「参謀・辻政信」
参考書籍
著者: 杉森久英(すぎもり・ひさひで)
発行: 河出書房新社(1982/08/04)
書籍: 文庫(248ページ)
定価: 円(?)
目次: 成績抜群の少年時代
逸話の多い青年将校時代
士官学校事件、ノモンハン事件の真相
猛獣小屋の英雄
「作戦の神様」の悲劇的変貌
「潜行三千里」の内幕
赤い絨緞を踏む憂国の代議士
政界における失意と謎の失踪
著者ノート 文庫収録にあたって
補足情報:
第二次大戦のさなかに“作戦の神様”と謳われ、旧満州・中国・フィリピンなどアジアの戦野を疾駆した参謀・辻政信。 その生い立ち、士官学校・青年将校時代、武勲の数々、そして敗戦後六年間の“潜行三千里”から 代議士としての再登場、ラオスでの謎の失踪にいたる生涯・・・・・・伝説的な同時代人の虚像と実像を探り、 昭和史の悲劇の本質を帝国軍人の典型像を通して浮彫りにする伝記文学の傑作!(裏表紙)
見習士官辻政信
引用遊び好きの先輩将校たちにとって、 辻政信はいくら訓育指導に努めてみても、あまり伸びる素質のある後輩ではなかった。 彼は酒は嫌いではない方で、酒量も相当だったが、料理屋に出入りすることを嫌い、 芸者が酌をしようとしても、受けなかった。 まして人が女遊びに誘っても、絶対に乗らなかった。 隊内の下士官たちの間では、が女の所に泊ることがあるかどうかで、賭けが行なわれたが、 結局泊る方に賭けた方が負けたという伝説が、今日も残っている。
は同僚の遊蕩につきあわなかったばかりでなく、彼らの放縦、自堕落を、常に攻撃してやまなかった。 演習に出かけて夜営しているとき、酒気を帯びている先輩にむかって、兵隊が寒さにふるえているのに、 何事かと攻撃して、取っ組み合いの喧嘩になったという話も伝えられている。 享楽や贅沢を罪悪とし、刻苦精励を最高の徳とする信念は、牢固として抜きがたいものがあった。
辻政信の初年兵教育
引用初年兵教育の教官として、彼が部下を特別に愛し、部下からも敬愛されたことは、 伝説的になっている。 【中略】 陸大受験を目ざす青年将校が自分の時間を持つために回避したがった初年兵教育を、 彼は進んで引き受けたばかりでなく、熱心にその事に当った。 彼は自分が教育を担当する兵が決定すると、ただちにその身上調査表を熟読して、 名前と顔をおぼえてしまい、一人一人にむかって、以前からよく知っている男であるかのように、 親しく呼びかけたので、兵たちは感激した。 もっとも、これはに限ったことではなく、少し隊務に熱心な将校はみなやったことである。 ただ、特に辻政信についてこういう伝説が作り上げられ、下士官や兵士の間に崇拝熱が起ったのは、 彼のやり方が際立っていたからであろう。
彼はまた、訓練は峻烈厳格をきわめたけれど、弱い兵隊に対してはいたわりが深く、 行軍中に疲労して落伍しそうになる者があると、その銃をかついでやり、無理を強いなかった。 身体が特別に頑健だったせいもあるが、彼は一時に何人もの銃をかついだ。
また彼は、背嚢の中にいつも飴玉、キャラメルの類を入れていて、 折に触れて兵隊に分けた。夜行軍の時は二本の水筒に酒を入れて携行し、さしつかえのない時は皆に一口ずつ飲ませてやった。
あるときの行軍で、兵隊一同が水筒の水を飲み尽し、附近には飲用に適する水が見当らず、渇きに苦しんで、 見るに耐えぬことがあった。その時辻少尉の水筒には、まだ充分の水が残っていたが、 それは百人の兵隊の渇きを医すに足るものではなかった。 彼はいきなりその水を地面に捨てると、兵隊と共に渇きに耐える覚悟を示した。
彼はいつも部下と同じ食物を食べ、部下と苦労を共にするように努めた。 行軍中休憩するときも、ほかの将校や下士官は、まず腰をおろして休むのに、彼一人腰をおろさず、 兵たちを見廻っていちいちねぎらいの声をかけ、特に疲労した者があると、ゲートルをはずしてゆっくり休めと勧めた。 将校は兵に比べて軽装で、疲労度がすくないとはいえ、実際にはなかなかできることではなかった。 まして辻少尉は背嚢に煉瓦を入れ、重い靴をはき、兵の銃まで持ってやっているのである。 兵士たちのに対する尊敬は、信仰にまで高まった。
引用義勇団と式壇との距離はせいぜい三十メートルくらいであった。 岩崎は、壇上のエライ人たちも、本当に国家を歌うだろうかと、青年らしい好奇心をもって注視していると、 彼らはたしかに、口をもぐもぐさせながら歌った。 義勇団の背後、約二百メートルのあたりに、陸軍部隊と海軍陸戦隊が整列していた。 その中に中隊もあったわけである。
その時の光景を岩崎は今でもあざやかに記憶しているが、君が代の第一回が終って、 「苔のむすまで」の「で」まで来た瞬間、白川大将の左に立っていた植田中将が、 急に直立不動の姿勢を崩して、その位置を離れようとした。 反射的に何かを避けようとする身振りである。 同時に、直径約二メートルの真白な火の玉が閃き、轟音とともに、煙が立ちこめて壇上の人々の姿が見えなくなった。 煙が薄れるに従って、壇上では、モーニングを着、シルクハットをかぶった一人が横たわり、 しきりに起き上ろうと努めている風であったが、立つことができなかった。 これが後の外相、重光葵公使であった。
もう一人、悠然と歩いて、階段を下りようとするカーキ色の軍服の人があった。白川大将である。 大将が、一、二歩下りかけて、紅白の巻かれた手摺りに左腕を掛けた途端、その肩から手首へかけて、 サッと血の吹き出るのが、鮮かに見えた。 同時に、ぐたりと倒れようとするのを、二、三の人が馳せつけて、下から支えた。
他の四人は、爆風に飛ばされたのか、自分で逃げ下りたのか、壇上には見えなかった。
場内が騒然となったのは、しばらく後のことである。 この時、現場へ真先に駈けつけたのは、岩崎ら三十名の義勇隊員であった。 義勇隊は知識階級の者が多く、極めて自由な空気に満ちていたから、 各自がそれぞれ自己の判断において行動することに馴れており、誰が指揮するともなく、 一斉に前進したのである。事実、憲兵は百メートル後にぼんやりしていたし、 多数の陸海軍部隊は二百メートル以上離れたところにいたから、現場へ直行するには多少の時間がかかったはずである。
義勇隊が壇の下へ駈けつけてみると、一群の日本人が、誰かを取り囲んで、袋叩きにしている。
「この野郎」
という声が聞こえ、下駄を脱いで殴っている男もいる。 日本人の大部分が靴をはく習慣のなかったそのころ、下駄は、即座に武器に転用できる便利な履き物であった。
殴られているのは犯人の尹奉吉であった。 朝鮮人から見れば民族的英雄である。 彼が投げたのは、弁当箱に仕掛けた爆弾で、その投げる所を周囲の群衆に見られているから、逃げも隠れもできない。 たちまち取り囲まれてしまったのである。 義勇隊員の一人が尹を捕え、もう一人の隊員が附添って、憲兵のところへ引き立てて行った。
あとで式壇を見ると、床に直径五十センチの穴があき、一メートル下の芝生の土がえぐられて、 爆発力の強さを物語っていた。 もともとこの日は、はじめから不祥事を予想して、白川大将などは、宿舎から新公園の会場まで来る間に、 自動車のナンバープレートを五回取換えたといわれるくらい、警戒を厳重にしていたのであるが、 やはり手ぬかりは免れなかった。
引用ある日は、彼の中隊の候補生佐藤勝郎(長崎県大村出身)から、 彼の隣の中隊の候補生武藤与一が、上級の候補生数名とともに、先輩の村中孝次大尉磯部浅一主計西田税予備少尉らの影響のもとに、国家改造理論の研究グループを作り、何事かを画策している模様で、 自分も参加をすすめられている、という報告を受けた。 は佐藤候補生に引き続き彼等の動きを偵察することを命じ、その報告によって、 彼等の計画の概要を知った。 それによると、彼等は十一月二十一日の臨時議会の前後に、ほぼ五・一五事件と同様の規模と方法でクーデターを断行し、 首相岡田啓介、前首相斎藤実、公爵西園寺公望らの元老、重臣を暗殺して、警視庁を襲撃し、 荒木貞夫真崎甚三郎林銑十郎らを主体とする軍政府を樹立しようというのであった。 は参謀本部の同僚で、彼より五期先輩の少佐片倉衷(終戦時少将、第二百二師団長、その後商事会社経営)と、 同期の憲兵大尉塚本誠(終戦時大佐、東部憲兵隊司令部高級部員、戦後電通社長室長)に相談して橋本陸軍次官に報告し、 断乎たる処分を要望した。士官学校事件、あるいは十一月二十日事件というのがこれである。
以上の記述は、大体、、片倉、塚本らの言うところによったものだが、 当時の候補生武藤与一(戦後葛飾区で書店経営)によれば、このクーデター計画は全く事実無根で、 たちが捏造したものにすぎないという。 すなわち、の内意を受けた佐藤候補生は、革新の同志を装って、武藤に接近し、村中磯部西田らの家へ案内させると、 ほかの話はそっちのけにして、重臣では誰と誰を殺すべきだとか、蜂起の時期は何時がいいとか、 夢中になって論ずるので、かえって相手から、今はその時期にあらず、国民全体の盛り上がる力を待つべきだと、 なだめられたくらいであった。
しかし、佐藤は色をなして反論し、なおも過激なことを言い募り、また、士官候補生一同の赤誠溢れる要望を、 青年将校たちは見殺しにするのかなど、畳みかけてくるので、村中たちは彼の熱意に押されて、 自分でもそれほどハッキリ考えているわけでもない暗殺計画や、大体の時期や、同志の名前を告げて、 佐藤を一応満足させねばならなかった。 佐藤はそれをメモして帰り、辻大尉に報告したので、ここに十一月二十日事件という架空の反乱計画がデッチ上げられた。 (当時中尉だった末松太平の「私の昭和史」の記述も、この事件はの陰謀だったと断じている)
そして武藤、末松らの意見によれば、当時青年将校や士官候補生の間にありもしなかったクーデター計画を、 わざわざ純真な佐藤候補生を使ってスパイさせたの卑劣と狡猾こそ責められるべきであり、 それがひいては相沢中佐による永田少将刺殺事件をひき起し、二・二六事件の原因にもなっているという。
引用昭和十三年三月、は少佐に昇進した。 そして翌十四年五月、ノモンハン事件が勃発した。 この日本陸軍にとって不名誉な戦いにおいて、最も顕著なことは、軍の中央部が終始一貫して不拡大、局地解決の方針を 取っていたのに対して、関東軍がそれを無視して、攻勢に出ようとしたことである。 彼らは、おそらく参謀本部へ事前に連絡すれば禁止されるだろうという見通しで、秘密のうちに、 外蒙タムスク飛行場を空襲する計画を進め、それが事前に洩れて、中止を命ぜられるや、 予定を繰り上げて空襲を決行するほどの熱中ぶりであった。
彼らの本心は、真に国家の前途を憂えるとか、民族の幸福を願うとかいうことのほかに、 宿敵ロシアを相手に華々しく一戦を交え、大戦果をあげたいという、職業軍人の浅薄な功名心から出たものであった。 幼年学校、陸士以来ロシア語を学び、深く理由を究めることもなくただロシアに対する憎悪と敵愾心だけを植えつけられた彼らは、 あたかも怪しい人影さえ見れば、見つかいなく吠え立てるように訓練された番犬のように、 相手がロシアだということだけで、条件反射的に、盲目的に突進したに過ぎなかった。 そしてこの関東軍参謀部において、はじめから終りまで最強硬論をとなえ、全体をひきずっていたのは、 作戦主任参謀服部卓四郎と辻参謀であった。
このときの関東軍参謀長は磯谷廉介中将(陸士十六期)であった。 磯谷は辻政信が若き中尉だったころの歩兵第七連隊長で、(もっとも、彼が着任した昭和三年八月から四ヵ月後の十二月には、 は陸大に入学しており、直接部下として交渉のあったのはごく短期間であったが)そのとき以来の人物に惚れ込んで、 賞讃を惜しまず、人が磯谷の前でのことを誹謗すると機嫌を悪くするほどであった。 報知新聞の軍事記者佐野増彦などは、このへんのコツを心得ていて、磯谷に誰かを紹介するときは、 閣下の前での悪口だけは言わん方がいいよと、あらかじめ注意をしたものであった。
【中略】
しかし、ノモンハン事件の惨憺たる敗北の原因は、敵と味方の兵力の誤算にあったのである。 服部もも、世評では作戦の大家ということになっており、特にについては、作戦の神様という称号まで流布しているが、 ノモンハン事件におけるこの誤算だけでも、彼を神様の座からひきずり下す理由として充分であろう。
ある女中の日本軍未来予測
引用当時の日本軍将校の生活も、相当乱れていた。 太平洋開戦の直前ハノイにいた評論家芦原英了の回想によると、 仏印へ進駐した日本軍の将校たちの日常を見て、現地人の女中が、日本は負けるにちがいないと予言したという。 芦原が何故かと聞くと、日本の将校さんたちは、女郎屋へ通うのに、堂々と軍の自動車に乗り、 入り口に従卒を張り番に立てている。 フランス人の将校も、そういう家へ通わないでもなかったけれど、平服を着て、 こっそり人目をしのんで出かけたものだと答えたという。
「支那派遣軍将兵に告ぐ」
引用猛獣小屋における辻政信のもっとも華々しい仕事は、 汪精衛を首班とする国民政府の誕生を機会に、「支那派遣軍将兵に告ぐ」という布告を発布したことであった。 これは板垣総参謀長の名前になっているが、本文はの起草したもので、 まず支那事変が道義のための戦いであることから説き起し、戦場における不必要な破壊、掠奪、暴行等を厳に戒め、 「諸子の故郷と同じ平和な農村が戦場となる。 農民の汗の結晶である田畑を荒らしてはならぬ」というように、平易な文章で、 一兵士の心の底まで沁みこむように書かれたものであった。 そしてさらに、事変処理は東亜連盟運動の推進による以外に道はないと説き、最後に、 召集が解かれて国内に帰還したならば、戦場に倒れた戦友の英霊にこたえて、 腐敗せる国内を建て直すべき精神的中核たらんことを期してほしいと結んだ。
このパンフレットは大部数印刷され、四月二十九日の天長節を記念して支那派遣軍の全将兵に配られたが、 中国側に与えた影響も大であった。 不必要な掠奪や暴行をいましめた気持ちの奥には、昭和十三年の南京大虐殺に対する反省の意味がこめられていたことは いうまでもないが、この言葉を、侵略思想の権化のように思っていた日本軍人から聞いたことは、 中国人にとって思いがけぬことであった。 当時たまたま汪精衛政権が成立して、首都南京はさまざまの慶祝行事で湧き返っており、 派遣軍ではその行事の一環として、軍罰軽減令なるものを発布して、 漢奸やスパイ嫌疑で憲兵隊に逮捕され、不当に処罰されている中国人を多数釈放したばかりであったので、 中国側は官民あげて、感激してこれを迎えた。
一方、このパンフレットの反響の大きかったことが、逆に、日本国内に東亜連盟運動に対する弾圧を招くことにもなった。 すなわち、日本をもってアジアの盟主とする従来の軍首脳部の立場からみれば、 このパンフレットは中国人の感情を尊重しすぎ、彼等におもねることになり、 日本の主権の意味を曖昧にする要素をふくんでいるというのである。 この論旨を推し進めてゆけば、朝鮮民族の自主独立も認めねばならず、共産党の主張とも区別がつかなくなるのであった。 事実、東亜連盟は朝鮮人に対する考え方も、いちじるしく自由であった。 それは道義的には正しいことかもしれないが、民族の繁栄を第一とする日本帝国主義の現実からすれば、 一片の感傷にすぎなかった。
そこで東条内閣は閣議決定によって、東亜連盟運動を禁止し、板垣征四郎を朝鮮軍司令官に、 辻政信を台湾軍研究部部員に左遷した。 なお東条の東亜連盟弾圧は、この運動が関東軍以来の宿敵石原莞爾の主唱によるものであるためで、 もとは個人的感情に発しているのだという見方をする者もあった。
マレー作戦成功の要因
引用マレー作戦成功の原因の一つは、食料その他を現地徴発に頼る方針を立て、 補給部隊を持たずに行ったことで、そのため軍を身軽にし、行動をすみやかならしめることができた。 また輸送に馬を使用せず、自動車部隊と自転車隊を利用したことが、日本軍の進撃速度を高めた。 これらは池谷との合致した意見によるものであった。
この作戦のもう一つの特徴は、半島の北から南まで全長一千キロを通ずる道路が一本しかなく、 両側は鬱蒼たるジャングルで被われているという特殊の地形を活用したことにあった。 この地形の研究を、はこの年の六月、海南島で充分やっていた。 すなわち、海南島の海岸線を一周すれば、一千キロあり、これを直線に引き伸ばすと、 ちょうどマレー半島の長さに相当する。 なお、じりじり照りつける炎天、ときどきやって来る驟雨、一本道、沿道の熱帯林など、 すべてが両者共通していた。 海南島の演習は、そのままマレーの実戦に役立った。
日本軍は驚異的な速度で英軍を急追し、開戦以来七十日でシンガポールを陥落させた。 戦史上まれに見るこの快進撃に、全世界は驚嘆した。
華僑虐殺事件
引用マレー作戦はまた、一方では華僑虐殺事件という、 史上まれに見る汚点を残したことも、忘れてはならない。 北清事変や日清、日露の役で、外国軍隊からその軍紀の厳正をたたえられた日本軍隊は、 ここでは悪鬼となって無辜の民衆を虐殺した。 軍司令官や、参謀長らは、はじめ何も知らなかったが、昭南市長大達茂雄がやってきて、
「市役所ではいま、大騒ぎです。三千人の華僑の死体が海岸に打ち上げられて、 腐臭を発しているので、市長は隠亡の役をやらされています。 遺族が市役所へ押しよせて、綿々と訴えるので、その相手をしなければならない」
と抗議したので、軍司令部から駆けつけてみると、市役所の前には、市民の蜿蜒たる列ができていた。 これは共産ゲリラの策動を警戒した辻参謀の起案による「ゲリラ活動の徹底的掃滅を期すべし」という 軍命令の実行によるものであった。
敗戦ののち、この虐殺事件が戦犯裁判で問題になったとき、責任の所在がハッキリせず、人々は困惑した。 連合軍に捕えられて、その罪を問われた人たちは、この虐殺はの起案した軍命令によるものであり、 シンガポール陥落直後が乗り込んで来て処刑を迫ったので、やむをえず従ったものだと弁明した。
しかし肝腎の辻政信は、敗戦と共にバンコックで姿を消したまま現われない。 さえ姿を現わして、事実に基づいた証言をしてくれれば、助かるのにと、被告をはじめその家族の者はひたすら願った。 しかし、は遂に現われず、ハッキリ無罪を立証することができないままに、何人かの人が断罪された。 が潜伏から再び姿を現わしたときは、もう多くの人の生命が失われたあとだった。
「バターン死の行進」直前
引用軍司令官本間中将は、若いころ英国、印度などの駐在武官の経験があり、 白人に偏見を持たぬ紳士的将軍だったので、占領地行政も、威をもって臨むという風でなく、 現地人の自治に任せていたのが、たち若手将校には自由放漫に見えた。 バターン西海岸進撃を担当した第十六師団の参謀長渡辺三郎大佐の記憶によると、 四月九日、大挙投降した米兵が、道路上に列を作っているのを見て、は渡辺に捕虜たちを殺したらどうかと勧告した。 渡辺が拒否すると、は、
「参謀長は腰が弱い」
と罵って、こんどは単独で森岡師団長に同じことを進言したが、
「バカ、そんなことができるか」
と一喝されて退いた。支那派遣軍将兵にむかって、「焼くな、殺すな、犯すな」と布告を発した辻政信と、 数万の比島投降兵を殺せと要求した辻政信は、同じ人であった。
フィリピン最高裁判所長官ホセ・サントスの処刑も、の命令によるものであった。 彼を真の愛国者として尊敬していた川口清健少将は再三その助命を乞うたが、は頑として要求を撤回せず、 川口はやむなく従った。彼はそのために、戦後数年間モンテンルパの牢獄につながれねばならなかった。
辻政信「潜行」開始
引用八月十五日、終戦の詔勅は下り、日本軍は武装解除されることとなる。 彼は腹を切っておわびするのが武士道の教えだと一旦は思いながらも、 「腸を千々にさかれるような苦悶をこえて、一人で大陸にもぐり、アジアの中に民族の再建をはかろう」と決心する。
彼はタイ国の僧に身をやつすと、ある寺の境内にある日本人納骨堂にかくれた。 しかし、やがて英軍の進駐とともに、ビルマで英軍飛行士の肉を食った戦犯として辻政信の行方を追及する手が厳しくなり、 いよいよ身辺の危険を感ずるや、彼はバンコック市街にある重慶側地下工作本部に飛び込んで、 蒋介石と藍衣社の巨頭戴笠将軍に会って日華合作の門を開くため、重慶へ行きたいと申し入れた。
申し入れは受け入れられ、彼は二人の青年工作員に付き添われてバンコックを脱出する。 以下メコン河を渡って仏印に入り、ユエ、ハノイを経て昆明、重慶に潜入し、 さらに南京に移って、国民政府国防部に勤務するようになるまでの過程は、彼が戦犯解除後に発表した「潜行三千里」に くわしく記述されている。
重慶におけるは、日華間のかけはしとなって、アジア民衆の将来のために奔走するつもりだったが、 国民政府はむしろ戦術家としての彼の知識及び技術を利用する考えらしく、満洲における作戦に必要な参考資料や 兵要地誌の作成を求めた。
辻政信、衆院選出馬
引用立候補を決意した辻政信は急遽金沢へ帰ると、九月一日正午、 石川県庁の記者クラブに現われて、記者団に石川県第一区から立候補の決意を表明した。 彼は記者団の質問に答えて、最近東京や東北方面の東亜連盟の同志から、ぜひ選挙に出て、 連盟の主張や政策を具体的に実現してほしいという要望があったから、出馬することにしたといった。
自由、改進、右派社会党、左派社会党の各政党では、それぞれの立候補予定者が大体きまっていて、 その見通しに沿って選挙対策を立てていたのだが、思いがけず辻政信という予定外の候補が出現したので、 狼狽して、作戦計画の練り直しをやった。 彼の出現は各方面を混乱におとしいれたので、旋風という名前で呼ばれた。
の選挙戦術
引用自身が最も力を注いだのは、言論戦であった。 彼は法規で許された六十回の演説会を最も効果あらしめるよう、綿密な配慮に従って計画表を立てた。 かつて参謀として、数万の大軍を動かすために絞った脳漿を、彼は今度は山間のこわれかけたような小学校における 演説会の作戦のために絞り尽した。 彼の演説会がほかの候補者とちがっていた点は、
一、開会閉会の時間を励行したこと。定刻になると、会場に一人の聴衆も見えなくても、彼は開会を宣した。
二、応援弁士の前座を置かず、彼一人の演説に終始したこと。
三、「お願いします」という言葉を絶対に吐かなかったこと。 彼は政策を詢々と説くだけで、それに賛成なら、に投票すべきだという態度を崩さなかった。
四、彼は演説の中にしばしば、その土地における友人知己の名をあげた。 「私は御地の○○町の○○さんと年来の親友です。 ちょっと呼んで来て下さいませんか」という言い方は、本人を感激させ、土地の人にも彼の人柄に親しみを抱かせた。
こうして彼は、その強健な体力と旺盛な気力に物を言わせて、 他の候補の二倍、三倍の密度で全選挙区を馳駆し、旋風をブームにまで高めていった。 ある候補の応援弁士は、うっかりの「潜行三千里」について嘲笑的なことを口走ったので、 弥次り倒されて、演壇で立ち往生しなければならぬほどであった。
辻政信、参議院全国区立候補
引用辻政信が衆議院議員としての前途に見切りをつけ、 石川県民に愛想をつかすには、彼なりの理由があった。 第四回の選挙で、彼の得票が激減し、当落線上を彷徨したのは、自民党が組織をあげて、 と同じ石川第一区から出た坂田英一を応援したからである。 党本部からは、わざわざの弟の佐藤栄作が坂田の応援にやって来て、同じ自民党公認のについては一言も言わず、 坂田のことは口をきわめて賞めちぎり、そのうち入閣するにちがいないとまで言った。 彼らはの選挙事務所のそばまで来ながら、素通りして、声さえかけなかった。 これは明らかにイヤがらせであり、継子あつかいである。 自民党員としての辻政信を、あきらかに無視したやり方である。 は党における自分の前途に深く失望し、いつまでいても芽の出ることはないと、見切りをつけたものであろう。
もっとも、を継子あつかいにする党人たちの気持ちもわからないではない。 は保守党の政治家として、共に手を携えてやってゆける男ではない。 結局彼は異分子であり、他所者である。 いつかは牙をむいて噛みついて来る男である。どうせ刃向ってくる男なら、噛みつかれる前に、 こちらから蹴飛ばしてやろうというのが、彼らの本音であったろう。
首尾よく除名をかち取ると、は即座に衆議院議員を辞職し、参議院全国区に立候補した。 彼はまず岸首相の郷里である山口県布施町へ乗り込んで、第一声を揚げた。
「私は山口県から、一票ももらおうとは思いません。 ただ、思いきり岸首相の悪口を言わせてもらいたい・・・・・・」
こう前置きして、彼はあらん限りのの罪状を数え立てた。 時には彼は、の演説のすんだ直後をねらって、まだ解散していない聴衆にむかって、 攻撃の演説をやった。 の顔と金で集まった聴衆を、そっくり頂戴したわけである。 戦術的には糧を敵に獲るやり方で、大人のすることではないが、痛快がる若者も多かった。
彼の反演説は全国各地で大衆的人気を煽り、彼は六十八万三千票、全国区で第三位という高点で当選した。 そのうち六万三千票は、彼が離縁状を叩きつけたはずの、石川県第一区から投ぜられたものであった。
辻政信失踪
引用十四日、バンコックを発ってビエンチャンへ着き、別府大使、 吉川参事官らにラオス潜入の希望を述べた。
二十一日午前九時ごろ、十六年前と同じ現地人の僧侶の着る黄色の僧服を着たは、 ラオス国境に通ずる十三号公路を徒歩で北上した。 僧侶はこの国では神聖なものとされており、危害を受けることが最も少い身分である。 彼の所持品は、現地人の持つ布製の頭陀袋に、背広、議員バッジ等であった。 それに彼は、チトー元帥周恩来首相らと握手している写真をふところにすることも忘れなかった。 これらは共産党に捕えられたり、訊問されたりしたとき、最も有効な身分証明書の役割りを果すはずであった。
辻政信の足跡はこの日かぎりで消えて、以後日本人で彼の姿を見た者はない。
一月たち、二月たつうちに、留守宅や知人が、彼の安否を気づかいだした。 神出鬼没を看板にし、人の意表に出ることを得意とする辻政信のことだから、どこかに潜行して活躍し、 時機を見て忽然現われるつもりだろうという説もあったが、あまり長期にわたるので、 改めて彼の生存が危ぶまれだした。
さまざまな情報が流れ、種々の臆説が立てられた。 一体彼は、何のためにラオス入りをしたのか?
彼は日本の腐敗と汚濁に絶望し、政治家としての前途に行き詰りを感じたので、 新たに活躍の舞台を求めて、東西両陣営の激突の場所であるラオスへ乗り込んだのであろうという説が、 もっとも真実らしく見えた。 この旅行に出発する前に、彼がラオスの情勢に特別な関心を持ち、 この国だけは共産化させてはならぬと熱心に説いていたという者が、何人も現われた。 東洋のナセルをもって任じていた彼としては、極めてありそうなことである。
失踪後の足取り
引用が足跡を絶ってから一年有余たった昭和三十七年五月、 産経新聞記者野田衛はその謎を解こうと、日本を発って、二ヵ月ばかり東南アジアの国々を歩き廻った。 その報告によると、四月二十一日、黄色の僧服をまとってラオスへ潜入したは、 四月二十四日ごろ、ビエンチャン北方四十キロのところで、中国国民党軍の敗残兵グループに捕えられ、 一週間ばかり監禁された。 五月十日ごろ再び捕えられ、十二日ごろ、今度はバンビエンの手前でパテト・ラオ軍に捕えられ、監禁された。 五月二十五日ごろ釈放され、プーマ派の休戦会談代表フェン・フォンサバンに会い、 はじめて日本の国会議員という資格で行動することを許され、六月十日ごろはプーマ派に属するソ連製小型飛行機で ジャール平原へ向い、シェンクァンのプーマ殿下を訪ねたが、不在で会えず、 カンカイへ行ってファヌボン妃殿下の会って真珠のネックレースを贈ったらしい。 同所に一ヵ月滞在してパテト・ラオ軍と接触ののち、七月十日ごろ、ソ連機に乗ってハノイへ向ったまま、消息を絶っている。
野田記者はあくまでもの足跡をたずねて、ハノイへ行こうと努力したが、 どうしてもヴィザがおりない。彼はこれ以上打つ手がなくなったと知って、東京へ帰った。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。