「坂の上の雲(3)」
参考書籍
一覧 データ
書籍: 文庫(361ページ)
目次: 十七夜
権兵衛のこと
外交
風雲
開戦へ
砲火
旅順口
陸軍
マカロフ
この本を入手
引用子規が死んだのは、明治三十五年九月十九日の午前一時である。
この前日の十八日は、日中は医者がきたりたれが来たりして、人の出入りがあり、 病室でずっと眠ったように仰臥している子規にも人の声がとどいたらしく、
「いま、たれが来ておいでるのぞい」
と、妹のお律にきいたりした。
「キヨシさんです。それに秉さん。それと・・・・・・」
と、お律がいちいち名前をあげてゆくと、子規はもう表情のない顔でうなずいたりしていた。
夜になると、みな帰ってしまい、ちょうど当番にあたっていた虚子だけが残った。
子規は、蚊帳の中にいる。 ねむっているのか、けはいがしずまっている。
夜半、虚子は隣室にふとんをしいていたが、どうもねむれそうにない。庭へ出てみた。
すでに十二時をすぎている。
庭の糸瓜の棚に夜露がおりているらしく、二、三枚の葉が光っていた。 光っているのは、十七夜の月があかあかとのぼっているからである。 この日、旧暦の十七夜にあたっていた。
虚子は座敷にもどると、子規の蚊帳のそばに、母親のお八重が小さい影を作ってすわっていた。 お八重はこれより前、自分の部屋で二、三時間ねむった。 虚子と睡眠を交代するために起きてくれたのである。
「キヨシさん、お休みください。またかわっていただかねばなりませんから」
と、いった。
虚子は蚊帳をのぞいた。子規はよくねむっているようであった。
「お律も」
と、お八重は寝かせようとした。
虚子は隣室にひきあげ、横になった。 あたまのなかに冴えざえと占めているのは、さっきみた十七夜の空である。 晴れぐあいがおそろしいばかりで、大きな月がひとりうかんでいた。
虚子はわずかに眠ったらしい。
ねむったとも思えぬころ、ひどく狼狽した声で、キヨシさん、キヨシさんと隣室からよんでいる。 お八重の声であった。虚子ははねおきた。
あとできいてみると、お律はまだ寝ていなかったらしく、母親とうちわを使いながら話をしていた。 途中ふと蚊帳の中が気になり、のぞいてみると、子規はもう呼吸をしていなかった。
「兄さん、兄さん」
と、お律は泣きながら子規をよびもどそうとしたが、子規は答えない。
「お律、お医者さまを」
と、お八重は、さすがにとりみださずにきびしく命じ、しかしそのあと虚子をよんだときはせきこんでいた。
お律は、はだしのまま隣家へ電話を借りにゆくべく走った。
虚子は、表情のとぼしい男である。 子規の顔をじっと見つめていたが、やがて立ちあがった。 近所にいる碧梧桐や鼠骨をよびにゆくためであった。
そとに出ると、十七夜の月が、子規の生前も死後もかわりなくかがやいている。
引用山本権兵衛について、【中略】 かれは戊辰戦争のころは薩摩の陸兵として従軍し、北越から東北へ転戦した。
戦乱がおわったあと、東京へ出てきたが、やることがないため相撲とりになろうとし、 当時の横綱陣幕久五郎のもとに入門をたのみに行った。 もっとも、これはことわられた。 権兵衛は鹿児島城下でくらしていた少年のころから相撲が得意で、「花車」というシコ名までもっていたのである。
そのあと、郷党の総帥である西郷隆盛に説諭され、西郷の紹介で勝海舟のもとに行って、 海軍の話をきいたりして、当時築地にできたばかりの海軍兵学寮に入ったが、どちらかといえば海軍というものをあまり好きではなかったらしい。
海軍兵学寮では、この当時の薩摩の若者の風で、けんかばかりをした。 学科は数学が得意で、実科はとくにマストのぼりが得意だった。
少尉補になってから、ドイツ軍艦ヴィネタ号にあずけられ、ついでおなじくドイツ軍艦ライプチッヒ号にあずけられ、 乗組期間中に任官した。
戊辰戦争の生き残りだから、多少齢をくっていて、任官は明治十年、すでに二十六歳になっていた。
山本権兵衛が、ドイツの軍艦ライプチッヒ号に乗りこんで海軍修業をしていたころつまり明治十年ごろのドイツ海軍というのは、 たいしたものではなかった。
「船の運用は大したものだったが、戦術とか用兵とかいう方面はひどく遅れていた」
と、権兵衛はのちに語っている。
艦内で、戦術講義がある。 その講義内容は貧弱で、陸軍戦術をまね、それの翻訳調であったり、 海軍独特の行動を説明するにしても陸軍の例をひいて説明した。 ドイツはあくまでも陸軍国であり、この国が大海軍建設にのりだすのは、明治三十年代になってからである。
「そいつは、こうじゃありませんか」
と、権兵衛は質問ずきで、一つ問題をつきつめ、しばしば教官と議論になってしまうことがあったが、 戦術教官は決して不快がらず、むしろ権兵衛の頭脳を畏敬するところがあった。 他の士官たちも、権兵衛に一目おいた。 その理由のひとつは権兵衛は少年兵として戊辰戦争に参加したという、いわば実弾のなかをくぐっただけに、 戦場の諸問題を実感とともに語ることができる。
権兵衛は、勇士である」
と、ドイツ人たちのたれもがいった。
【中略】
その後十年ほどのあいだでの権兵衛の経歴は、他の海軍士官とかわりはない。 軍艦の分隊長をしたり、副長をつとめたり、輸入軍艦の回航委員をつとめたり、艦長に任じられたりしたが、 かれの運命と日本海軍の運命がかわるのは、明治二十年、三十六歳で海軍大臣の伝令使(副官)になってからである。 当時、海軍少佐であった。
このあたりから、軍政を担当した。 もっとも担当中も、高雄や高千穂の艦長として海に出たりしていたが、いよいよそういう彼が陸に腰をすえるのは、 明治二十四年、四十歳、海軍大佐のとき、海軍大臣の「官房主事」というものになってからである。
通称、
「海軍主事」
といわれた。日本海軍の作り直しともいうべき大仕事の辣腕をふるうのは、このときからである。
引用従道は、西郷隆盛の弟である。
幕末にあっては西郷慎吾と言い、隆盛のそばで倒幕活動に従ったが、物事によく気がつくというほか、べつにめだたなかった。
が、維新後に本領をあらわした。 明治のジャーナリスト池辺三山は明治の三大政治家のひとりにかぞえているが、 人物があまり大きすぎたのと、みずからは一見阿呆のようにかまえて自分の功績を晦ますといったいわば老荘的なふんいきがあったため、 十分な評価が、同時代にも後世にもあたえられていない。
人物が大きいというのは、いかにも東洋的な表現だが、明治もおわったあるとき、 ある外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が出た。
「人間が大きいという点では、大山巌が最大だろう」
と誰かがいうと、いやおなじ薩摩人ながら西郷従道のほうが、大山の五倍も大きかった、と別のひとが言ったところ、 一座のどこからも異論がでなかったという。 もっともその席で、西郷隆盛を知っているひとがいて、
「その従道でも、兄の隆盛にくらべると月の前の星だった」
といったから、一座のひとびとは西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたという。
引用林董というのは、【中略】 旧幕臣系である。
幕臣林洞海の養子で、旧幕時代の少年期、横浜で英語をまなんだ。 かれがのちに外務省きっての会話達者で英文上手の評を得るにいたるもとは、このころにあるらしい。 慶応二年、幕府が留学生を英国にやることをきめたとき、菊池大麓、中村敬宇らとともにえらばれた。 齢十六である。
幕府が瓦解し、帰国を命ぜられ、横浜まで帰ったとき、おりから旧幕府の海将榎本武揚が旧幕艦隊をひきいて品川沖に錨をおろしていた。 はこれに投じて函館までゆき、五稜郭にこもったという男だけに、当時のことばでいう血性男児であったのであろう。
【中略】
結局、事やぶれて榎本らとともに降伏し、は他の五百余人とともに津軽藩にあずけられ、青森の寺院で拘留生活をおくった。
ときの官軍参謀は薩摩の黒田清隆であったが黒田は、拘留賊徒のなかのという人物が英国人と同等程度に英語ができるということを知り、 ひそかにをよび、かれだけを抜いて東京の新政府でつかおうとした。
は返答して、
「みなと一緒に釈放されるならいいが、自分だけならお断りする」
といって、ことわった。 このことが、のち薩摩系の要人のあいだでの林董観をつくらせ、かれの生涯の信用のもとになったらしい。 林董は、外交官になったあとでも、薩摩閥からの庇護を多くうけ、仕事がしやすかった。
明治二十四年外務次官、同三十年駐露公使、同三十三年駐英公使に転じた。 この履歴でもわかるように、日清、日露というそれぞれの戦争がはじまる前、 外交段階における最大の働き手のひとりだった。
引用は長州出身で、若いころ戊辰戦争に出征したが、むろん無名の一士官にすぎず、その後、陸軍畑に入って累進した。 この間、日本陸軍をドイツ式に変えることなどについて功があったというように、野戦型よりも軍政型であり、 いっそ軍人であるより政治家であったほうがふさわしかった。
は、サーベルを吊った幇間だ」
とのちに酷評されたり、ひとを懐柔するためにたえず惜しみなく笑顔を作り、 親しみをみせるために肩をたたいたりしたことによって、ニコポンというあだなをもらったりした。 いわば調整の名人であった。
引用渋沢は、利根川ぞいの血洗島という村の富農の子で、 幕末、百姓の出ながら攘夷志士のむれに投じて当時流行の暴発をしようとしたこともある。
のち運命的ないきさつで一橋家に召かかえられ、徳川慶喜に信頼された。 慶応年間の京にあっては渋沢は一橋家の周旋役として他藩との折衝にあたり、 慶喜が将軍になると、軽格ながら幕臣になったが、たまたまパリで万国博覧会が企画され、日本も招待されたので、 渋沢はその幕府代表の随員として渡仏した。
その外遊中に幕府が瓦解し、帰国して徳川家の整理にあたったが、のち新政府の大蔵省に出仕し、 ついで官をやめて野にもどり、日本に欧米風の財界をつくるために奔走し、 市中銀行を最初におこしただけでなく、ほとんどあらゆる産業をおこしたといっていいほどの多岐にわたる活躍をした。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。