「戦後日本政治史V」
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書籍: B6単行本(372ページ)
目次: 第七章 民主主義の危機
第八章 民主化の帰結
第九章 アジアの革命と日本
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朝鮮半島の分断
引用日本帝国主義の崩壊からふたたび独立する日をむかえた朝鮮の人民は、すぐに自治機関として人民委員会を各地に組織し、 京城の呂運亨と安在鴻は、建国準備委員会を結成して中央政府の樹立にとりかかった。 呂運亨は、建国準備委員会を朝鮮人民共和国に発展させようとし、一九四五年九月六日に朝鮮人民大会を召集した。 大会は、建国準備委員会の解消と朝鮮人民共和国の樹立を決定した。
日本軍隊を武装解除するという任務をおびて九月八日に朝鮮に上陸した米軍は、 日本軍を駆逐しつつ南下していたソ連軍と三八度線を境に占領地を分割した。 朝鮮の米軍は、極東軍司令官としてのマッカーサーの指揮下にあり、朝鮮軍司令官はホッジ中将であった。
朝鮮人民共和国は、一〇月七日に正式に成立を宣言した。 しかし、米軍は、一〇日、朝鮮人民共和国の独立をゆるせぬと宣言した。 一六日、李承晩が三三年の亡命生活を了えてアメリカから帰国した。 米軍は、李承晩を中心に独立朝鮮の政府をつくりあげようと画策した。
東宝争議
引用東宝(東宝株式会社)は、松竹・大映とならぶ映画演劇の会社であり、すでに一九四六年秋に五十余日にわたる大争議を経験していた。 この大争議のなかで組合は分裂し、過半数の第一組合は産別傘下の日本映画演劇労働組合(日映演)に加盟し、 少数の第二組合は中立の全国映画演劇労働組合(全映演)に加盟した。 組合の分裂をかけた一九四六年の大争議は、当時各方面から注目されたほどの民主的な団体協約をもたらし、経営合理化の成果は、 翌一九四七年に東宝撮影所から戦後日本映画の最優秀作品と賞讃された数編の作品を生みだした。 しかし、四七年の後半期から、東宝の採算はにわかに不振となった。 最大の原因は、インフレーションによる生産費の高騰と高率入場税にあった。 一九四七年八月から四八年一月までの赤字は、資本金四〇〇〇万円にたいして七〇〇〇万円にのぼった。 そのうえさらに東宝は集中排除法の適用をうけ、会社の映画の製作および配給と映画・演劇の興業という三部門に分割しなければならなくなった。 企業の再建は必至となり、会社と組合は再建の方法をめぐって対立した。 会社は、まず重役陣を更迭し、一九四七年末に渡辺銕蔵を社長のイスに招き、 ついで労務担当重役と撮影所長に中労委第一部長の馬淵威雄と元安本第四部長の北岡寿逸をそれぞれむかえいれ、 組合に対抗する強力な陣容を形成した。 渡辺社長は、一九四八年四月八日、まず最も強力な第一撮影所分会にたいして二七〇名の馘首を通告した。 組合は抵抗し、東宝は争議に突入した。 会社は、さらに第二次・第三次の馘首通告を発した。
引用第一国会の隠退蔵物資等に関する特別委員会についで第二国会が設けた不当財産取引調査特別委員会は、 戦後の復興過程における財界と政界の腐敗面をつぎつぎに暴露していた。 総司令部のGSは、二つの特別委員会にすくなからず声援をおくっていた。 というのも、二つの特別委員会が民自党の前身たる自由党の旧悪を暴露し、中道政権を強化するとかんがえたからであった。 民自党は、不当財産取引調査特別委員会において与党の旧悪を暴露しかえそうと血眼になっていた。
あたかも五月二六日、委員会の喚問をうけた鉄道工業株式会社専務の飯田清太は、前年の四月選挙のさいに 土建業者が自由・民主・社会の三党に献金し、社会党にたいしては西尾書記長に「党書記長西尾とかんがえて渡しました」と証言した。 西尾は、しかし、勅令一〇一号によっても、政令第三二八号によっても、土建業者からうけとった五〇万円を届けでていなかった。 民自党は小躍りした。 六月一日、委員会は西尾を喚問した。 西尾は、「党の書記長である西尾個人」としてうけとったのだと弁明した。 西尾の証言は政令第三二八号に違反するとの疑惑が濃くなり、西尾問題は政治問題化した。
最高検察庁は、六月九日、西尾の行動は政令違反に該当すると結論し、翌一〇日、福井検事総長は、 芦田首相にたいし西尾を起訴することについて同意をもとめた。 しかし、社会党の中央執行委員会は、献金は西尾個人のものとすると結論した。 一一日、社会党の左派は、西尾の責任を追及して閣僚辞任を勧告しつつ、粛党の運動を起した。 運動の署名者は、一二月に六三名に達した。 不当財委の民自党委員で弁護士出身の鍛冶良作は、委員一三名の名をつらねて西尾を偽証の罪で東京地検に告発した。 一四日、片山委員長は、西尾に辞任を要求した。 しかし、西尾は拒否した。 二四日、野党は国会に西尾不信任案を提出した。 片山委員長は、粛党派に「委員長の責任処理」を約束し、粛党派は、片山委員長の約束を「早急に辞任せしめることの確約」としてうけとり、 不信任案に反対することとした。 与党は、不信任案を一七八対二〇九で葬った。 二八日、粛党派は片山委員長に確約の実行を要求した。 いかな西尾も職にとどまっていることができなくなり、第二国会が七月五日に閉会した翌六日、芦田内閣の国務相を辞任し、 さらに翌七日、社会党の中央執行委員を辞任した。 おなじ日、東京地検は西尾を政令違反と偽証で起訴した。
徳田書記長暗殺未遂事件
引用一九日、日本共産党の書記長徳田球一が佐賀市公会堂で演説中、聴衆席から手製の手りゅう弾を投げつけられ、 全身に三八ヵ所という傷をうけた。 徳田は、数分のあいだ控室に避難してから演説をつづけ、終って治療をうけたが、軽傷であった。 犯人は、まもなく佐賀市警察署に自首したが、志賀一郎とよぶ二八歳の青年であり、 佐賀県東松浦郡にある大鶴炭鉱の炭鉱夫で日本反共連盟大鶴青年宣伝部に所属する右翼であった。 日本反共連盟は、前年から活動を開始していたが、前年一一月に結成された大鶴青年部は、連盟のなかでも最も活動的な組織であり、 平素はもっぱらストライキ破りや反組合活動に従事していた。 志賀は、「今年のメーデーのとき徳田球一・志賀義雄・紺野与次郎の暗殺を計画したが、旅費がなくてできなかった」と語っており、 徳田の狙撃は、十分に用意した計画であった。 大鶴青年部は、八月一四日に解散を命じられたが、反共連盟そのものは、なお存在をゆるされていた。 しかし、一九五一年一〇月に追放を解かれる赤尾敏が指導者となって名称を大日本愛国党とあらためるまでは、めだった活動は何もしなかった。
引用政令二〇一号は、公務員は、「同盟罷業・怠業的行為の脅威を裏づけとする拘束的性質をおびたいわゆる団体交渉権を有しない」とし、 したがって現におこなわれている国または地方公共団体を関係当事者とする「すべての斡旋・調停または仲裁に関する手続は中止させる」と宣言した。 公務員のために残されるものは、「この政令の制限内において個別的に、または団体的に、その代表を通じて苦情・意見・希望または不満を表明し、 かつこれについて十分な話合をなし、証拠を提出することができる」ということだけであった。 公務員の給与は、従来は、内閣の給与対策部で原案をつくり、 官公庁労働組合と政府との団体交渉で決定し、決定しないときは中央労働委員会の裁定により、最後には双方の妥協によってきめられていたが、 今後は、公務員が団体交渉権と罷業権をうしなうため、給与原案をつくる任務は臨時人事委員会にゆだねられることとなった。 政令二〇一号は、「以後、臨時人事委員会は、公務員の利益を保証する責任を有する機関となる」と規定した。
引用昭電事件の捜査と取調は、事件とからむ総司令部要人の姿を浮びあがらせた。 GSの局長ケーディスは、元子爵鳥尾啓光夫人鶴代(のち多江と改名)との艶聞をうたわれていた。 日野原は、新橋の芸者秀駒をひかして杉並区和泉町の妾宅にかこっていたが、秀駒は、 鳥尾夫人が経営する銀座のスミレ洋裁店の常連であった。 日野原は、鳥尾夫人の手引でGSの要人を杉並の妾宅にまねき、ありとあらゆる饗応で彼らの歓心を買っていた。 彼らにたいする工作のために日野原がつかった金額は、二五〇〇万円をこえたといわれた。 もし日野原が社長のイスにすわった一年間に費消した機密費の額をあげるならば、復金の第一次融資七億九〇〇〇万円にたいして一五〇〇万円、 第二次融資五億五〇〇〇万円にたいして三五〇〇万円、第三次融資七億五〇〇〇万円にたいして三五〇〇万円という巨額であり、 行方不明の額は三億五〇〇〇万円であった。
総司令部にまでくいこんだ日野原社長の行動は、復金融資の工作がいかに大がかりなものであったかをあきらかにしていた。 しかし、昭電事件と総司令部の関係は、GSとG2の年末の対立がからむことにより、いっそう複雑な様相を呈していた。
【中略】
昭和電工と総司令部の関係は、前社長森暁の時代にさかのぼっていた。 森は、G2との接触が多かった。日野原社長は、GSに接近した。
G2は、早くから、ケーディスを陥れることによってGSに打撃を加えようと画策していた。 のちに警視総監となり国警長官となる斎藤昇が山梨県知事から内務次官に転任したときというから、まだ前年も二月のころ、 総司令部の関係部局にあいさつにいった斎藤をつかまえたケーディスは、 「どうも最近警視庁の警察官がわれわれ駐留軍人の女友達やその身辺をしらべている風評がある」といって警告した。 斎藤は、「進駐軍物資を日本の婦人のもとにはこぶ将校がいるという投書にもとづいて、 その事実と証拠をかためるためのものだったが、その結果は違法でないことがわかったので、 捜索は打切った」とケーディスに報告してごまかしたが、よくしらべた結果、 内務省の調査局長が警視庁の警務部長に依頼してしらべさせていたことがわかった。 依頼のそもそもの出所は、G2に多くの友人をもっている当時の吉田内閣の某要人であり、 彼がG2といっしょになってケーディスを日本から追い払おうという策謀であった。 G2によるケーディス追放の策謀は、だから昨日にはじまった話ではなかったが、昭電事件があかるみにではじめたそのとき、 G2の策謀はいっそう執拗になった。 斎藤は、すでに警視総監になっていたが、G2は、刑事部長の藤田次郎をつかってケーディスを尾行させた。 ケーディスは斎藤に抗議し、斎藤は藤田を皇宮警察にうつしてケーディスの怒りをおさえた。
ケーディスは、昭電事件の飛火が自分にかかってくることをおそれた。 アメリカ新聞の特派員は、しきりに昭電事件に総司令部の要人が関係しているという記事を本国に送っていた。 斎藤昇は、新警察制度の発足とともに国警長官となっていたが、九月二〇日、総司令部公安課からよびだしをうけた。 公安課は、斎藤に「昭電事件の捜査をすみやかに停止して国警にうつすべし」と命令し、 警視庁の捜査がことごとく外部にもれていることを非難した。 斎藤は、国警には捜査の権限がないと答えたが、なお「GSの意見も再考してもらいたい」といって辞去した。 翌日、ケーディスが斎藤をよびつけ、同様の要求をしながら、国警が昭電事件の捜査をすることについて国内で異論をとなえるものがあっても、 総司令部はあらゆる部局をあげて支援するであろう、とつけ加えた。 斎藤は、「総司令部がいかに日本の各機関に圧力を加えても、裁判官に圧力を加えることはできないであろう」と答え、 「私の見解によれば、違法な捜査をおこなわせたということにより、この事件は法廷において支離滅裂となるであろう」と主張し、 「貴官のほうで法的に正しいとかんがえるなら、もういちど総司令部の法務局の責任ある意見をきかしてもらいたい」と希望して帰ってきた。 翌日、総司令部法務局の意見は斎藤と同じであるということになり、国警には捜査の権限がないということを総司令部自身がみとめたため、 ケーディスの圧力は無に帰した。
【中略】
昭電事件を追求する捜査陣は、九月に入って事件の核心にせまってきた。
国共内戦、決着へ
引用中国の革命は、一九四八年の秋に満州において飛躍した。 九月半ばから秋季攻勢を開始した人民解放軍は、満州に攻撃を集中した。 破竹の人民解放軍は、一〇月一四日には満州回廊の要衝錦江をおとしいれ、一九日には長春を占領し、 三〇日には満州における国民政府の首都瀋陽(奉天)に無血入城した。 一一月、共産党の中央委員会は、「当初には、国民政府を打倒するためには一九四六年七月からはじめて約五年はかかるだろうと推定していたが、 現在では、もう一年あればよいとの見通しがつけられるにいたった」と声明した。 国民政府は、あらゆる方便をつくしてアメリカに援助を要請した。
革命情勢の急転から中国政策の再検討に着手していたマーシャル国務長官は、「われわれの中国援助計画は、 中国政府に息抜きの時間をあたえ、経済復興の土台をおく骨組みをつくるのに必要な、 またその存立のためにぜひとも必要な政策に着手させるのが目的であった」が、「現在の情勢では、 アメリカが軍事援助あるいは経済援助をどれだけあたえても、現在の中国政府が中国全土にたいする支配権をとりもどし、 これを維持することはありそうにもない」と判断し、 「中国政府の根本的な弱点が外国の援助によって根本からあらためられるとは思えない」と結論した。 彼は、「中国の情勢はあきらかに非常な流転と混乱の時期に入ろうとしており、将来起ることを前もって明確にみぬくことは不可能であるから、 アメリカ政府はあきらかに最大限の行動の自由を保持しなければならない」とし、しばらく「チリがおさまるのをまつ」政策をとることにした。
引用蔵相泉山三六は、一三日、参議院の食堂で酔いつぶれたあげく、民主党の婦人議員山下春江にセップンしようとしてはねつけられ、 本会議の答弁にもたてないという前代未聞の醜態を演じた。 彼は、翌一四年の未明、議員と蔵相を辞職した。 吉田首相は、蔵相を大屋商工相の兼任とし、安本長官を周東農相の兼任とした。
GHQ、経済安定9原則を指令
引用アメリカは、日本を日本の政府と財界にまかせておくことはできないと判断した。 ワシントン政府は、マッカーサーにたいし日本復興のための九原則を日本政府に命令するよう指示した。 一二月一八日、総司令部は、九原則の指令を日本政府に伝達した。 かつて芦田内閣のとき、総司令部は一〇原則を示唆し、間接に芦田内閣の政策として声明させた。 いま総司令部は、九原則をワシントン政府の指令として吉田内閣に指示し、直接にアメリカの要求として日本政府へ実行をせまった。 アメリカの決意は、日本の政府と財界の無力に触発されて峻烈であった。
九原則の指令は、(一)財政の支出を厳重にひきしめ、そのほか必要とみとめられる思いきった措置をとり、 これによって一日もはやく総合予算の真の均衡をはかり、(二)収税計画を促進強化し、 脱税者にたいしては迅速かつ広範囲にわたって徹底的刑事訴追措置をとり、 (三)金融機関からの融資は日本の経済回復に貢献する諸事業にだけあたえるよう厳重に限定し、 (四)賃金安定を実現するための効果的計画を作成し、(五)現行の各統制計画を強化し、必要があればその範囲を拡張し、 (六)外国貿易管理の操作を改善し、かつ現行外国為替管理を強化し、これらの措置を適切に日本側機関に移譲することができる程度にまでおこない、 (七)現行の割当ならびに配給制度を、とくに輸出貿易を最大限に振興することを目的として改善し、 (八)すべての重要国産原料ならびに工業製品の生産を増大し、(九)食糧供出計画の比率を向上するよう要求し、 「以上の計画は、すみやかに単一為替交換比率を決定できる諸条件を確保することを目標として推進されるものである」とむすんだ。
台湾の戦後
引用中国が台湾を日本の手から接収したのは、 一九四五年一〇月二五日であった。 台湾の中国への帰属は、最終的には対日講和条約で決定されるが、蒋介石は、台湾を省とし、陳儀を主席に任命した。 日本帝国主義の支配から解放された台湾人は、中国への帰属を望んだが、同時に台湾の自治をつよく要望していた。 しかし、陳儀は、子飼いの部下をひつきれて台湾にわたり、重要な地位から台湾人を追いだし、傍若無人に台湾人から収奪した。 台湾人は、「犬が去り、豚がやってきた」とささやきあった。 陳儀は、背がひくく、太っていた。 彼の支配にたいする台湾人の反感は、一九四七年二月二八日に爆発し、暴動に激発した。 蒋介石は、援軍を派遣し、 かつて日中戦争の一九三八年に日本軍が南京を占領したときにおこなった大虐殺をもこえるといわれるほどの暴虐をもって暴動を鎮圧した。 しかし、同時に陳儀を罷免し、五月、駐米大使の経歴をもつ文官の魏道明を後任に推した。 台湾人は、アメリカの保護と国連の信託統治を要求するようになり、さらには日本への復帰を望むものさえあらわれてきた。
考査特別委員会設置
引用アメリカの議会は、非米活動調査委員会を設けて共産党の活動を追及していた。 総司令部は、すでに前年から非米活動調査委員会に類した非日活動調査委員会を日本の国会に設けさせたいとかんがえていた。 吉田首相は、政治献金問題をとりあげて政界浄化に大きな役割を果してきた不当財産取引調査特別委員会を廃止し、 そのかわりに非日活動調査委員会を設けたいとかんがえた。 しかし、内外の世論は、不当財委の廃止と非日活動委の設置に反対した。 吉田首相は、両者の機能をあわせもった考査特別委員会の設置を計画した。 民自党は、三月二九日、考査特別委員会設置に関する決議案を衆議院に提出した。 民主党の両派は賛成したが、社労共の三党は反対し、不当財委の存続を要求する共同修正案を提出した。 しかし、民自党と民主両派は多数でおしきり、四月から考査特別委を発足させることにした。 考査委は、不当財委が調査していた事項のほか、「不正に租税の賦課を負わせ納税を妨害するなど納税意欲を低下させる行為、 供出を阻害する行為、不法に労働争議を誘発させる行為、その他の諸行為で日本再建に重大な悪影響をあたえたもの」の責任を 調査することを任務としており、 不当財委の考査委への改組が九原則の実施をめぐる妨害の排除を目的としていることをあきらかにした。 考査委は、同時に「日本再建のために多大な貢献をした諸行為を調査する」ことをあわせてかかげて本来の任務をカモフラージュしようとしたが、 誰もが考査委の本質をみぬいていたから、これはカモフラージュにならなかった。
マッコイ声明
引用五月一二日、極東委員会におけるアメリカの代表マッコイは、中間賠償撤去中止の声明を極東委員会一二ヵ国にたいして通告した。 彼は、前年のストライク報告書とジョンストン報告書によって「日本自立経済の需要量は累進的に引上げることの必要があきらかになった」と指摘し、 「今後の賠償撤去の負担は、日本経済の自立と安定という占領目的を阻害する」と強調し、 「以上の結論にかんがみ、アメリカ政府は一九四七年四月四日の中間指令を取消し、 この指令によって実行にうつされた賠償の前渡計画を停止するのやむなきにいたった」と声明した。
マッコイの声明は、とくにフィリピンと中国をおどろかせた。 極東委員会におけるフィリピンの代表ロムロは、五月一九日と六月二六日の二回にわたって反対声明を発し、 マッコイ声明は「東京における歓喜とマニラにおける驚愕となってあらわれた」といいながら、 それが「ポツダム宣言をはじめとして賠償に関して決定した諸原則を無視する」ことを指摘し、 「軍事力は工業力に随伴するものであるから、日本を『アジアの工場』とすることは、 将来日本が陸海軍を要求することである」と警告し、「かくもすみやかに真珠湾・コレヒドール・バターンをわすれることのできるのは アメリカ人民の大きな長所であるが、日本人民が同様に広島と長崎とに落とされた二つの原子力爆弾をわすれるとかんがえるであろうか」と詰問し、 さらにマッコイ声明は「フィリピン共和国の平時経済復興計画を危くするものである」と強調した。 中国の李維果は、マッコイ声明は「アメリカもその当事者である一連の国際協定や政策決定に矛盾するものであり、 日本から侵略をうけた諸国にたいする公正を欠くものである」と指摘し、アメリカは日本を民主化したが、 「現世代の日本人が教えこまれてきた信仰と栄誉とを三年半ばかりの改革によって完全にくつがえすことはできるはずがない」のであり、 「今日の日本人は、新しい言葉、新しいジェスチュア、新しいスローガンを用いているが、 結局は彼らの祖先とほとんどおなじものになるかもしれない」と疑惧し、 「日本の軍国的再興にたいする確実な保証ない以上は、中国人としては日本の問題にたいして現実的な解決に訴えざるをえないのである」と強調した。
引用一五日の新聞は、一三日の午後九時三〇分、奥羽線弘前機関区の一運転手が機関区内に二つの人影をみとめたので「だれか?」とたずねたところ、 いきなりけりたおされ、棒のようなもので頭と腰をめったうちにきれた、というニュースを掲載した。 急報で助役や警官がかけつけてしらべたところ、「機関車は安全弁をはずされていて、 数分後に自然発車して一八メートル先の転車台にゆくと転覆するようになっていた」というのだ。
あたかも三鷹事件をおもわせるようなこのニュースが朝の新聞で配達された日の夜九時二四分、 中央線の三鷹駅でほんものの三鷹事件が勃発した。 突然走りだした無人電車は、民家に突入し、市民のなかから六名の死者と七名の重傷者をだした。 検察当局は、ただちに事件を共産党のしわざときめ、一七日午後五時〇七分、 去る六月の国電ストで免職処分をうけていた飯田七三と山本久一を逮捕した。 二人とも共産党員だった。
吉田首相は、二人の逮捕と間髪をいれず、午後五時三〇分に長文の声明を発した。 彼は、「政府職員の今回の大掛りな整理がもたらした社会不安」は、職を失う人たちの危惧や動揺にもよることだが、 同時に「主として共産主義者の煽動」からくる「一部労働組合の険悪な気配や無節制な挑戦的態度によって醸発」されていると指摘し、 外国筋では「日本では極右・極左の両派のあいだに天下分け目の合戦がおこなわれている」などといっているようだが、 なるほど極左というのが共産主義とその同調者のことなら、これはたしかに日本にもあるが、 「しかし『極右』というものはもはや実在しない」し、「われわれ保守党人は極右ではない」と強調し、 「われわれは、極右にも、極左にも、どちらの極端な思想にも反対するという意味で保守主義者である」と主張した。
検察当局は、なお逮捕をつづけた。 そして九名の共産党員と一名の非党員(三鷹電車区検査掛竹内景助)を主役にしたてて「空中楼閣」をきずきあげた。
三怪事件の意義
引用行政整理と企業整備をほとんど何の抵抗もなく成功させたものは、吉田内閣の政治力でもなく、財界の組織力でもなく、 いわんや労働者の納得でもなく、七月四日のマッカーサー声明と下山事件から三鷹事件を経て松川事件にいたる一連の ―アメリカのCIAと占領軍が工作したと推理される一連の事件の結果であった。 とくに最初の事件としての下山事件が果した役割は大きかった。 国鉄の加賀山副総裁は、のちに下山「事件を契機に国鉄の大整理も漸次進行して無事終了した」のだから、 「下山総裁の死は徒死ではなかった」し、むしろ「貴重な犠牲であった」と自記し、 東芝の石坂社長は、のちに「ぼくの東芝再建には下山氏の死に負うところが大きい」し、 「同氏の犠牲は、当時の混乱したいろいろの争議〔解決〕に大いに役立った」のだから、 「同氏の死は犬死ではない」と追想し、いちどはぜひ故下山総裁の墓参りをしなければならないとかんがえた。
吉田内閣は、抵抗の挫折に乗じてさらに弾圧を強化した。
シャウプ勧告
引用シャウプ勧告は、日本の税制改革を勧告したが、その目的は、とくに二つあった。 第一は、ドッジ・ラインの実施を税収の面で保障することであり、 第二は、アメリカの資本が入りやすくなるような税制をつくりだすことにあった。
引用アチソン国務長官は、国民政府の「失敗の理由」は国民党の「腐敗」にありとし、 この腐敗によって「彼らはみずから崩壊した」のだと指摘した。 だから、「中国における内戦のいまわしい結果」は、「アメリカ政府の統制の範囲をこえていた」ものであった。 かくして共産党は中国を制圧するであろうが、共産党について希望していた毛沢東チトー化も、中国革命の発展とともに消え失せた。 なぜなら、「彼らが外国勢力、すなわちソ連に屈服することを公然と明言している」からであった。 中国について望みうることは、「近い将来がいかに悲劇的なものであろうとも、 またこの偉大な国民の大部分が外国帝国主義の利益をまもる一党派によっていかに冷酷に搾取されようとも、 最後には中国の深遠な文明と民主主義的な個性主義とが、かならずふたたびみずからを主張し、 そして中国は外国の桎梏を破棄するであろう」ということだけであった。 当面における「われわれの重点」は、「中国の隣邦への攻撃」を「中国の隣邦」において封じこめることであった。 アチソンが封じ込めの拠点として期待したのは、インドと日本であった。
インドシナの戦後
引用インドシナにおける革命(民族独立)を一貫して遂行してきたのは、ホー・チミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)であった。 彼らは、戦争中は日本帝国主義の支配にたいして地下で抵抗をつづけ、戦後は一九四五年九月二日にいちはやくベトナム民主共和国の独立を宣言した。
連合国は、ベトナム民主共和国を承認しようとしなかった。 連合国は、日本軍の手からインドシナを接収するため、インドシナを北緯一六度で折半し、 北半を中国軍の軍事占領にゆだね、南半を東南アジア軍(イギリス)の軍事占領にゆだねた。 インドシナを植民地として支配してきたフランスは、日本軍に駆逐されていたが、やがて復帰し来たり、 まず南半の東南アジア軍と交代し、つづいて北半の中国軍と交代し、一九四六年三月、 全インドシナへの進駐を終ると同時にインドシナの主権をふたたび掌握した。
ベトミンは、進駐するフランス軍にたいしてゲリラ戦を展開した。 フランスは、ベトナム共和国を敵にまわすことの不利をさとり、インドシナにおける主権を回復した一九四六年三月、 ベトナム共和国とベトナムの将来の統治について予備協定を締結した。 しかし、フランスは、インドシナに足場をかためるにしたがって予備協定を反古にしようとし、 一九四六年末、ついにベトナム共和国とフランスは全面衝突をするにいたった。 一九四七年は、戦闘に終始した。 一九四八年、事態を何とか収拾しなければならなくなったフランスは、五月、コーチシナ臨時政府の首相スアン将軍を引出し、 親仏勢力を糾合してベトナム臨時中央政府を組織させた。 六月、フランスは、ベトナム臨時中央政府とベトナム独立協定(アロン湾協定)をむすび、 ベトナム全域(アンナン・トンキン・コーチシナ)をフランス連合のワク内で独立国とすることを承認した。 しかし、スアン将軍は、フランスで教育をうけ、フランス軍の将軍となり、 ベトナム人というよりはフランス人といったほうがいいくらいの人物であったから、 スアン将軍のベトナム臨時中央政府ではベトナム人の支持をうけることが困難であった。 フランスは、バオダイ帝に注目した。 彼は、かつては日本軍と協力し、いちどはベトナム独立のために一平民として協力することを誓ったが、 フランスとベトナム共和国が全面衝突したとき香港からフランスに亡命していた。 フランスは、バオダイ帝がアンナン人のなかに支持をもっているのを利用し、 バオダイ帝を引出して正式政府を組織させることにした。 一九四九年三月、フランスは、あらためてベトナム臨時中央政府とフランス・ベトナム協定を締結し、 フランス連合のワク内でのベトナムの独立を確認した。 バオダイ帝は、四月にフランスから帰還し、六月一四日、ベトナム国の国家主席となり、 七月一日、みずから首相を兼任してベトナム政府を発足させた。
ベトナムをフランス連合のワク内で独立させたフランス・ベトナム協定は、 フランスの国内で不評であった。 共産党はホー・チミン政府の承認を要求し、ド・ゴール派と保守政党はベトナムにたいする譲歩に反対した。 フランス・ベトナム協定は、フランス議会の承認を得ることができなかった。 フランスおよびバオダイ政府にたいするベトミンの攻撃は、年とともに、日とともに激化しており、 一九四九年の暮、インドシナの情勢は危機的状況を呈していた。
日本共産党の内部対立
引用第一八回拡大中央委員会総会は、コミンフォルム批判の「積極的意義」をみとめ、『所感』の撤回を決定した。 しかし、『所感』の処理についての明確な決定と率直な自己批判は、ついになされなかった。 徳田は『所感』を弁護する態度をとりつづけ、『所感』を批判した統制委員会議長宮本賢治を九州に長期出張で遠ざけ、 議長のあとがまには子飼いの椎野悦朗をすえた。 徳田を中心とする指導グループは、「所感派」とよばれた派閥を形成し、 「国際派」とよばれるようになった反対派と対立した。
中ソ友好同盟条約に対する日本の新聞の反応
引用日本の多くの新聞は、なぜ中ソ両国が日本を目標とした同盟条約を締結したか、 あるいは締結しなければならなかったかを反省しようとしなかった。 多くの新聞は、日本の戦力放棄と民主化を事実として示して中ソ条約が目標を誤っていると指摘したが、 アメリカが日本と沖縄を恒久的な基地と使用としているという事実こそ、 中ソ両国を同盟条約に走らせた根本の要因であった。 アメリカの断片的講和政策がいかに日本の将来にたいするアジア・大洋州諸国の警戒を深めさせているかを注視するならば、 日本国民は、中ソ友好同盟条約を偏見なく読むことによって自己のすすみつつある方向を真剣に反省すべきであった。 しかし、多くの新聞は、逆に中ソ両国に非難をあびせることにより、 アメリカに和して日本国民の反ソ感情をあおり、全面講和を促進しようとする中ソ両国の主張を黙殺しつつ、 ひたすらに単独講和の道に日本国民をみちびくことになった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。