「昭和史の事典」
参考書籍
著者: 佐々木隆爾(ささき・りゅうじ)編
発行: 東京堂出版(1995/06/10)
書籍: 単行本(477ページ)
定価: 3200円(税込)
目次: 第一期(一九二〇年代〜三五年): デモクラシーから戦時体制へ
第二期(一九三六年〜四五年): 戦争と統制の時代
第三期(一九四六年〜五四年): 占領と再建の時代
第四期(一九五五年〜七一年): 高度成長の時代
第五期(一九七二年〜八八年): 国際化と情報化の時代
付録
補足情報:
事典の表現は普通短いスペースにたんさんの事実を詰め込むために、無味乾燥になりやすい。 時折ある項目を引くだけならそれでもよいが、それではまとまった知識を得たり、 歴史イメージを汲み出したりすることは難しくなる。 そこで私たちは発想を変え、読者が読み通したくなるように、 項目どうしのつながりを密接にしなければならない。 またそれを系統樹のように組み立てることも必要になる。 さらに短いスペースを有効活用するため、なるべくキーワードを使い、 かつ極力なめらかな言葉で書くように努めた。(はじめに)
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マッカーサーと日本人
引用マッカーサーは、最高司令官として権力を独占し、平和五原則や憲法改正などの占領改革を主導した。 その姿勢には、彼の傲慢さや潔癖さと、アジア社会を「指導」するというフィリピン統治以来の使命感がみられる。 このようなマッカーサーに対し、当時の日本人は「父」としての威厳を見出し、 中にはその子供を産みたいと陳情した女性もいたといわれる。 また、彼とGHQにあてられた手紙は五〇万通にもおよび、占領政策を賞賛しながら自己の利益を実現させようとする陳情が多かったが、 一面では戦前と異なる新たな可能性を模索した草の根民主主義への期待もみられた。
象徴天皇制とマッカーサー
引用第二次大戦後、天皇制が廃止されず、昭和天皇の戦争責任も不問に付されたのは、 マッカーサーの意向によるところが大きい。 彼はアイゼンハワー大統領に宛てた電報の中で「天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし、 ・・・・・・天皇を排除するならば、日本は瓦解するであろう」と述べ、 占領政策を円滑に実施するためには天皇制を存続させるべきだと主張した。
引用一九四六年(昭和21)五月一九日の食糧メーデーで掲げられた「朕はタイフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」 というプラカードの文面が、不敬罪にあたるとして起訴された事件。 このメーデーは正式には「飯米獲得人民大会」といい、皇居前広場に二五万人が集まって食糧難打開を訴えた。 裁判では不敬罪の存続の妥当性が争点となったが、結局、一審は不敬罪にかえて名誉毀損で有罪となり、 二審・三審は大赦で審議されなかった。
自治体警察
引用一九四七年(昭和22)一二月の警察法にもとづき、市および人口五千人以上の市街的町村に設置された警察。 警察機構の地方分権化をはかるため、市町村公安委員会が運営管理し、国家地方警察と対等の立場になった。 当初は全国で一五九四の自治体警察が設置されたが、財政難や地方ボスの支配など問題点も多く、 国家地方警察との対立も生まれた。 五四年に警察法が改正され、自治体警察は都道府県警察に改組された。
教育委員会
引用教育の民主化・地方分権化を図るために、一九四八年(昭和23)から設置された地方教育行政機関。 委員は住民から公選され、教育長を任命して事務を統括させ、教職員の任命権や教育予算の編成権などを持つことになった。 五二年までに全自治体で公選制の教育委員会が成立したが、委員会の独自性に対する保守勢力の反発が強まり、 五六年に公選制から首長による任命制に改められ、権限も大幅に縮小された。
労働省設置
引用一九四七年(昭和22)に設置された労働行政の中央官庁。 戦時中の労働行政は勤労動員を主眼とし、中央は厚生省、地方は警察署の管轄だった。 これに対して戦後は憲法や労働三法で労働基本権が確立されたため、 労働者の保護と職業安定のための中央官庁が必要となって、労働省が新設された。 このほか地方には労働条件を監督する労働基準局・監督署、労働行政を担当する労政事務所、 職業紹介機関の公共職業安定所が設置された。
破壊活動防止法
引用一九五二年(昭和27)に公布された、戦後の中心的な治安法規。 略称は破防法。講和条約発効によって占領下の団体等規正法などが失効するため、これに代わって制定された。 内乱・政治目的のための刑法犯罪などを暴力主義的破壊活動と規定し、これをおこなう団体や個人などを取り締まることを目的とする。 しかし、活動の主張や教唆も罪とするなど、思想統制の危険があるため、労働組合のゼネストなど広範な反対運動が起こった。
引用一九四七年(昭和22)に発令されたポツダム命令(勅令)で、敗戦後の激しいインフレーションの収束を目的としていた。 敗戦後、銀行は融資先企業の倒産を防ぐため新たな貸付けをおこない、 国民も戦時中に強制された預金を一斉に引き出したため、銀行は資金不足で倒産の危機に直面した。 日銀は民間銀行への貸出しによってこれを防いだが、そのための通貨増発がインフレーションを招いた。
その対策として幣原内閣は秘密裏に金融緊急措置令を準備し、二月一六日の土曜日に突然ラジオで発表して翌月曜日から実施した。 これによってすべての預貯金は封鎖されて支払停止となり、そこからの引出しは一ヵ月に世帯主三〇〇円、世帯員一人一〇〇円までに制限された。 また、手持ち通貨の隠匿を防ぐため、流通中の日銀券は三月二日限りで失効させ、新円切換えを実施した。 これによって通貨量は収縮したものの、復興金融金庫を通じた財政支出の増大のため、新たなインフレが進行した。
引用一九四六年(昭和21)末に提唱され、四七年から本格的に実施された戦後復興のための経済政策。 提唱者は第一次吉田内閣が設置した石炭委員会で、会長の有沢広巳が大来佐武郎の構想をヒントを得て立案したといわれる。 限られた資金と資材を基礎素材の生産に集中的に傾斜させ、これを原動力として経済全体の復興をめざすというのが傾斜生産の発想だった。 具体的には、輸入重油を鉄鋼生産に投入し、増産された鋼材を炭鉱に投入し、 さらに増産された石炭を鉄鋼業に投入するという操作を繰り返し、石炭・鉄鋼の生産回復を図ろうというもので、 のちに食糧や肥料も増産の対象とされた。
その政策手段としては、価格差補給金と復興金融金庫が創設された。 価格差補給金は戦時中の制度を復活したもので、政府が補助金を交付して石炭を原価より安く鉄鋼業に引き渡し、 同様に鋼材も原価より安く炭鉱に引き渡された。 復興金融金庫は四七年一月に設立され、石炭・鉄鋼・電力・海運を中心として重点産業に傾斜金融をおこなった。 こうした傾斜生産方式は片山内閣芦田内閣にも継承され、経済復興を軌道に乗せる役割を果たした。
しかし、復興金融金庫の原資を復金債の日銀引き受けに頼ったため、通貨が増発され激しいインフレがもたらされた。 そのインフレを収束させるための金融緊急措置令も、十分な効果をあげることはできなかった。 また、片山芦田両内閣とも、インフレの一因だった賃金抑制に成功しなかった。 そこでエコノミストの間で、通貨政策によって短期間にインフレを収束させる「一挙安定」か、 それとも漸進的にインフレを収束させる「中間安定」かをめぐり、論争が展開された。 片山内閣は中間安定論をとり、GHQもはじめこれを支持していたが、結局、一挙安定論に傾くようになり、 四九年のドッジ・ラインで強力な経済政策が示されてインフレの収束に成功した。
引用敗戦後の財閥解体などに対抗するため、経済諸団体の連絡機関として一九四六年(昭和21)に創立。  【中略】 いわゆる財界の総本山として、経済団体の連絡調整や、政府・国会への経済政策の提言などをおこなう。 五五年の保守合同を促進し、国民協会を通じて自民党への政治献金をまとめるなど、 五五年体制のもとで保守政治を支援するために大きな役割を果たした。
日経連
引用経営者団体連合会を改組して一九四八年(昭和23)に設立。  【中略】 激しい労働運動に対抗するための、地方別・業種別の経営者団体の全国組織となった。 設立宣言は「経営者よ、正しく強かれ」という言葉で結ばれ、経営者の指導力回復を主張している。 その後、高度成長の過程でも賃金の抑制や職務給制度の導入など、一貫して労働運動に対応するために経営者側の指針を提示した。
引用一九四九年(昭和24)トルーマン米大統領の委任を受けたジョセフ・ドッジ公使が示した、一連の経済政策。 ドッジはデトロイト銀行頭取で、自由主義的経済政策の信奉者であり、ドイツ占領軍の軍政部財政部長を務めた経験があった。 ドッジ・ラインの背景には、敗戦後の激しいインフレがあった。 敗戦直後には臨時軍事費特別会計の放漫な支出、その後は傾斜生産方式による復興金融金庫融資が通貨増発をもたらし、 インフレの原因を作っていた。
日本政府は生産拡大を優先し、段階的にインフレ収束を図る漸進的な「中間安定論」を唱えたが、 結局インフレ収束に主眼をおくアメリカ政府の「一挙安定論」が優勢となった。 アメリカは、冷戦の中で日本を反共陣営の一員として強化するため、経済の「自立化」「安定化」を図る政策に転換した。 そのあらわれが、四八年の経済安定九原則であり、これを具体化したのがドッジ・ラインであった。
来日後の内外記者団との初会見で、ドッジは「日本の経済は両足を地につけていず、 竹馬にのっているようなものだ。 竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。 竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首を折る危険がある」と述べ、 アメリカの援助や復金融資・価格差補給金などの削減を示唆した。 また「為替レートの実施はできる限り早く公式に設定されることが望ましい」と述べ、単一固定レートの設定を主張した。 四八年に再開された日本の貿易は占領軍の管理する国営貿易で、為替レートは商品ごとに異なっており、 貿易拡大のためには単一固定レートの設定が不可欠だった。
ドッジ・ラインは、まず超均衡財政によるインフレ収束をめざした。 四九年度予算は歳入超過となり、その黒字は国債や復金債の償還にあてられた。 国債・復金債の大半は日銀が所有していたため、通貨は日銀に吸収されて収縮した。 一方、公共支出増大の主因だった復興金融金庫は、四九年三月で融資を停止した。 また、従来アメリカの援助物資の売却代金は貿易資金特別会計に計上され、輸出入への補助金の役割を果たしていた。 これを停止し、援助の売却金は見返資金特別会計に積み立てさせ、復金債の償還などにあてられた。 四九年四月には一j=三六〇円の単一為替レートが設定された
ドッジ・ラインが実施された結果、通貨増発要因は解消してインフレは一気に収束した。 しかし、復金融資の停止やデフレーションで倒産・解雇があいつぎ、「ドッジ不況」がもたらされ、 朝鮮戦争による特需景気まで回復しなかった。 一方、均衡財政は六五年(昭40)まで、一j=三六〇円の固定レートは七一年まで継続するなど、 ドッジ・ラインの影響は高度成長期まで残された。
ドレーパー使節団
引用一九四八年(昭23)三月に来日した、ドレーパー米陸軍次官、 ジョンストン元ニューヨーク・ケミカル・バンク会長などをメンバーとする使節団で、 日本経済の実情を視察して対日占領政策を方向転換させる報告書をまとめた。 同年五月の報告書では、日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、 貿易拡大・賠償削減・財閥解体の緩和などを提唱した。 またインフレを収束させるため均衡財政確立を求め、公務員削減や補助金打切りを主張した。
これらの方針は、非軍国主義化のため日本経済の弱体化をめざした初期の占領政策や、 GHQのニュー・ディーラーが進めた意欲的な経済政策の修正を迫るものであり、 冷戦に対応して日本を反共の拠点とする政策への転換を示していた。 また、これに消極的なGHQに対し、アメリカ政府が強く政策転換を迫る方針表明でもあった。 その内容は同年末の経済安定九原則に集約され、翌年のドッジ・ラインで具体化されることになった。
ヒロポン
引用強力な覚醒作用を持つ塩酸メタンフェタミンという薬品の商品名。 第二次大戦中にパイロット用の軍需物資として大量に生産され、敗戦とともにヤミ市に出まわった。 刺激物に乏しかった戦後の混乱のなかで、作家や芸能人などに多用され、乱用から中毒症状を起こす者が続出した。 五一年(昭26)に覚醒剤取締法が成立し、取締りが強化されたが、それ以降も断続的に流行した。
引用特殊慰安施設協会慰安所のことで、敗戦後に日本政府が占領軍兵士のための管理売春施設として設置した。 都内だけでも二〇ヵ所以上、全国では七万人にのぼる女性が従事させられたといわれる。 はじめは米軍兵士でにぎわったが、性病が流行し、一九四六年(昭21)にはGHQが「公娼廃止に関する覚書」を出して RAA慰安所も閉鎖されることになった。 しかし、いわゆるパンパンや赤線などの形態で、それ以降も売春は続けられた。
引用一九四七年(昭22)一月から、東京新宿の帝都座で上演されたヌードショー。 舞台上の額縁の中で、裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけだったが、 戦前に禁じられていたヌードを見物する観客が殺到した。 このあと浅草のロック座などでストリップ・ショーの上演が始まり、四九年には日劇小劇場でもストリップを上演するようになって、 五二年の日劇ミュージックホール開設へとつながった。
引用一九四五年(昭20)一二月からはじまったNHKのラジオ番組。 独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。 内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、 アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。 しかし、国民の初めて知る事実も多く、後続番組の『真相箱』『質問箱』が生まれたほか、 この番組に刺激されて天皇制批判や、暴露記事を売り物にする雑誌が多数創刊された。
桜木町事件
引用一九五一年(昭26)四月二四日、国鉄の京浜東北線桜木町駅付近(横浜市の中心街)で電車が火災となり、 死者一〇六人、負傷者九二人を出した事件。 原因は作業中に断線した架線に先頭車のパンタグラフが接触し、その火花が車両に引火したためだった。 しかし、それが大惨事となったのは、一九四四年に登場したモハ六三型とよばれる戦時設計の電車の構造の欠陥によるものだった。
この電車は代用材を使い事故が多かったが、この事件でも屋根に絶縁塗料を塗らず天井がペンキ塗りで火のまわりが速く、 一〇分足らずで一両目は鉄骨だけを残して全焼、二両目も半焼した。 しかも窓は中段が固定された三段窓で、大きく開かないため人が脱出できず、また車両を結ぶ通路もなかった。 このため大半の乗客は車内で焼死した。
第五福竜丸事件
引用一九五四年(昭29)三月一日、マーシャル群島ビキニ環礁付近で操業中のマグロ延縄漁船第五福竜丸が、 アメリカの水爆実験で発生した放射性物質(死の灰)に被ばくし、乗組員が急性放射能症となった事件。 この日の水爆実験は地上四六bで起爆され、広島型原爆の約一〇〇〇倍にあたる一五メガトンの威力があった。
第五福竜丸は指定された危険水域の外で操業していたが、上空に舞い上った死の灰が降り注ぎ、 翌日から頭痛・吐き気・脱毛などの症状があらわれ、静岡県焼津港に帰港後、乗組員はただちに病院に収容された。 このうち重症だった久保山愛吉無線長(四〇歳)は放射能症による肝臓障害で九月二三日に死亡した。
東大理学部・医学部の被害状況調査団など研究機関はアメリカに治療対策のため資料を請求し、 日本政府も正式調査を依頼した。 しかし、アメリカ側は被爆の誇張や危険水域内の操業を示唆する見解を示す一方、 核兵器による大量報復戦略を継続する方針を繰り返し言明した。 さらに三月二六日には危険水域を大幅に拡大した上で、再度の水爆実験をおこなった。
これに対して日本の世論は激しく反発し、五月に東京で原水爆禁止署名運動杉並協議会が発足し、 八月には全国協議会に発展して活発な署名運動が展開された。 すでに五〇年に平和擁護世界委員会が核兵器禁止を求めるストックホルム・アピールを出していたが、 この事件で運動は一気に広がり、五五年八月に広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、 原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足した。 しかし第五福竜丸事件に関しては日米両政府が五五年一月に法的責任を不問に付し、 慰謝料二〇〇万jを受け取って交渉を終結させた。
『日曜娯楽版』
引用一九四七年(昭22)一〇月から放送されたNHKラジオのバラエティー番組。 第二回から登場した「冗談音楽」のコーナーは、三木鶏郎の歌とコントによる世相風刺で人気をよび、 ついに番組全体が「冗談音楽」になった。 しかし、その批判精神が保守政治家の反発を招き、講和独立後の五二年に『ユーモア劇場』と改名、 さらに五四年に造船疑獄への風刺が原因で政府の圧力が加わって番組が中止された。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。