「坂の上の雲(1)」 参考書籍
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秋山兄弟
引用ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。
一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
運命が、この兄弟にその責任を負わせた。
兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率いざるをえなかった。
騎兵はかれによって養成された。
かれは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、
満州の野において悽惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。
弟の真之は海軍に入った。
「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、
日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。
東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。
作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という電文の起草者でもあった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(1)」
P.78
引用「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
と、壇上の教師はいった。
「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。馬鹿ほどうまいはずだ」
といった。真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」とささやいた。
教師は、おもしろい男だった。
この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、ひどく高度なものにおもいがちであったのを、
そのようなかたちで水をかけ、生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感をとりのぞこうとした。
教材は、パーレーの「万国史」だった。
この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。
後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。
教師は、まるい顔をしていた。
「まるでだるまさんじゃな」
高橋是清は明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、
大正十年には総理大臣に信任されたことがあるが、その生涯の特徴は大蔵大臣としての業績であり、
とくに危機財政のきりぬけに腕をふるい、昭和九年八十一歳で何度目かの大蔵大臣になり、
同十一年八十三歳でいわゆる二・二六事件の兇弾にたおれた。
かれは日露戦争前後のころは日銀副総裁であったが、英国に駐在して戦費調達に奔走し、苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功したことが
その生涯を通じての功績になった。
それが、このころは共立学校の教師として真之らに英語をおしえていた。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(1)」
P.144
東郷平八郎の履歴
引用東郷の履歴は風変りであった。
かれは薩摩藩士として最初藩の海軍に属し、「春日」乗組の三等士官として戊辰戦争に出征し、阿波沖海戦、宮古湾海戦に参加した。
宮古湾海戦では旧幕艦「回天」をもって斬りこんできた旧新撰組副長土方歳三らの海上突撃隊とたたかい、
終始艦尾の機関銃をあやつってこれを撃退した。
戦後、東京に出て英語をまなんだ。
かれは海軍をやめて工学関係の技師になりたいというのが志望だったらしい。
その旨を薩摩の先輩に相談すると、
―やはり海軍がよかろう。 と説得され、やがて英国留学を命ぜられた。
日本政府としてはこの青年をダートマスの海軍兵学校に留学させるつもりであったが、英国側がことわった。
そのかわり、テームズ河畔の商船学校に入り、水夫待遇で商船教育をうけた。
この学校は優秀な卒業生数人にかぎって海軍士官になれる道がひらかれており、多少の海軍教育もしていたから、
まったく無縁の学校でもなかった。
司馬遼太郎 「坂の上の雲(1)」
P.218
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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