「坂の上の雲(8)」
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書籍: 文庫(397ページ)
目次: 敵艦見ゆ
抜錨
沖ノ島
運命の海
砲火指揮
死闘
鬱陵島
ネボガトフ
雨の坂
あとがき集
解説
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哨戒中の信濃丸、「敵艦見ゆ」打電
引用成川は、戦死を決意したらしい。
哨戒に熱中するあまり、ひどく滑稽なことに、気がついたときは敵の大艦隊の真っ只中に入りこんでしまっていたというようなことは、 世界の海戦史上例のないことであった。 すでに形態としては包囲環の中にいる以上、脱出は不可能とみるしかない。
成川は船橋にいる士官たちに言った。 かれ自身気づかないことだったが、口調が漢文調になっていた。
「不覚なるかな、すでにわれらは死地に入った。 全力をもって脱出を試みるもあるいは能わざることあるべし。 そのときこそ、この船非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝撃してともに沈むべし」
ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に知らせなければならない、と成川はいった。 送信を開始すれば当然、敵は電波で妨害する一方、砲をもって信濃丸そのものを無線機もろとも沈めるにちがいない。
「船が浮かんでいるかぎり送信をつづけるのだ」
というと、転舵一杯を命じた。 船が傾ぎ、波が右舷に盛りあがって、たちまち甲板を洗い、やがて左舷のほうへ滝のように流れ落ちた。 船は離脱すべく全速力を出した。と同時に、
「敵艦見ゆ」
との電波が、四方に飛んだ。 この付近のことを、海軍ではあらかじめ二〇三地点としておいた。この電信は正確にいえば、
「敵の艦隊、二〇三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」
であった。二〇三という数字は、旅順要塞の攻撃の最大の難所であり、 同時にそれを解決せしめるにいたった高地の標高と符合していた。 成川の船はこの数字を打電しつづけた。 御幣かつぎではなかったが、この数字からみてきょう幕をあげるであろう日露両海軍の決戦は容易ならざるものになるのではないかとおもった。
かれの船には、海軍技師木村駿吉がリーダーになって完成し、世界でもっとも性能のいい船舶用無線機とされる三六式無線電信機が積まれており、 その通信距離は八十海里であった。 木村ははや打ちをいましめ、遅くとも確実に打つことを海軍にすすめていた。
巡洋艦「和泉」、バルチック艦隊に接近
引用信濃丸にもっとも近い場所で哨戒にあたっていたのは、三等巡洋艦和泉(ニ九五〇トン)である。
この時期、二、三等巡洋艦のうち艦齢のあたらしい何隻かは国産でつくられていた。 新高、対馬、音羽、秋津洲、明石、須磨などがそうであったが、すでに艦齢二十一年というほどに老いてしまっている和泉は、英国製であった。
和泉の艦長石田一郎大佐は信濃丸からの第一報を受信したとき、自分の艦が信濃丸のもっとも近くにいることを考え、
「わが艦が、全艦隊の犠牲たらざるべからず」
と決断し、速力を増してバルチック艦隊と交叉するであろう地点をもとめて航進を開始した。
石田にすれば信濃丸は汽船にすぎない。 しかし和泉は保護甲板の厚さが〇・五インチから一インチというブリキのような小型巡洋艦とはいえ、軍艦は軍艦であった。 速力も新型の国産艦ほどはないとはいえ、敵の巡洋艦に対抗できる砲力をもっている。 和泉は信濃丸とその危険な任務を交代すべきであった。 むろん敵艦隊に接触すれば撃沈させられる公算が大きかったが、しかし石田は、
「わが連合艦隊にとって、和泉一艦をうしなっても戦力にさほどのマイナスにはならない。 それより和泉が敵艦隊に接触することによってその状況を逐一司令部に送ることのほうがはるかにプラスになる」
と考えた。
和泉は二本マストに二本煙突で、じつに簡潔な艦型をもっている。波が高く、艦がゆれた。 艦首にくだける波は、前甲板をいそがしく洗ってはふたたび海に去ってゆく。 当時少尉候補生で和泉にのっていた嶋田繁太郎(のち大将)は「ローリングのひどい艦だった」という述懐をのこしている。
索敵はながい時間を要した。 午前四時四十五分に信濃丸からの無電を感じ取ってからほぼ二時間、早朝の海をかけまわった。 海上には濛気が、走りゆくにしたがってときに濃くなったり、ときに淡くなったりしたが、しかし空は申しぶんなく晴れていた。
和泉が、沖合に無数の黒煙をあげて航進するバルチック艦隊を見たのは、午前六時四十五分である。
北緯三十三度三十分、東経百二十八度五十分、五島の北西約三十海里の地点においてである。 おりから濛気が濃くなり、展望はわずか五、六海里であった。 この濛気のために和泉はより接近するしかなかった。 しかし接近すれば敵に射たれるであろう。
が、和泉は猛然と接触した。 距離がちぢまってついに八、九千メートルにすぎなくなった。
石田は望遠鏡をもって、陣形を見、艦数をかぞえた。
望遠鏡にうつる敵の大艦たちは、すでに和泉に気づいていただけでなく、 その巨砲群をねじむけてこの小さな猟犬にむかって照準をつけつつあった。
しかし、石田は観察と報告に没頭した。艦を、敵艦隊に並進させた。
その間、バルチック艦隊の勢力、陣形、針路などをじつに綿密に報告した。東郷はのちに、
「自分は、敵艦隊のすべてを、敵に遭う前に、手にとるように知りつくしていた。それは和泉の功績である」
といったが、和泉は東郷のために忠実な目になろうとしていた。 ただ一艦をもって、世界有数の連合艦隊に立ちむかっているのである。 この和泉の行動を、この当時、大本営参謀だった小笠原長生が、 小牧長久手の戦いにおける徳川方の本多平八郎忠勝の果敢な接触(秀吉軍への)に比較しているが、 たしかに状況と行動は酷似していた。
引用加藤友三郎少将は、どのような場合にも冷静さをうしなったことがないという人物だった。
かれは芸州藩士の子で、兄の種之助は上野の彰義隊討伐のときは、藩兵の小隊長をつとめた。
加藤は明治六年十月二十七日に東京築地の海軍兵学寮に入学した。満十二歳であった。 ついでながら十月二十五日に勝海舟が海軍卿になっている。 当時兵学寮には予科と本科があり、卒業して海軍少尉補になったのは満十九歳である。 在学中の成績はさほどよくなく、めだたない存在であったが、卒業のときには二番になった。
大酒が飲めるというほか、無口で表情にとぼしく、面白味のある男ではなかったが、 物事の分析能力においてすぐれているうえに、あわせて物事を総合的にとらえる能力をもち、 一個の結論をひきだす上においては非常な度胸があった。
健康のほうは虚弱といっていいほどだったが、気力がつよく、無理がきいた。
かれが冷静で寡黙であるということから冷血の人ではないかという印象があったが、 しかし内実はそうではないという異常な情景を、かれの身辺のひとびとで目撃している人がいた。
たとえば日露戦争の初期の段階においてかれは第二艦隊である上村艦隊の参謀長をつとめ、 旗艦出雲において艦長の伊知地季珍大佐とおなじ艦内で起居していた。 このとき有名な旅順口閉塞隊員の募集があった。
ある機関兵が応募したが、選に洩れた。 この機関兵が艦長室にやってきてさらに嘆願した。 伊地知艦長はこれに対し、選に洩れた以上はどうしようもないと慰諭してついにあきらめさせた。 その間、加藤は同室にいてその対話を無表情にきいていたが、機関兵が去ったあと、顔をおおい、声を放って号泣した。
「その哭き方のすさまじさは、尋常でなかった」
と、加藤とは同期生で加藤のことはよく知っているこの伊知地が、 ひとつ話のようにして加藤の死後に語っている。
引用「君は重箱のすみをせせるような男だ」
と、同郷の児玉源太郎寺内をそうようにからかったことがあるが、寺内のこの性癖は全陸軍に知られていた。 この点、おなじ長州人の乃木希典に酷似しているが、乃木とのちがいは、乃木は極端な精神主義で、 寺内は偏執的なほどの規律好きという点にあり、いずれもリゴリズムという点ではかわりはない。 あるいは長州人のいくつかの性格の型にこの種の系列があるのであろう。 たれかの言葉に、精神主義と規律主義は無能者にとっての絶好の隠れ蓑である、ということがあるそうだが、 寺内乃木についてこの言葉で評し去ってしまうのは多少酷であろう。 かれらは有能無能である以前に長州人であるがために栄進した。 時の勢いが、かれらを栄進させた。 栄進して将領になった以上、その職責相応の能力発揮が必要であったが、かれらはその点で欠けていた。 欠けている部分について乃木は自閉症的になった。 みずから精神家たろうとした。 乃木は少将に昇進してから人変わりしたように精神家になったのは、そういう自覚があったからであろう。 乃木がみずからを閉じこめたのに対し、寺内は他人を規律のなかに閉じこめようとした。
秋山好古が明治十年、陸軍士官学校に入ったとき、寺内正毅は大尉で、士官学校の生徒隊長であった。 そのころ寺内は士官学校にちかい土手三番町に住んでいたが、かれは当時の定刻に学校から退出しても、 そのあと自宅の窓から双眼鏡で校舎をのぞくのが日常の作業になっていた。 かれにとっては生徒は規律の中の囚人であり、囚人どもが行儀よく自習しているかどうかをスパイ同然の方法で見張ることが教育であった。 かれは夫人に対しても同様であった。 その夫人が襖をあけて出入りする動作をじっと見、すこしでも不行儀なふるまいがあると、客の前でも大声で叱った。 徹底した他律者であった。
かれは西南戦争で右腕に負傷し、このため軍隊指揮官はやったことがなく、教育と軍政畑ばかりにいた。 陸軍大臣になってからなにかの用事で士官学校にやってきたことがあるが、 校門に「陸軍士官学校」と陽刻された金文字の看板が青さびて光沢を失っているのを発見した。 重大な発見であった。 かれはすぐ校長の某中将をよびつけ、大いに叱った。 その叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、
「この文字はおそれ多くも有栖川宮一品親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。 「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでに放置しているとは。 まことに不敬の至りである。 さらにひるがえって思えば本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、 その扁額に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、わが帝国陸軍の恥辱であり、 帝国陸軍の恥辱であるということは、わが大日本帝国の国辱である」
と、説諭した。この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、 帝国陸軍にあっては伍長にいたるまでこの種の論理を駆使して兵を叱責し、みずからの権威をうちたてる風習ができた。 逆に考えれば寺内正毅という器にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。 なぜならば、寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的な仕事をしなかったからである。
その点については、彼を賞めるために書かれた「元帥寺内伯爵伝」(大正九年発行・元帥寺内伯爵伝記編纂所刊)ですら、 やむなく、「伯は創造的の人というよりも寧ろ整理的の人であった」と、須永武義(陸軍中将)のことばをかかげている。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。