「戦後日本政治史U」
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書籍: B6単行本(374ページ)
目次: 第四章 民主戦線運動の挫折
第五章 冷戦とアメリカの対日新政策
第六章 中道政権
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引用佐藤栄作は、岸信介の実弟であり、鉄道官僚として育ってきたが、 先輩の堀木謙三から「小利口にたちまわって、早く出世したい一点ばりの、気の小さい男だった」と批判されていた彼は、 戦争中は革新官僚として陸軍とむすんで羽振りをきかせ、これがたたって戦争末期に大阪鉄道局長へ左遷され、 すっかり悲観して一時は鉄道をやめる決心をし、戦後の返り咲いて鉄道総局長官の地位にあった。
第二次農地改革
引用第二次農地改革案は、第一次農地改革を不満とした総司令部の主導下に立案されており、 なお幾多の限界を示しながらも、絶対主義的天皇制の固有の物質的基礎としての地主的土地所有に決定的な打撃をあたえようとしていた。 地主の土地を農民にあたえるための土地買収は、国家が直接おこなうことになって自作農創設は間接創設から直接創設にきりかえられ、 地主の保有面積は、五町歩から一町歩に縮小され、解放面積は、全小作地の八割以上 ―第一次改革の一〇三万町歩から二二〇万町歩―に拡大され、 改革をおこなう期間は、 第一次改革の五ヵ年以内から二ヵ年以内(一九四八年末)までに短縮されていた。 第一次改革において地主の土地の農民への譲渡をあっせんする機関であった市町村農地委員会は、 第二次改革において農地買収の決定機関となり、その構成は、第一次改革における地主五・自作五、小作五から 地主三、自作二、小作五となって小作農の発言権を強化していた。 中立委員は、おいてもおかなくてもよいことになった。 農地委員の選挙権は、経営主から青年の男女に拡大されていた。 地主的土地所有の廃絶は、いまや決定的であり、とくに地主が地主として存立しうる最小限の保有面積とみられた五町歩を一町歩に縮小したことは、 階級としての地主を解体にみちびく決定的な手段であった。
民法改正
引用第二次農地改革案につづく公法・私法一六法案は、とくに民法改正案において注目をひいていた。 民法改正案は、個人の権威と両性の本質的平等を規定した新憲法をうけ、 夫婦関係よりも親子関係を優位においていた旧来の家父長的・封建的家族形態を廃絶し、 平等な夫婦関係を基礎とする近代的家族制度を創出しようとしていた。 家父長が絶対権をもって家族を支配する家族制度と家父長的家族関係こそは、絶対主義的天皇制のイデオロギーたる家族国家観をささえる社会的基礎であった。 だからこそ、憲法をめぐる国体論争は、家族制度論争にも発展し、貴族院議員澤田牛麿は、旧来の家族制度を「民間的国体」とよび、 新しい家族制度を創出しようとする新憲法の規定を「国体破壊の橋頭堡」と非難したのであった。 新憲法と民法改正案が相まって「民間的国体」としての旧家族制度を崩壊にみちびき、 「国体破壊の橋頭堡」を構築することはあきらかであった。
引用三月五日、イギリスの前首相チャーチルは、アメリカのミズーリ州フルトンで演説し、 「バルト海のステッセンからアドリア海のトリエステまで、大陸を縦断して鉄のカーテンがおろされている」と強調した。 チャーチルが演説するとき、演壇にはトルーマン大統領もならんでいた。 スターリンは、チャーチルの演説をもって「連合国のなかに不和の種をまき、 その協調をさまたげようとする危険な行動」とみなし、チャーチルはいまや「好戦主義者」の代弁をつとめていると非難した。
石橋蔵相のインフレ政策
引用経済情勢は、インフレーションの新たな高進から、さらに悪化していた。 吉田内閣は、軍需補償の打切りを決定したが、蔵相石橋湛山は、生産の再開と資本の蓄積を財政インフレーションによってはかろうとした。 彼は、石炭をはじめとする価格調整補給金の「おもいきった」支出や復興金融金庫の創設と日銀の追加信用による生産資金の積極的な供給を方針とし、 この方針を第九〇議会で承認をうけた一九四六年度予算に具体化した。 インフレーションは、新たな意義をもって再び高進した。 九月一六日、日銀券発行高は六一八億三七〇〇万円に達し、去る二月一八日の旧円最高発行高六一八億二四〇〇万円を突破した。 わずか五〇日で七〇〇億円の大台乗せを示現した。 財政インフレーションは本格化した。
しかし、インフレーションの推進は、石橋蔵相の意図に反して生産の推進とならなかった。 生産は、九月を頂点とし、一〇月から逆に下降に転じた。 過少生産危機という新たな危機がしのびよってきた。 九月の生産水準は、戦前の三〇・四%であったが、一二月には二七・七%に低落する。
国民の生活は、タケノコ生活のうえに新たなインフレーションが蔽いかぶさり、もはや堪えがたいものとなってきた。 一九四六年度産米は六〇〇〇万石の豊作を予想されていたが、一一月にはまた遅配がはじまった。 警視庁が一一月末現在で一四業種・六二企業についておこなった月収調査は、 当局でさえ「これでは・・・・・・」と同情する結果を示した。
争議は、だからたえるまもなくつづいていた。 産別系の組合が争議をつづけていたばかりでなく、総同盟系の組合も争議にたちあがっていた。 一〇月攻勢を新たな労働攻勢にみちびく新情勢は、総同盟系の組合が攻勢に加わったところからうまれてきた。
農地委員会選挙
引用一二月二〇日、第二次農地改革の実施機関である市町村農地委員会の選挙が全国いっせいにおこなわれた。 農民運動がさかんな地域をのぞけば、選挙にたいする関心は一般的にきわめて低調であった。 地主は、自分たちの存在を否定しようとする農地改革の実施機関に関することだから、ことさらに無関心をよそおっていた。 農業会や市町村当局は、地主の意向を反映し、選挙の啓蒙と指導に消極的であった。 小作農は、農地委員が任期一年の「名誉職」だし、仕事を放りだしてまで地主の旦那にタテついてにくまれ役にまわる必要もあるまいと無関心であった。 自作農は、自分の土地には変化がないと第三者的立場で傍観していた。 スキをねらった地主は、表面は無関心をよそおいながらも、裏面では農民組合の組織力に対抗して積極的な攻勢をはかり、 農地委員会を自分たちの支配下におこうと画策した。 農業会や市町村当局が啓蒙と指導を怠り、小作農と自作農に無関心なものが多かったから、選挙には無競争が多かった。 小作および自作の各委員選出は、六割が無競争に終り、地主の委員選出にいたっては、八割が無競争であった。 無競争状態は、農民運動のさかんな地区にもみられた。 これらの地区で選挙の主導権をにぎった農民組合は、各層の代表を説得して候補者をすいせん候補にしぼることに成功した。 しかし、無競争の圧倒的部分は、地主が伝来の支配力に物いわせながら村会や部落会を利用して候補者を一方的に選んだり、 旧来の秩序と農民の無関心を利用しつつ村役場や農業会の名において自分たちが選んだものを候補者としておしつけた結果であり、 地主が小作農の立候補者を買収してしりぞけた例もあった。 かくして地主攻勢のなかで選挙はおこなわれ、 農地委員会は成立したが、委員会の会長もまた地主が圧倒的であった。 小作農の会長は約四分の一にすぎず、地主の会長が多数を占めた府県の数は三〇にのぼった。
吉田内閣@の社会党連立工作
引用労働者の生活水準を犠牲にした傾斜生産による危機突破をはかるためには、 社会党の協力が絶対の必要であった。 吉田内閣が電産争議を政治問題化するという不手際を演じたときから、 何とか内閣の政治力を補強しなければならないとかんがえだしていた次官たちは、吉田首相に会見を申しこみ、 農林次官の楠見義男や商工次官の奥田新三が先頭にたって「こんな様子ではどうなるかわかりません。 社会党を抱きなさい。社会党をいれて内閣を補強しないかぎり、これではとてもやっていけるものじゃありません」と切言していた。 社会党をだきこむためには、右派だけでなく、左派にもねらいをつける必要があった。 もし左派をかかえこむことができれば、民主戦線にクサビをうちこむことができるであろう。
吉田首相は、和田農相に左派との交渉をうけもたせた。 右派との交渉は、自分自身でおこなった。
引用吉田首相は、元日、ラジオ放送において「経済危機を醸成せしめつつある現状」を憂えながら、 「この悲しむべき経済状況を利用し、政争の目的のためにいたずらに経済危機を絶叫し、ただ社会不安を増進せしめ、 生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のための挙国一致を破らんとするがごときものあるにおいては、私は、 わが国民の愛国心に訴えて、彼らの行動を排撃せざるをえないのであります」とさけび、 「しかれども、私はかかる不逞の輩がわが国民中に多数あるものとは信じませぬ」とのべた。 吉田首相が「不逞の輩」とよんだとき、それがゼネストに突進しつつある労働者をさしていることはあきらかであった。 三日の『朝日新聞』は、吉田首相の発言は「言語道断」であり、 「不逞」という表現は敗戦前の日本において一定の政治的意義をおびて使用されてきたもので、 「それは、特権階級が政治的弾圧をおこなうにあたって、 おのれを正しとし他を不逞としていっさいの批判をゆるさない絶対主義的天皇制のもとにおける独特のことばであった」と痛論した。 吉田首相の発言は、大衆闘争の指導者を憤激させたばかりでなく、これまで比較的意識のひくかった大衆をも反政府行動にかりたてた。
公職追放強化
引用一月四日、吉田内閣は、いままで制定してきた追放関係の法令を総まとめにし、 かつ追放の適用範囲を地方政界・言論界および経済界に拡大した。 追放該当者のとりしまりも強化され、追放該当者の三親等内の親族(一親等は父母と子、二親等は祖父母・兄弟姉妹・孫、 三親等は曾祖父母・伯叔父母・甥姪・曾孫)および配偶者は、該当の指定があった日から一〇年間、当該公職につくことを禁止され、 該当者が身代りをたてて自分の支配力をのこす方法が絶たれた。 追放該当者は、退職当時の勤務先である官公署・会社・団体などの執務場所に出入することを禁止され、 事実上の影響力をのこす道を絶たれた。
マーカット
引用経済科学局長は、一九四五年一二月の発令で初代局長のクレーマーと交代したマーカットであった。 彼は、クレーマーがニューヨークにある繊維品の製造販売会社重役という財界人であったのにたいし、前線の砲兵少将であった。 太平洋戦争中にマニラやバターン半島で高射砲隊長として活躍したマーカット少将は、 マッカーサー麾下の随一の猛将とうたわれた。 彼は、前線の将校としてマッカーサーから特殊の信任をかちえていた。 ウィロビーは諜報将校であり、ホィットニーは弁護士出身であった。 こういう彼らと比較すれば、前線の将校であるマーカットが軍人マッカーサーの特殊の信任を得るのは、むしろ当然であった。 マーカットは、怒りっぽいことでも、派手に怒ることでも、有名であった。 顔を真赤にするのはもちろんだが、ひたいの皮はピクピクうごき、あたまの髪の毛まで逆立つほどであった。 それだけにまた根は単純で、正直で単純な軍人という定評であった。
2・1ゼネスト前夜
引用民主戦線は挫折し、社会党は連立に手をさしのべていたが、共産党の指導は、闘争を激発の方向にもりあげていった。 共産党の宣伝をうけて明日にも民主人民政府がうまれるであろうと確信した労働者大衆は、大量に入党しつつあった。 「一月二六日党員」とか「一月二七日党員」とかいう呼び名がうまれるほど、入党は大量であった。 入党する労働者大衆は、占領軍は弾圧しないと確信しており、それゆえに入党することに何の心理的わだかまりをもつことがなかった。 解放軍規定および解放軍規定を前提とする平和革命論は、多くの労働者を共産党にむかえいれ、 共産党の勢力を労働者大衆のうえに拡大することを可能にした心理的・イデオロギー的条件であった。
ゼネスト中止声明
引用共闘の拡大会議は、まだつづけられていた。 そこへ総司令部からの使者が伊井議長に面会をもとめ、議長および共闘傘下組合の委員長にたいする経済科学局長マーカットの出頭命令をつたえてきた。 拡大会議は一時中止し、伊井議長以下八名の委員長は総司令部に出頭した。
総司令部との会見は、前日までは全員そろってしていたが、今日は一人ずつ別室によばれた。 マーカットは、激怒してテーブルをたたきながら正式の中止命令をいいわたし、命令の趣旨を電話で各本部へつたえるよう命じた。 伊井議長と全逓委員長土橋一吉および国鉄総連合委員長鈴木清一は、さらに次室にみちびかれ、 総司令部の幹部が数人いる前でラジオ放送の原稿起草を申しわたされた。
【中略】
総司令部で放送原稿を起草させられた伊井議長と土橋・鈴木の両委員長は、ジープでNHKにおくりとどけられた。 伊井は、まだゼネストを中止することが正しいかどうかについて迷っていた。 迷いながら放送室にむかってせまい廊下をあるいていると、バッタリと徳田球一にでくわした。 徳田は、「ストはやめると放送しなくてはダメですよ」とおとなしく一言のこして神出鬼没のように姿を消していった。 伊井は、このときはじめてゼネストを中止するのが正しいのかと意を決した。 午後九時二〇分、彼は「断腸の思いで」ゼネストの中止を全国の労働組合につたえた。 つづく両委員長の放送は、一〇時〇四分に終った。
占領初期の管理貿易
引用日本政府にあって貿易をあつかう一元的な機関は貿易庁であるが、貿易庁が国内からあつめて総司令部にわたした輸出品は、 大部分がアメリカにおくられて合衆国商事会社(USCC)の手で販売され、一部は総司令部みずからの手でアジア地域におくられていた。 両者の売上総額は、一九四六年末までで五八二六万ドルであった。 この売上を資金の一部として日本は主としてアメリカから食糧や綿花を輸入するのだが、アメリカからの輸入額は、 一九四六年末までに二億四五九七万ドルであった。 輸出の五八二六万ドルは、輸出品の総額ではなく現に売って回収した金額だが、この輸出の回収額と輸入額を比較すれば、 バランスは一億八七七一万ドルの赤字であった。 概略をいえば、この赤字が援助分となるのであり、アメリカ国民の税負担でまかなわれるのだが、しかし、これは、 アメリカ国民の犠牲において無償で日本にあたえられているのではなかった。
ヨーロッパ統合への第一歩、モネ・プラン
引用モネは、一九四六年一一月、フランス復興のために「モネ・プラン」とよばれた復興計画案を作成し、 フランス経済の復興に指導的役割を演じた。 彼は、フランス経済を復興させるためには、一億六〇〇〇万人の共同市場をもつアメリカ合衆国に学んでヨーロッパ合衆国を形成しなければならないと強調した。 モネの主張は、対ソ防壁として西欧経済の統合をとなえるダレスの主張と交合した。 ダレスとモネのコンビは、西ドイツのアデナウアー首相を加えてやがてシューマン・プランの独仏鉄鋼共同体をうみ、 さらにEEC(ヨーロッパ共同市場)をうみだしてゆくであろう。
引用国務長官マーシャルは、六月五日、ハーバード大学における演説で「世界情勢が甚だ重大であること」を強調し、 ヨーロッパが「経済的・政治的破局に当面する」危機にあることを指摘し、 「ヨーロッパの人々に自国およびヨーロッパ全体の経済的将来性にたいする自信をふたたびもたせる」必要を力説した。 彼は、ヨーロッパの危機を救うためにアメリカが援助をおこなうことを約束したが、 この援助の目的が「自由な諸制度・機構が存続できるような政治的・社会的情勢をつくりだす能動的な経済体制を世界に復活すること」だというとき、 彼が共産主義との対決を意図していることはあきらかであった。
国家安全保障法
引用国家安全保障法は、陸海空の三省を統轄するために国防省をおき、大統領に直属する国家安全保障の機関として 国家安全保障会議と国家安全保障資源委員会を設けた。 後者は、産業動員について大統領に助言する機関であり、前者は、 外交政策と軍事政策との統合ならびに政府各機関における国家安全保障機能の統一調整について大統領に助言する機関である。 国家安全保障会議の下には、中央情報局(CIA)がおかれている。 CIAは、国家安全保障のための情報提供を任務としていたが、 やがて冷戦のなかで世界各地に反革命(反社会主義革命と反民族独立)を組織する機関ともなる。
片山内閣炭鉱国管法案国会提出
引用片山内閣は、九月一八日、三党妥協案にもとづく国管法案を決定した。 マッカーサーは、国管法案の国会提出に許可をもとめてきた片山首相にたいし、 「従来私企業に属していた責任を政府が暫定的に負おうとするこの緊急措置を国会が採択したならば、 政府はさきに決定した生産目標を改訂して、この法律によって新たに付加された能力に相応する水準にまでこれをひきあげねばならぬ」と要求し、 交替制の採用による二四時間作業制の確立ほか五項目の増産手段を指示した。 片山内閣は、二五日、国管法案を第一国会に提出した。 水谷商工相は、「労務者本位の案にするか、企業本位の案にするか、いろいろもめたが、その中間に線をひく今の案にきまった」と釈明し、 「政府の意図は、観念的な機構いじりでなく、あくまで刻下の増産要請に応じる態勢を目途とした」と説明した。 社会党本来の主張は、すでにほとんど放棄されていた。
自由党は、国管法案の国会提出を阻止できなかったいま、第二段の作戦として国会審議のひきのばしによる審議未了をねらうことにした。 民主党は、法案をさらに民主党案でぬりかえようとした。 いずれの場合にも、国会における多数派工作が必要であった。 炭鉱資本家は、さらに多数派工作のために莫大な資金を提供した。
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