三軍があまりにも手痛い損害をうけたので、 日本軍司令部はひどく当惑してしまった。 乃木軍の参謀部や東京で、旅順港の今後の戦闘では、もっと大きな犠牲を払わねばならないだろうし、 日本軍の士気にも多大な影響が及ぶにちがいないと考えたのは、理由のないことではなかった。 このため、総攻撃を開始するに先だって、第三軍司令官の乃木将軍と日本艦隊司令官の東郷提督が八月三日(十六日)の朝一〇時に、 戦わずに要塞を明け渡し、要塞から全市民を解放したらとの書状の提案をもたせて、旅順港の陣営に軍使を送ったのであった。
この日開かれた防衛会議の席上、この最後通牒を拒否する決定がなされ、翌日の朝、 日本軍司令部にたいし、次のような内容の回答が手渡された。 「要塞を明け渡すようにとの提案は、ロシア軍の名誉と資質に相容れないものであり、 要塞の現状を正当化するものでない以上、検討の対象とはなりえない。」
旅順総攻撃@計画
引用日本軍司令部が作成した旅順港要塞攻撃計画案は、次のようなものであった。 ―八月六日(十九日)、陸上戦線全体にたいし砲撃を開始し、 ついで砲撃に掩護されて、西部戦線前衛陣地にたいし示威的攻撃を敢行し、 若干遅れて前衛陣地に補助的攻撃を開始し、 最後に、八月八日(二十一日)の未明に東部戦線にたいし主要な打撃を加えるというのであった。
旅順要塞の評価
引用速効が成功しなかった最重要な原因は、日本軍司令部が自軍の力を過大評価し、 旅順港守備隊の戦闘能力を過小評価したところにあった。 当時乃木軍の参謀部にいたイギリスの軍事観察者のB・W・ノリハードは、 すでに日露戦争が終った後、次のようにのべている。 「要塞の威力にかんする資料を知った現在、これほど短期間で要塞を占領できるとは期待できなかった。 この意味でいかなる企図もありえないと思えると、結論づけてよいであろう。 通常あれほど物事に通じていた日本軍諜報部がどうして、要塞が示した測りしれないほど強大な手段を評価できないで、 あれほど無謀きわまるやり方を阻止できなかったかについて、驚くものである。 ・・・・・・日本軍は、要塞や、粉砕しようとしていた資材の強度についても、誤算したのであった。」
旅順坑道戦
引用十月総攻撃の失敗によって、日本軍司令部は、もっと広範な規模でロシア軍の各堡塁や防衛施設に接近し、 要塞にたいする次の総攻撃に有利な出撃陣地を用意する地下坑道作業に訴えざるをえなかった。 こうして、旅順港攻防戦における新時期―つまりいわゆる坑道戦争の時期―が始まった。
【中略】
敵が実施する地下坑道作業の答えとして、旅順港守備隊は積極的に反坑道闘争を展開し、しばしば、 堡塁や防禦施設の占領を目ざした日本軍の多くの企図を無にしてしまった。 この頃になると、敵軍は三〇歩位のところにまで進んできて、ただ壕の広さや胸墻の厚さだけで互いにへだたっているにすぎなかった。
坑道戦は、実際のところ、第三次総攻撃以前にすでに開始されていた。 十月十四日(二十七日)に実行された第二号堡塁に通ずる日本軍の坑道にたいするロシア軍の反坑道による爆破は、 旅順港が陥落するまで一日とて止まなかったすさまじい坑道戦の開始となった。
【中略】
イギリスの軍事観察者E・A・バートレットは、日本軍の工兵の作業について、こう書いている。 「まる一ヵ月間も、狭いコンクリート造りのひどい空気のなかで、 たえず敵に爆破されるのではないかといった恐怖にさらされて、手榴弾の炸裂するなかで弾丸や銃剣で殺されはしないかといった恐怖をいだいて、 日本兵はこの世から遠く離れて、頑強な敵を地下施設から叩きだそうとして、たたかっていた。」
白襷隊
引用夜半、日本軍はもう一度決定的な打撃をあたえようとした。 そのため中村将軍に率いられた二六〇〇名からなる特別義勇隊[特別支隊いわゆる白だすき隊]が編成された。 白だすき隊は要塞深く進入し、東部戦線の防衛線に突破口を開くはずであった。 中村隊には次の任務がかせられた。 ―夜にまぎれてひそかにルン(竜)河の谷間を前進し、 東部戦線の左翼を占領し、コザック練兵所からクルガン(松樹山第四)砲台を急襲する、 クルガン(松樹山第四)砲台を占領したら、部隊は第3号仮設堡(松樹山)を襲い、 東部戦線の各堡塁の背後の拠点を次々に占領せよというのであった。 この頃、第三軍の主力が再び東部戦線を突撃するはずであった。
出発を前に中村は次のような命令を出した。 「われわれはだれも戻ってこれないであろう。・・・・・・どの士官も、いかなる階級にあろうとも、予め自分の代理をきめておくこと。 敵にたいしては銃剣で打撃をあたえること。敵の砲火がいかに強かろうとも、 われわれが敵の位置を確認するまで、だれも射ってはならない。 士官にたいし、理由なしに隠れたり、自分の位置を放棄したり、後退するものにたいしては、即時射殺してよいと命令する。」
コンドラチェンコ戦死
引用十二月二日(十五日)の朝から日本軍は、占領ずみの第二堡塁(東鶏冠山北)の対抗坑道の個所でフェルトをもした。 これは燃焼のさい窒息性ガスをだすので、このガスがロシア兵のいる坑道にまで浸透し、 そのため、次の防禦横墻にまで四〇歩後退せざるをえなかった。
日本兵は坑道の放棄したところを占領したが、コルニエンコ曹長に率いられた第二六連隊第一二中隊の兵たちが手榴弾で敵を追い払ったものの、 このときロシア兵が毒ガスを使用したので、これ以上坑道内にとどまっているわけにはいかなくなった。
この件について直ちにコンドラチェンコに報告された。 午後八時頃彼は堡塁にやってきて、それを点検して、堡塁の胸墻側面につくられた日本軍の坑道の爆破をもはや防ぐことはできない、 残っていることは、余分の損害をさけるために、堡塁の守備隊を縮小することだけだという結論にたっした。
この時日本軍は、一一インチ砲による堡塁砲撃を開始した。 一発が、以前にすでに貫通していた防禦施設の丸天井に命中し、コンドラチェンコとその幕僚士官がいた建物で爆発した。 そこでコンドラチェンコ将軍、イェ・イ・ナウメンコ中佐、エス・ア・ラシェフスキー中佐、他に士官六名が戦死した。 こうして、戦場ですぐれたロシア人愛国者で、旅順港の英雄的防衛の倦むことを知らない組織者であり、 鼓舞者であったローマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ将軍が戦死したのだった。 コンドラチェンコの戦死は、要塞守備隊を極度に気落ちさせてしまった。 これは、開戦当初のエス・オ・マカロフ提督の戦死と同じように、償うことのできない損失であった。
十二月三日(十六日)に、ア・ヴェ・フォーク将軍を陸上防衛司令官に任命すると発表された。 第七師団長の職には、エム・ア・ナデイン将軍が就任した。 金州陣地戦、ゼリョーヌイ(緑)山およびウォルチー(狼)山の戦い以後、 旅順港守備隊から信頼されていなかったフォークの任命は、防衛の順調な結末にたいし懸念を秘めた不吉な前兆と全員に受けとられた。
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