「戦後日本政治史T」
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書籍: B6単行本(342ページ)
目次: 序章 敗戦への道
第一章 敗戦と降伏
第二章 占領政策と民主化指令
第三章 国体の変革
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翼賛議員同盟結成
引用新体制が官僚のヘゲモニーによる天皇制の強化であった限り、政党や財界は新体制に不満をもちつづけた。 政党は、大政翼賛会が組織される過程でみずから解消し、翼賛会のなかに合流して議会局となり、 わずかに院内交渉団体として衆議院議員クラブを組織していた。 しかし、もともと新体制を「政治指導者の団体」たらしめようとしていた彼らは、翼賛会の精動化が決定的となるにつれ、 ふたたび頭をもたげて独自の活動を開始した。
衆議院議員クラブは、全議員四四〇名(欠員二六名)のうち、四三五名を組織していた。 そのうち三一三名(七二%)の「同志議員」は、一九四一年九月二日、クラブを解散して翼賛議員同盟を結成した。 同盟は、院内団体としての性格をのこしながらも、政治結社としての性格をももち、 やがて正真正銘の政治結社に発展していく過渡期的な性格を示していた。 同盟に参加しなかった議員たちは、一一月にそれぞれの会派を結成した。 鳩山一郎芦田均などの自由主義的反対派と鈴木文治・片山哲などの社会主義的反対派は、ともに三七名の同交会を組織した。 河野一郎と西尾末広・水谷長三郎・松本治一郎など二六名は、興亜議員同盟を組織した。 ほかに一三名の議員クラブと八名の同人クラブがあり、さらに無所属として三五名がのこった。 無所属のなかには、浅沼稲次郎・河野密・杉山元治郎・河上丈太郎・加藤勘十・黒田寿男の名があった。
海軍内の打倒東條勢力
引用東条打倒のうごきは、海軍のなかにもあった。 海軍省教育局長の高木惣吉少将は、アメリカでよくおこなわれる自動車事故の方法で東条の暗殺を計画し、 自動車の衝突とピストルのコンビがいちばんよかろうと秘策をめぐらしていた。 彼と直接間接に志をおなじくしていたものは、部内では矢巻章・伏下哲夫の両大佐と中山定義・尾関(名不明)の両中佐、 部外では政治外交の顧問格として朝日新聞社論説委員の佐々弘雄・東京帝国大学教授の矢部貞治・ 大東亜省総務局総務課長の杉原荒太・外務省の湯川盛夫などであった。 海軍から軍需省総務部長のイスにすわっていた石川信吾少将は、別に赤坂の三河台に家をかりてアジトとしていたが、 藤山は、しばしばこの家に出入し、ともに東条打倒の秘策をねっていた。
陸軍内の和平論
引用戦局の急迫は、ついに大本営陸軍部内にも和平論を台頭させた。 六月一〇日ごろ、参謀本部の松谷誠大佐は、「ドイツが崩壊したときには日本も終戦をはからなければならぬ」 という意見を東条参謀総長に口頭をもって説明した。 Z旗をかかげたマリアナの海戦が敗北に終ったとき、おなじ松谷大佐は、 種村大佐などとともに翌年春を目途とする戦争指導に関する研究をおこなったが、判決の結果は、 「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、しかも、ドイツの様相もおおむね帝国とおなじく今後ジリ貧におちいるべきをもって、 すみやかに戦争終結を企図するを可とする」という絶望的なものであった。 東条のおそれる終戦意見がはじめて軍事計画としてうちだされてきた。
引用スタウフェンベルク大佐は、七月一日、予備軍の参謀長に任命され、ヒトラーと同席する機会を得ていた。 彼は、自分の手でヒトラーの暗殺をくわだてることにした。 七月一一日と一五日、彼は軍事上の報告をするためにヒトラーの面前によびだされた。 しかし、計画の齟齬からヒトラーを暗殺することに失敗した。 二〇日、三度目のチャンスがおとずれた。 スタウフェンベルク大佐は、ヒトラーに報告するため、東プロシアのラステンブルクにおかれた司令部によびだされた。 彼が会議室に入っていったとき、もう会議ははじまっており、ホイジンガー大将が報告をつづけていた。 彼は、ヒトラーと二三人の将校がかこんでいるテーブルの足の内側にヒトラーのほうにむけて時限爆弾をいれたカバンをおいた。 そしてベルリンから電話がかかってくるからといって席をはずし、大急ぎで建物の外にのがれた。 爆弾は、午後〇時四二分に破裂した。 のがれでていたスタウフェンベルク大佐は、一五五ミリ砲弾が命中したような大きな爆音をきいた。 しかし、ヒトラーは死ななかった。 スタウフェンベルク大佐が机の足にカバンをたてかけて室をでていったあと、 ホイジンガー大将の報告をききながら机上にひろげられた地図をのぞきこんでいたブラント大佐は、 のぞきこむのに足元のカバンがじゃまになるので何気なくすこしずらせた。 カバンは、机の足の外側にうつされ、ヒトラーと逆のほうにむけられた。 そのうえ暑い日だったため、窓があけはなたれていた。 おかげでヒトラーは軽傷を負っただけで命をたすかった。
小磯首相の戦争指導への努力
引用小磯首相は、三月八日、単独で梅津参謀総長を訪問し、首相を大本営の議に列席させるとともに戦争指導を大本営において実施するという 「大本営内閣」の実現について要請した。 梅津参謀総長は賛成し、その実現を期するため、大本営令を改正する要否を部内で検討させた。 しかし、小磯首相が要請するように大本営を従来のような純然たる統帥の府から戦争指導の機関へ飛躍させることは、 大本営令を改正するだけで実現しうものではなく、憲法の改正が必要であった。 憲法の改正が不可能だとすれば、小磯首相の要望は、戦争のあいだの特例として措置する以外に解決の方法はなかった。 一六日、小磯首相は、天皇の特旨により大本営の議に列席し、作戦の状況をつまびらかにしうる許可を得た。 大本営の会議は週に二回ひらかれていたが、実際には陸海軍相互の戦況通報があるばかり、 戦争指導を大本営においておこなうという「大本営内閣」の実質は、ついに実現されずに終ってしまった。
本土決戦をめぐる対立
引用国務と統帥の一致が得られないまま、小磯首相は本土決戦の準備をすすめなければならなかった。 大本営陸軍部は、三月中旬に本土決戦のための『決号作戦準備要綱』を策定し、二〇日に本土各方面軍の参謀長ならびに関係閣僚に内示した。 小磯内閣は、呼応して二六日、本土決戦のための国民義勇隊の結成を閣議決定した。 国民義勇隊は、当面は防空および防衛、空襲被害の復旧から重要物資の輸送、食糧増産などの臨時緊急を要する作業に国民を動員し、 情勢が急迫した場合には国民を武装出動させようという非常態勢である。 ところが、その命令系統をめぐって小磯首相と陸軍が対立し、陸軍の内部では陸軍省と参謀本部が対立した。 陸軍は、憲法を停止し、憲法によって保証されている国民の権利をすべて剥奪し、軍の統帥命令によって生殺与奪の権をすべて軍官の手に掌握し、 全国民を婦女子にいたるまで戦闘にかりたてようとした。 この計画について不一致はなかったが、参謀本部は、大本営を最高の指導機関とし、 内閣は大本営に付属しつつ軍の作戦方針によってうごく一行政機関たらしめようとした。 しかし、陸軍省は、それでは陸軍大臣も下級の隷属機関となってしまうといって反対し、 命令系統を陸軍省に確保しようとした。 小磯首相は、義勇隊を統裁する総司令部には首相みずからがあたるべきであると主張した。 小磯首相の主張は、中国にたいする和平工作としての繆斌を介した蒋介石との直接交渉が失敗し、 のこされた道が来るべき本土決戦において敵に打撃をあたえつつ、その機先を利用して和平の手をうつ以外になくなったとき、 国務と統帥の一致を要求するためにいっそうつよめられた。 彼は、かくしてひろく戦争遂行のうえで依然として未解決のままのこされていた国務と統帥のあいだの矛盾をもあわせて解決するため、 予備役から現役に復帰して陸相を兼摂しようとした。 首相は大本営の議に単に列するにすぎないが、陸相を兼摂するならば、 陸相としての本来の権限から大本営の決定に強力に参与することができるからであった。 ちょうどこのとき、陸相の杉山元が本土決戦のために設けられた第一総軍司令官に転出することとなった。 小磯首相は、いい機会だと陸相の兼摂を要求した。 しかし、陸軍は、予備役の現役復帰と陸相兼摂は絶対に承認できないといって拒否した。 戦争指導の方途をうしなった小磯首相は、四月五日、ついに内閣をなげだした。 彼は、とくに後継内閣は大本営内閣でなければならないことを強調しながら、辞表を提出した。
引用組織的な和平運動は、亡命した共産主義者によって海外においてのみおこなわれていた。 中国の戦線で日本の兵士によびかけ、捕虜の組織化をくわだてていた岡野進(野坂参三)や鹿地亘の活動は、 その代表的なものであり、とりわけ岡野進の活動は、彼が提示した和平と改革の綱領のゆえにきわだっていた。
野坂参三は、一九一七年に慶応大学を卒業して友愛会の書記となり、一九年にイギリスに留学、 二〇年にイギリス共産党に入党し、二一年にイギリス官憲から国外追放の命をうけ、 二二年に帰国して日本共産党の党員となり、二八年に三・一五事件に連座して検挙され、 三〇年に眼病をわずらって神戸で入院し、三一年に日本をずらかってモスクワに入り、 岡野進の名をもってコミンテルンで活躍し、そして一九四〇年の春、延安に潜入した。 彼は、華北の日本軍にたいする心理戦争を指導し、一九四〇年一〇月に日本工農学校を設立して捕虜を教育し、 鹿地亘が一九三九年にはじめて組織してから各地に結成されていた反戦同盟に卒業生をおくりこみ、 その反戦活動を次第に日本再建のための活動と統合させていった。 反戦同盟は、一九四四年一月、その任務と活動の拡大に応じて名称を日本人民解放同盟とあらためた。
冷戦へ、ポーランド問題
引用連合国のヨーロッパ政策を分裂にみちびいた最初の問題は、ポーランド問題であった。 ヤルタ会談は、ソ連占領下のポーランドに現存する臨時政府をヨリひろい民主的基盤のうえに再組織しようとし、 このことを約束する宣言を発していた。 四月一日、ルーズベルト大統領は、スターリン首相にあててヤルタ宣言の趣旨を早く実施するよう要請した。 七日、スターリンは、きわめて協調的な回答を返したが、これが両者の最後の文通となり、 ルーズベルト大統領は一二日に死去した。 ポーランド問題をめぐる交渉は、スターリンチャーチルのあいだにひきつがれた。 名うての反共主義者であるチャーチルは、 ロンドンに亡命している反共的なポーランド政権を故国に送りかえして新政府のヘゲモニーをとらせようとした。 ロンドンの亡命政権とポーランドの臨時政府の対立は、対独戦争における協力が戦争の終結とともに破れはじめ、 かわって階級闘争が前面にでてきたことを示していた。 二つの政府は、それぞれにイギリスとソ連を背後の支持勢力としてあらそいはじめた。 四月二九日、チャーチルは、スターリンにメッセージをおくってロンドン政権のために弁じ、 「われわれイギリスは、ロシアにたいして非友好的なポーランド政府をつくるつもりはなく、 またかかる政府をゆるすものでもない」が、「同時にまた、われわれは、 われわれが西欧において理解しているような個人の権利にたいする当然な考慮から、 ヤルタにおけるわれわれの共同声明にのべられたところと真に合致しないポーランド政府をみとめることはできない」と強調した。 第二次世界大戦における連合国の戦線は、ファシズムにたいする民主主義のたたかいという共通の基盤のうえに形成されていた。 ヤルタ会談は、この基盤のうえに米英ソが協調し協力するという「ヤルタ精神」を創造した。 チャーチルスターリンへメッセージをおくる直前の四月二五日からサンフランシスコでひらかれていた国際連合憲章作成会議もまた 同じ精神のうえにくみたてられていた。 このとき「ヤルタ精神」を「西欧において理解しているような」民主主義に限定することは、 それじたい「ヤルタ精神」を否定することにほかならず、 「ヤルタ精神」を「西欧において理解しているような」民主主義と共産主義に分解させるものでしかなかった。 やがて公然と宣布される冷い戦争は、かくして早くもポーランド問題をめぐって潜行的にあらわれてくるのだが、 それはまたドイツ占領政策のなかにもあらわれずにはおかなかった。
引用ルーズベルトのあとをついだトルーマン大統領は、有名な反共主義者であった。 かつて上院議員のとき、独ソ開戦の報に接した彼は、「双方にできるだけ殺しあいさせるべきだ」と主張したほどだ。 一九四四年の大統領選挙のとき、三選をねらうルーズベルトが副大統領ウォレスをしりぞけて新たにトルーマンを副大統領候補にたてることに同意したのは、 親ソ派のウォレスの急進的な主張が保守主義者からきらわれており、 彼を候補にたてたのでは重要工業地帯の投票をかくとくできないという進言に耳をかしたからであった。 だから、トルーマンが副大統領から大統領に昇格したとき、財界を背後の力とした民主党内保守主義者の発言権はつよまった。 トルーマンは、大統領になってすぐに故大統領の対ソ協調政策を一八〇度転回することはできなかったが、 アメリカの戦争政策と外交政策は、大統領の交代とともにいやおうなしに対ソ強硬政策に方向づけられていった。 戦時中における超党派外交の推進者として知られていた共和党の上院議員バンデンバーグは、 四月二四日の日記に早くも「FDR〔ルーズベルト〕の対ソ宥和政策は終った」と書きいれた。 そして国際連合憲章作成会議に出席するアメリカ代表が強硬態度をもってのぞむときいたとき、彼は、 「ロシアは脱退するかもしれない」が、「もしそうなったら、会議はロシアぬきで進行するのだ、 われわれはある地点に到達しつつある!」と会心の態であった。
引用ソ連との交渉を決定した鈴木内閣は、五月一五日、一九三七年の防共協定をふくむ日独伊三国間の全条約の廃棄を宣言した。 独伊ともに連合国に降伏している現在では、三国間の条約はすべて有名無実と化しており、 したがって条約廃棄は事実上の手続にすぎなかった。 しかし、そこには、従来ソ連が反ソ的とみとめていた条約の廃棄を宣言することにより、 対ソ交渉の道に横たわる障害を除去しようという目的もかくされていた。
トルーマン大統領、マッカーサーを連合国最高司令官に任命
引用日本の降伏交渉に接したアメリカは、降伏につづく日本の軍事占領にソ連の発言権を封じる工作をはじめた。 トルーマンは、一〇日、マッカーサー元帥を一方的に連合国最高司令官に任命した。 彼は、ソ連と占領地区を分割したドイツの経験をくりかえしたくないとかんがえた。 マッカーサーの一方的な任命は、日本を単独占領する意思の表明であった。 マッカーサーにあたえられた連合国最高司令官の名称は、原語では Supreme Comander for the Allied Powers であった。 米英連合軍をひきいてドイツに侵攻したアイゼンハワー元帥の肩書は、 Supreme Comander,Allied Expeditionary Force (連合国遠征軍最高司令官)であった。 この肩書は、アイゼンハワーが米英連合軍という単一軍隊の最高司令官であったことをあらわしていたが、 マッカーサーの肩書が Supreme Comander,Allied Powers でもなく Supreme Comander of the Allied Powers (連合国の最高司令官)でもなく、 Supreme Comander for the Allied Powers (連合国のための最高司令官)であった意義は、 マッカーサーが日本を占領する連合国の単一軍隊の最高司令官ではなく、 アメリカの軍隊を統率しつつ他の連合国のためにも行動するアメリカの司令官たるところにあった。 アメリカ政府にたいしてのみ責任をもつマッカーサーの連合国最高司令官への任命は、 日本の占領を排他的に独占しようとするアメリカの意思のもっとも端的な表明であった。
東久邇宮内閣、国体護持への努力
引用国体護持を国民にうちこむ直截的な手段は、まず天皇の「御仁慈」を積極的に宣伝することであった。 八月二〇日の各新聞は、一九日に首相が参内したとき、天皇が国民生活をすみやかに明朗にするよう指示した、とつたえた。 そしてその指示にもとづくかのようなかたちで、二〇日正午に燈火管制が解除され、 また一九四一年一〇月いらい実施されてきた信書の検閲も停止された。 新聞は、二〇日夜の都会の灯を「ありがたい御仁慈の灯」と形容した。 それからは、軍人遺族や傷痍軍人に金一封がおくられたり、戦災復興のために木材一〇〇万石が下賜されたり、 戦災殉難者の慰霊法要に生花がおくられたり、公衆保健のために離宮の敷地が下賜されたり、 農耕に適する御料地が国家に移管されたり―八月から年末にかけて異常な頻度でつぎつぎと宣伝された皇室の「御仁慈」は、 すべて国体護持のカンパニアとしておこなわれたものであった。
「一億総ざんげ」への反応
引用国体を護持するために政府が発想した一億総ザンゲ論は、国民のなかからも一定の反応をもっていた。 国民のあるものは、敗戦の責任について自己ザンゲした。 作家の吉川英治は、「われわれ日本人は、ほんとうに底力を出しきっておらなかった」のだから、 「みんな地べたに土下座して天地に罪を謝し、おのれの歩んできた道を反省すれば、 おのずと今後のとるべき道をさがしあてることができるであろう」と反省した。
もとより、国民のなかからは一億総ザンゲ論にたいする批判の声もするどくあがっていた。 作家の菊池寛が『週刊朝日』(九月二一日号)の座談会で「総ザンゲなんていうことは、 そういう戦争責任の連中をかばうためのカモフラージュだよ」とはきすてるようにいえば、 自由主義的政党政治家の鳩山一郎は、「このあいだ『朝日新聞』でしたか、総ザンゲに反対する意見が書いてあったが、 総ザンゲとは一人もザンゲせざることと同様なるべし、とね、じっさい、総ザンゲというのはコッケイだ」と相づちをうった。 ある労働者は、「配給上の不公正や各種事業にたいする急不急の誤認、あらゆる窓口の不明瞭など、 戦力低下に拍車をかけたのはみな官僚ではないか、貴官たちは、どの口で、誰にむかって『反省しろ』だの『ザンゲしろ』だのいえるのか、 自分は涙をもって問う、特攻隊その他の戦死者の遺族も、罪深き官吏といっしょにザンゲするのか、反省するのか」と問いつめた。 しかし、このような批判は、敗戦から占領開始にいたるみじかい期間には、まだきわめてすくなかった。 戦争責任を国民の発意においてとりあげて追及し、これを主体的に問題にしていこうとする積極的なうごきは、 まだどこにもあらわれていなかった。
東久邇宮内閣と官僚たち
引用軍部にかわって国家機構の中枢を支配しはじめたのは、警察権をにぎる内務官僚と裁判権をにぎる司法官僚であった。 彼らは、東久邇宮首相の改革意見を無視し、自己の欲する方向に内閣の施策をねじまげていった。 そして東久邇宮首相自身、問題が天皇制の根幹にふれるとなると自分の限界をハッキリと露呈してしまい、 何の矛盾も感ぜずに内務官僚や司法官僚に同調した。 その結果、政治犯の釈放も、言論・集会の自由も、高等警察の是正も、何一つ実施されず、 逆にかえって軍隊の解体をおぎなうためと称して警察力の増強がくわだてられた。 八月二四日、閣議は警察力整備拡充要綱を決定した。 東久邇宮内閣は、さらに治安維持の支柱として町内会・部落会・隣組の組織を活用する方針をうちだした。 これらの組織は、義勇兵役法により国民義勇隊のなかに中隊・小隊・分隊として包含されていたが、 八月二一日の閣議で義勇隊の解散が決定されたのち、新たに警察力強化の限界をおぎなうものとして活用されることとなった。 これでは、国民の基本的権利もみとめられる余地がなかった。
東久邇宮内閣は、さらに自治と警察のとりしまりをこえて「国体の尊厳」をおかすような思想が台頭するのをおそれた。 治安維持法とともに治安立法の双璧をなしていた治安警察法によるとりしまり方針をあきらかにした。 八月二八日の閣議は、言論と結社の自由を確立するため、太平洋戦争の勃発と同時に制定された言論、出版、集会、 結社等臨時取締法の廃止を決定したが、同時に今後の言論・集会・結社のとりしまりは「治安警察法の精神にのっとる」こととした。 つまり、言論・集会・結社のとりしまりを太平洋戦争勃発前の状態にかえすというだけなのだ。 東久邇宮内閣が描く改革は、ポツダム宣言のはるか後方にとどまっていた。 東久邇宮内閣は、ポツダム宣言の趣旨をまったく理解していなかった。 だから、この時期にも、また占領が開始された九月になっても、司法当局は、 治安維持法違反事件にたいしては従前とおなじように裁判をつづけ、堂々と判決をくだしていた。 東久邇宮首相は、その後、九月の末にまだ政治犯の釈放が役所しごとのために実行されていないと不満らしくのべたが、 治安維持法によって政治犯が堂々と裁判されているのに政治犯が釈放されるなどは、ありえようはずがなかった。
物資放出と未払い金等の支払い
引用鈴木内閣は、降伏を決定した八月一四日、武器以外の軍需品は占領軍が進駐してくれば没収されてしまうのだから、 その前に分散したり、隠匿したり、復員軍人にあたえてしまったりするほうがよいという方針から、 閣議で『軍その他の保有する軍需用保有物資材の緊急処分の件』を決定した。 陸軍は、この決定内容がそのまま伝達されると末端機関に誤解と混乱がおこるおそれがあるという理由から、 一五日に陸機密第三六三号『軍需品・軍需工場等の処理に関する件』を指示した。 これは、軍需品および軍需品を生産するための原料資材は、原則として無料で処分してはならないが、 地方自治体その他へ処分する場合には無料でよいし、また販売する場合にも、代金の支払は即時でなくともよい、 という、交付をうけるものにとっては非常に有利な条件を規定したものであった。 軍需品は放胆に緊急放出されはじめた。 陸海軍は、軍需品関係の書類帳簿をすべて焼きすててしまった。
アメリカは、まだ占領部隊を日本に進駐させていなかったが、どこからどう知ったのか、内閣更迭後の八月二〇日、 日本政府に放出の中止を命令してきた。 のちの総司令部の民政局につとめた『東京旋風』の著者ワイルズは、「スキャップ〔総司令部〕は、 八月二〇日の緊急指令でこの略奪を阻止しようとしたが、鈴木内閣をついだ東久邇宮内閣は、 その処置を八日間ひきのばした」としるした。 まさしく八日後の八月二八日、内閣は軍需品放出の中止と回収を閣議で決定した。 しかし、ときすでにおそく、急流のように放出されていく物資のながれをとどめることは困難であった。 その間に放出された軍需品の量は、陸軍では全国平均で総量の約三分の一、海軍は当時の価格で約一〇〇〇億円にのぼったとつたえられた。 このとき軍の倉庫に充満していた原料資材の量は、厖大なものであった。 のちにアメリカの雑誌『ワールド・リポート』が計算したところでは、 「平時経済にして四ヵ年の供給をみたすに十分なほど」であり、経済学者豊崎稔の評価では、 「敗戦後の生産をフルに回転してもなお一年耐えうる」ほどのものであった。 具体的な価格の計出では諸説にちがいがあるが、いずれにしても、 倉庫にギッシリつめこまれていた軍需品や原料資材のすくなからぬ部分が無秩序に放出された。 そしてその多くの部分は独占資本の手に入り、彼らを敗戦の打撃からまもりながら、彼らによる経済再建に物的基礎をあたえた。 国民の所得となるべき大量の物資は、こうして特定の経済勢力の手中に独占され、 国民大衆はひとり敗戦の犠牲を背負わされることとなった。
東久邇宮内閣は、軍需物資の放出についてはアメリカの命令で形式的にせよ中止命令をだしたが、 軍需会社にたいする未払金や損失補償金の支出には何の遠慮もしなかった。 彼らは、軍需生産がいっせいに停止したために資本主義経済が混乱におちいりはしないかとおそれた。 そこで彼らは、軍需生産が停止したのちにも、戦争経済をまかなった臨時軍事費特別会計の支出をつづけ、 軍需会社への資金供給を断つまいとした。 臨時軍事費は支出され、その結果、日銀券の発行高は、敗戦直前の二八四億円から、 八月末には一挙に四二三億円にはねあがった。 戦争は終ったが、戦争経済(財政)はつづけられ、かくしてインフレーションの最大の原因がつくりだされた。 独占資本は、いまや二重の利得をえた。 一方では、未払金や損失補償金の支払をうけて企業は破綻から救われ、他方では、 無料で手にいれた軍需資材のインフレによる値上がりが莫大な利益をもたらした。 独占資本は、敗戦の打撃からたちなおりつつ、 自己の領導下に経済再建にのりだす第二の方便をインフレによる国民大衆の犠牲のうえにえたのである。
GHQの中核
引用マッカーサー配下の総司令部は、いわゆるバターン・ボーイズを中核として編成された。 バターン・ボーイズは、マッカーサーがバターン半島を脱出したときに行をともにした一四名(一七名ともいう)の将校からなる側近グループであり、 バターン・スタッフともよばれ、バターン・ギャングともアダ名されていた。
ワシントン政府のはじめの予定では、もっと系統ある総司令部をつくるはずであり、 そのために前もって選抜された多数有為の軍人や専門家に特別の訓練と教育をほどこしていた。 しかし、一九四五年一一月のオリンピック作戦と翌年春のコロネット作戦で日本を降伏させるというプログラムをたてていたアメリカ政府にとっては、 原爆とソ連参戦による日本の降伏は、意外に早くきたものであり、日本を軍事占領する準備は、なおととのっていなかった。 マッカーサーを連合国最高司令官に任命したワシントン政府は、日本を占領し支配する軍政府の組織計画を彼の手にゆだねた。 軍政府をいかなるかたちで組織し、いかなる人物をもって構成し、いかなる権限を彼らにあたえるか ―その決定権を手にしたマッカーサーは、沖縄の軍政をになっていたクライスト代将に立案を命じた。
立案の命令をうけたクライストは、本国で訓練をうけたもののなかから適格者を選抜して立案のグループと訓練の組織をつくり、 さらに少数の将校で立案グループの核を形成した。 彼らは、ドイツやイタリアなどヨーロッパにおける占領行政の経験と太平洋諸島における軍政の経験から学びとりながら、 厖大な軍政府の機構案をねりあげた。 それは、軍事幕僚の第五部(G5)で占領行政を統括し、日本の行政機関の支配と監督を総司令部のレベルにおいておこなうばかりでなく、 県や重要都市のレベルにおいてもおこなおうとしたものであった。 しかし、マッカーサーとその側近は、クライストの原案をしりぞけた。 マッカーサーは、日本に飛来したときは、万一にそなえて軍政局を組織してきたが、 事態が平常にもどったときは、日本の現存する行政機関をできるだけ温存し、そのうえに占領軍の支配と監督をおこなおうとした。 そこから、G5による占領行政の統括をやめ、日本の行政機関と接触する特別の民事幕僚部をおくことにした。 この民事幕僚部は、軍事幕僚部の General Staff と対比して Special Staff Section (特別幕僚部)とよばれ、 はじめは物資調達局・天然資源局・経済科学局・民間輸送局・公衆保健福祉局・法務局・民間情報教育局・民政局という八つの局から構成されたが、 のちにさらに分化して局を増加させた。 そしてマッカーサーは、これらの局の長に本国で正式の訓練をうけたものを排除しつつバターン・ボーイズを任命し、 正式の訓練をうけたものはバターン・ボーイズの部下として配置した。
引用GSの局長コートニー・ホィットニー代将は、一八九七年にうまれ、はじめ軍籍に入ったが、まもなく退官し、 一九二七年から四〇年までをマニラで弁護士としてすごした。 よく切れるので名があり、マニラで活躍中にマッカーサーの知遇を得た。 開戦当時はアメリカに帰っていたが、やがて空軍将校としてふたたび軍隊に入り、一九四三年、 マッカーサーによってオーストラリアによびよせられた。 フィリピン奪回をめざすマッカーサーがまず日本軍へのフィリピン人の抵抗を組織しようとしたとき、 その指導にあたったのはホィットニーであった。 日本占領後、彼はマッカーサー側近の第一人者となり、「どこでマッカーサーが終り、 どこでホィットニーがはじまるかわからない」ほどの信頼を得ていた。 あらかじめの打合せなしにマッカーサーの室にノックだけで出入できたのは、彼ひとりであった。 ホィットニーは、いわばマッカーサーの「国務長官」であった。 彼は、その配下に故ルーズベルト大統領のニュー・ディール政策に参画したニュー・ディーラーをはじめ、 IPR(太平洋問題調査会)系統の左派の日本研究家ビッソンからミネソタ大学のクィグリー教授や ノースウェスタン大学のコールグローブ教授のような日本研究の政治学者にいたる多数の専門家をかかえこみ、 日本の民主化政策の中心としてたっていた。
引用G2の部長チャールス・ウィロビー代将は、一八九二年にドイツのハイデルベルヒでうまれ、 一九一〇年にアメリカに帰化、軍人としては最下級の兵士からたたきあげて代将(のちに少将)にまで昇進した。 一九四一年にマッカーサー司令部の諜報部長となり、そのまま総司令部の参謀第二部長となった。 もちろんバターン脱出でマッカーサーといっしょだった一人であり、側近としての重要分子であった。 しかし、ホィットニーほどマッカーサーとの関係は緊密でなく、ノックひとつでマッカーサーの室に入ることはできなかった。 彼は、参謀長をとおしてでなければマッカーサーに面接することはできなかった。 どうしてもすぐに面接したいときは、マッカーサーの帰るころをみはからってドアのそとにたち、 マッカーサーが室からでてくるとおどろいた顔をつくって「やあ元帥、お帰りですか、 私はちょうどおめにかかりたいとおもってうかがったところなんですが―」というのだった。 そこでマッカーサーウィロビーをともなって室にもどることとなるのだが、ウィロビーは、 弁護士あがりのホィットニーとは対照的に軍人精神の権化であり、集権的な官僚独裁の信奉者であった。 マッカーサーについでスペインの独裁者フランコ将軍を尊敬し、フランコ将軍を「現存する第二の偉大な軍事的天才」とほめたたえていた。 ウィロビーは、やがて「占領軍のジョー・マッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風で鳴らした極反動の共和党員)とあだ名をつけられるようになり、 マッカーサーからもときどき冗談まじりに「わが愛するファシスト」とよばれていた。 ウィロビー配下の軍人たちは、 ホィットニー配下のニュー・ディーラーを赤がかったものどもとみて「ピンカーズ」(桃色野郎)とさげすんでいた。
間接統治受け入れのための法的措置
引用九月二〇日、東久邇宮内閣は、緊急勅令をもって『ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件』 および同件の施行に関する命令を発し、 総司令部の指示を実施するうえで必要なときには勅令・閣令・省令(憲法改正以後は政令・府令〔総理府令〕・省令)をもって 処理することができるようにし、違反者は懲役・罰金・拘留などで罰しうることとした。 ポツダム命令あるいはポツダム勅令(憲法改正以後はポツダム政令)といわれたものがこれで、 超憲法的な効力をもっていた。
解体前夜の財閥
引用財閥の首脳部は、総司令部の先手をとって改革に着手していた。 しかし、この改革は、改革の名において実勢力を温存しようとする策謀にすぎなかった。 三菱は、現社長岩崎小弥太を会長とし、現副社長岩崎彦弥太を社長とし、副社長は岩崎家以外から選任するという方針をたてたが、 三菱本社をはじめ各社とも幹部を相談役にするくらいで退陣をさせず、とくに小弥太、彦弥太の指導力はあくまでも温存させるつもりであった。 住友は、傘下諸企業を一応は本社ときりはなし、本社の支配権を解消して独立させる方針をたてたが、株式の公開には応ぜず、 本社を持株会社として温存させるつもりであった。 三井は、関係会社にたいする本社の支配権の解消と持株の整理をおこなう方針をたてたが、 本社の機構は温存させるつもりであった。
鳩山自由党の資金源
引用日本自由党はブルジョア政党であったが、財界との組織的関係はまだ希薄であった。 自由党の資金第一号は、鳩山がだした三〇〇〇円であり、その他は主として河野幹事長が辻嘉六からひきだした。
辻嘉六は、かつて政友会の黒幕といわれた浪人であるが、資金の調達を河野からたのまれた彼は、 児玉誉士夫に目をつけた。 児玉は、北一輝大川周明を尊敬するファシストであり、戦争中は海軍のために「児玉機関」を組織し、 上海で物資の調達に従事していた。 敗戦で児玉機関は解体したが、海軍から得た巨利で蓄積した内地・外地の資産を海軍の了解のもとにソックリそのまま自分の手にいれていた。 そこに辻嘉六からの声がかけられた。 児玉は鳩山と会見し、「ただひとつ、いかなる圧迫があろうと、ぜったい天皇制を護持してください」 という条件で自分の資産を自由党のための提供した。 児玉機関の副隊長をしていた吉田彦太郎は、自分が手にしていた多額の資金で緑産業という会社をはじめていたが、 その利益のなかから六五〇万円を献金した。 自由党の政治資金は、戦争中に海軍が国民の税金をつかって特殊の機関にもうけさせた資金、 そしてファシストが国体護持を条件として提供した資金をもってまかなわれた。
軍需補償打切り
引用労働者は、生産管理の手段に訴えてまで生産の再開と生命の擁護をはかったが、国民の生活を救う生産の再開は、 依然としておくれていた。 財界は、依然として戦争経済の継続を要求していた。 臨時軍事費の支出は、依然としてつづけられていた。 九月には三五億円が支出され、一〇月には一一億円が支出された。 しかも、幣原内閣は、一一月一〇日、臨時軍事費の支出を翌年三月三一日まで継続すると言明した。 財界は、さらに戦争保険金・生産設備命令補償・疎開命令補償など 戦争中に政府が軍需会社に投資した銀行にたいして約束していた軍需補償金の支払を要求した。 一〇月一七日、財政学の権威大内兵衛は、「蛮勇」をふるって戦時債務を切りすてるよう幣原内閣の蔵相渋沢敬三に要求した。 しかし、渋沢蔵相は、一八日、「今後の産業転換は、政府補償の履行如何が大きなカギとなる」と回答した。 軍需補償の請求額は、総計約七五〇億円の巨額にのぼると推定された。
軍需物資の放出も、軍需補償の支出も、軍需産業を平和産業に転換させるという大義名分にたって要求されていた。 しかし、不法にかくとくさせた軍需物資は、隠匿させるとともにインフレーションによる値上げをまってとん積され、 生産再開をかえってさまたげていた。 軍需補償の問題が未解決となっていたことは、軍需融資のコゲつきをおそれる銀行資本の新たな投資への興味を減殺し、 ここでもまた生産再開をさまたげた。 生産の再開は、かくてあらゆる面で阻害され、生産のサボタージュは、とくに軍需資本系の巨大資本においていちじるしかった。 そしてただひとりインフレーションだけが高進した。 日銀券の発行高は、一二月末には五五四億円に達して終戦時の三〇二億円の倍ちかくまで膨張し、 一二月の物価は、九月に比較して約倍となった。
【中略】
九月二四日、総司令部は「つねに一般民衆にとって破壊的であるインフレーションの高進をみた総司令部は、 一一月二四日には軍需補償の打切りを指令し、三〇日には総司令部の許可を得ない新紙幣の発行禁止を指令した。 これらの指令は、さらに翌年一月二四日の臨時軍事費即時打切りの指令で補完されるが、 財界が意図した戦争経済の継続は、総司令部の指令でようやく阻止されたのである。
アメリカの初期賠償政策
引用飢餓におびえる国民は、さらにアメリカの賠償政策が課するであろう日本の過酷な運命におののいていた。 一一月一三日、トルーマン大統領の個人代表の資格で来日した連合国賠償委員会のアメリカ代表ポーレーは、一五日、 国際記者団と会見して対日賠償政策をあきらかにする声明書を発表した。 声明書は、「われわれは最小限度の日本経済を維持するに必要でないものはすべて日本から除去する」と宣言し、 いうところの「最小限度」とは「日本が侵略した国々がもっていた生活水準より高くない水準を意味する」と注釈し、 さらに「賠償にあてられるべきものについては、賠償そのものに先立って二つ要求するものがある」と主張し、 それは第一に占領の費用であり、第二には日本の必要な輸入物資にたいする代償である、とのべた。 ポーレー大使があきらかにする賠償政策は、きわめてきびしいものであった。 アジアの後進国なみの生活水準しかゆるされなくなった国民の気分は、暮をむかえて暗澹としていた。
戦後インフレの構造
引用インフレーションは、巨大資本が生産をサボタージュするなかで破局的に高進していた。 臨時軍事費の放漫な支出は、総司令部の命令で停止されたが、 それにかわる銀行の貸出し増加と預貯金の引出しは、前年末から年初にかけてインフレーションの新たな源泉をつくりだしていた。 銀行の貸出しは、多く主として巨大軍需会社への貸付であったが、貸出しをうけた巨大軍需会社は、 手にした資金を生産活動のためにつかわず、大部分を投機ととん積のためにつかっていた。 預貯金の引出しもまた換物運動のためにつかわれていた。 一九四五年度産米の不作に刺戟された食糧への換物は、猛烈をきわめていた。 銀行は、一方で貸出しを増加し、他方で預貯金の引出しを受け、日銀からの借入でようやくバランスをとっていた。 日銀券は膨張し、インフレーションはとめどなく高進した。 一月の物価は、敗戦直後にくらべてすでに約二倍に達していた。 太平洋戦争の全期間をとってみても、物価の騰貴は約六割であったのだから、 戦後のインフレーションによる物価騰貴は、まったく急激であった。 ヤミ価格の公定価格にたいする平均倍率は、約四〇倍にハネあがっていた。 生産は、ただ辛うじて中小企業によって維持されている状態であった。
巨大資本は、インフレーションにより、敗戦の打撃を大衆に転嫁しつつ、危機を脱却する方法を得ていた。 しかし、インフレーションは、日本資本主義のなかに深刻な矛盾をもたらしていた。 第一、銀行資本に危機がしのびよった。 銀行資本は、日銀からの借入で貸出しと預貯金引出しのバランスをとっていたが、 預貯金の引出しがさらにつづけば、日銀からさらに借入れようとしても担保物件に窮するという状態に追いこまれてきた。 第二、巨大資本の生産サボタージュとインフレーションの高進は、一方では大衆を日常生活のための奔命に疲れさせることにより、 その意識をにぶらせながらも、他方では大衆を闘争にたちあがらせており、 労働者階級は生産管理をもってたたかいを展開させていた。 銀行資本の危機を救いつつインフレーションを収束して生産再開の方法を講じることは、 日本資本主義の存続のために至上命令となってきた。
幣原内閣の居座り
引用与党をもっていない幣原内閣の書記官長楢橋渡は、総選挙前の三月ごろから進歩党を与党化する工作を開始しており、 総選挙後に居すわる算段をしていた。 彼は、総選挙直後の四月一二日ごろから、さらに総務委員の犬養健をめあてに工作を活発化し、翌一三日、 幣原内閣の居すわりを宣言した。
【中略】
楢橋書記官長の工作は、まず進歩党をだきこみ、ついで無所属と諸会派を糾合し、 場合によっては進歩党と合同させて新党を樹立し、さらに社会党との提携をはかることを目標としていた。 進歩党は、最右翼の政党という批判をうけており、追放で大打撃をうけていたため、 起死回生の策として思いきった衣替えをしようとしていたところであった。 彼らは、楢橋の工作を渡りに舟とうけとり、極右的色彩を一掃し、 社会党にちかい政策をかかげながら「自由党の左、社会党の右」にすわりこもうとした。 かくして楢橋と進歩党の話はすすみ、一七日、幣原首相が現職のまま入党して進歩党の総裁となることに話がきまった。 しかし、無所属と諸会派の糾合は成功しなかったし、社会党との提携工作もうまくいかず、 逆に反撃を食って幣原内閣は危機におちこんだ。
引用総司令部は、ついにみずから鳩山追放の覚書を起草し、五月四日、覚書を鳩山につたえた。
総司令部の覚書は、「日本政府はみずからの責任において何らの処置をとりえなかったので、 最高司令官は鳩山の適格性に関係ある事実をたしかめ、・・・・・・好ましからざる人物であるとみとめる」としるし、 五つの事実をあげていた。 五つの事実とは、第一、一九二七年から二九年にいたる田中内閣の書記官長時代に治安維持法を改悪した責任をもつこと、 第二、一九三一年から三四年にいたる文相時代に滝川事件に象徴される学問と思想の弾圧をおこなったこと、 第三、ヒトラーの労働者階級抑圧計画を日本に移植して労農団体の強圧的解体に加担したこと、 第四、首尾一貫して日本の侵略行為を支持したこと、 第五、反軍国主義者をよそおいながら、その実は一九四二年の翼賛選挙のとき選挙人におくった挨拶状で侵略戦争を支持したこと、 であった。
総司令部の覚書が鳩山の手にわたされたのは、五月四日の午前九時四五分であった。 鳩山首班の夢は消えた。 政局は急転し、政権は混沌としてきた。
世田谷米よこせ区民大会
引用ついにたまりかねた東京世田谷の区民は、下馬の生活集団内広場で米よこせ区民大会をひらいた。 あつまった千余名の区民に演説した野坂参三は、「われわれの手にのこされた道がある。 それは天皇のところへいくことだ、君たちのデモの行方は天皇のところだ」とアジった。 大会を終った区民の代表約二〇〇名は、社会党へ陳情し、それから宮内省におしかけて大会の決議文を手交した。 宮内省は、一四日に回答すると約束した。 赤旗が歴史はじまって以来はじめて坂下門から宮城内にすすんだ。 翌一三日、共産党は、「わが党は天皇制の廃止を主張するものであるが、現在の憲法では天皇の掌中に大臣任免の権限が握られているから、 人民の要求と行動は首相官邸のみでなく宮城にむかうべきである」と声明した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。