「作戦の鬼 小畑敏四郎」
参考書籍
著者: 須山幸雄(すやま・ゆきお)
発行: 芙蓉書房(1983/04/25)
書籍: 単行本(379ページ)
定価: 3000円(?)
目次: 軍閥の原像
昭和軍閥への道
三羽烏の登場と小畑証言
陸軍中将小畑敏四郎
敏四郎の家系と生いたち
鳳雛の日日
空白の滞露日記
欧州大戦の教訓
敢為前進の岡山聯隊
時代の激流のなかで
時勢は急湍のように
在野の智嚢として
敗戦・・・・・・そして終焉
著者あとがき
小畑敏四郎・年譜
補足情報:
小畑将軍の若き日の日記や記録類を読み進むうち、敗戦後、失意のうちに世を去ったこの鬼才の、 孤高の生涯を究めたいと思うようになった。 明治、大正、昭和三代の陸軍史のなかで「作戦の鬼」と謳われた鋭敏な智嚢が、 いかに苦悩し、いかに思索し、いかに行動し、そして何を冀ったかを、 近代日本の流れのなかで再現してみたいと思った。 そしてそれはまた目標を見失い混迷を続ける現代の日本に、一つの指標を与え、 前進の糧になるかも知れぬと思ったからである。(著者あとがき)
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引用明治日本の最大の国難であった日露戦争の際、 明治天皇が最も頼りにされたのは枢府議長伊藤博文であった。 だがその伊藤も明治四十二年十月ニ十六日、ハルピンで朝鮮人のために暗殺されてしまった。 これには明治天皇もつよい衝撃を受けられたと思われるが、『明治天皇紀』(芳川弘文館刊)にはその記述はない。 しかし、その後に示された天皇の思召しの深さを見れば、御愛惜の情がどんなに痛切であったかがよくわかる。 すなわち、軍艦をもって遺骸を東京に護送させ、十一月一日、遺骸が東京に帰ると、 直ちに勅使を遣わして弔問させ、御沙汰書及び誄詞(生前の功績を賛えその死を悼む詞)を霊前に下し、 十一月四日、国葬の礼を以って厚く弔わせられている。 ここまでは非命に斃れた一国の元勲に対しての当然の処置かもしれない。
しかし、五十日祭、百日祭、あるいは一年祭の度に勅使を派し、祭粢料と玉串を下されている。 博文の死後、遺財の乏しいのを聞し召されると、直ちに御内帑金を未亡人梅子に賜い、 養嗣子博邦には公爵を嗣がせ、同じ養子文吉には男爵を授けて遺族のすべてが困窮しないよう 隅々にまで暖かい思召しが及んでいる。 聖恩枯骨に及ぶというが、明治天皇伊藤博文に寄せられた御愛惜の深さがよくわかるのである。
引用大正天皇はどういう機縁で尾崎咢堂のことをお知りになったのか、 ひどく咢堂が御贔屓の様子でお親しみになり、御前に伺候しても引き止めて何かとお話しかけになった。 ある日、御前に出て要務を奏上して退下しようとすると、天皇は急いでお引き止めになり、
尾崎の娘は乗馬を好むと聞いたがほんとうか」
と、お聞きになった。 咢堂の二女雪香はなかなか闊達な娘で、乗馬を殊の外好み、軽井沢の別荘ではしばしば、友人と遠乗りを楽しんでいた。 咢堂は一瞬誰がそのような市井の一些事をお耳に入れただろうといぶかったが、
「はい、さようでございます」
と、恐縮した。
「そうか、では主馬寮の馬を一頭、尾崎に取らせよう、娘を喜ばせてやれ」
と、仰せになった。
「これは望外の喜びでございます。謹んで篤くお礼申し上げ奉ります」
咢堂は深々と頭を下げて退下した。光栄と感激で胸迫る思いであった、と後年述懐していたという。
大正天皇明治天皇の思召しもあり、少年時代から乗馬にしたしまれた。 十七歳頃から毎週三日、侍従武官の御指導で馬術を習われ、天性の馬好きもあって騎兵を凌ぐほど御上達になった。 しぜん馬に対する御眼識も高かった。
まだ皇太子であられた頃、福島県の種馬牧場に行啓されたことがある。 数百頭も群がっている馬の中から、はるか遠方にいる一頭の馬を目にとめられ「あれは良い馬だ」と仰せになった。 その馬を引き寄せて見ると、果して逸物とも称すべき良馬であったので、側近も驚いたという逸話さえある (『三帝聖徳録』二九〇ページ)
このように天性馬好きの大正天皇であられたから、その頃、女性の乗馬はまだ日本では珍しい頃でもあったし、 天皇のお優しいお気持から、尾崎の娘を労ってやろうと思召されたものであろう。 それからしばらく経って、要務のため御前に伺候すると、天皇は、
尾崎、娘は馬を可愛がっているか」
と、仰せになった。
「ハッ、実はまだ御下賜の御沙汰を戴いておりませぬが」
と、恐懼した咢堂のさまを御覧になって、天皇はすぐさま侍従に、どうしてまだ主馬寮で馬を尾崎に下賜しないのか 調べて参れ、とお命じになった。
天皇のお顔色には不快な御表情が浮かんでいた。 侍従はすぐ飛んで行った。やがて主馬頭藤波言忠を伴って御前に現れた。 藤波は明治以来永らく宮中に奉仕した老臣で、生涯の大半を主馬頭で通した屈指の馬通である。 伺候した藤波は深々と頭を下げたが、しかし、はっきりした口調で、
「申し上げます。主馬寮の馬は明治の陛下以来のしきたりで、いかにお上の仰せでも臣下に賜らない事になっております」
と、言上し、「何か他の物でも」とつけ加えた。 天皇は御不満のお心を抑えきれないご様子であったが、お声だけは穏やかに、
「もうよい、下れ」
と、仰せられた。皆の者が退下すると、天皇はお顔をそむけられ、
尾崎、聞いた通りだ、天皇と雖も馬一頭が自由にならぬ」
と、ハラハラと御涙を落された。 咢堂も横暴を極める元老の噂はかねがね聞いていたので、胸につき上げる憂憤の情を抑えかねて、
陛下、微臣はたとえ馬は賜らなくとも、陛下の篤い御診念、御優諚だけで一身の無上の光栄でございます。 今後は微臣の身命を抛って陛下の大御心を安んじ奉る決心でございます」
と、申し上げて御前を退下した。 咢堂は、その後間もなく大隈の挂冠とともに辞し、再び台閣に列する機会に恵まれなかったが、 宮廷の奥深く、孤高の座に在ってひとり懊悩されるお若い大正天皇のお姿を想起する度に、 胸中に熱い鉛の玉を押し込まれるような苦痛を感じたという(元帝室編修官渡辺幾治郎談)。
波多野敬直
引用波多野は戦国時代の勤王家波多野宗高の流れを汲む丹波の豪族波多野一族の出で、 早くから明治政府に出仕して頭角を顕わし、明治三十六年、第一次桂内閣では内閣改造により、 司法総務長官(今の次官)から司法大臣に抜擢された。 日露戦争の後に行われた戦勝行賞によって男爵に列せられ、明治四十四年、東宮大夫となり、 わずか一年余ではあったが、皇太子時代の大正天皇に仕えた。 その私心のない剛直忠誠さを買われて、大正三年、宮内大臣に任ぜられ、それから六年余の長きにわたって在任した。
引用御父大正天皇は既に御思考力減退の傾向が見られ、 東宮妃の選定は貞明皇后の手によって進められていた(主婦の友社刊『貞明皇后』一一五ページ)。 貞明皇后が相談相手にされたのは杉浦重剛で、杉浦は大正三年以来東宮御学問所の御用掛を勤め、 帝王学の眼目である倫理を進講した当代随一の傑物である。 杉浦は数ある上流貴族の少女のなかから、容姿、気品、聡明、健康のいずれにおいても、 一番の適格は久邇宮邦彦王第一女良子女王と進言した。 貞明皇后もも女子学習院に行啓になり、詳細御調査の上、良子女王と決定された。その年の秋、 貞明皇后の御意向も固まり、天皇も御承認になったので、宮内大臣波多野敬直は枢府議長の元老山県有朋をはじめ 内大臣その他の賛成を得て、第十五師団長として豊橋に居られた陸軍中将久邇宮邦彦王をその官舎に訪い、 天皇の御意向を伝えた。邦彦王は暫時の猶余を乞われた。
邦彦王が一番心配されたのは色盲の遺伝のことであった。 王妃俔子は島津忠義の娘であり、その生母の父親が色盲であった事から久邇宮家の王子にも色弱の傾向があったからだ。 早速専門医に命じて調査研究せしめた結果、良子女王は健全で子孫に色盲を遺伝することがないという報告書を 図解入りで説明して提出した。 安心された邦彦王は東宮妃の御内約を謹んでお受けすると伝えられた。
翌大正七年一月十七日宮内省は「久邇宮良子女王を東宮妃に冊立の内約が成立した」と発表し、 三月に入って裕仁親王と良子女王が許婚者として始めてお会いになった。 親王は十七歳、女王は十五歳の春であった。 四月にもまたお会いになり、この時は何枚か記念写真をお撮りになった。 この頃東宮妃御学問所が開設され、良子女王は学習院を退かれてここで将来の皇后としての学徳をお修めになることになった。 杉浦重剛は貞明皇后の思召しにより、やはり倫理担当の御用掛として奉仕することになった。
引用山梨は神奈川の出身であったが、陸大出の秀才で、 明治陸軍の逸材田村怡与造に見込まれてその女婿となり、田中の縁でいわば準長閥となって出世した男である。 智能はきわめて明敏であったが、性質はすこぶる陰険で執念ぶかく名利の念に強かったから、 従来とかくの評判の絶えない人物であった。
引用当時、陸軍には二十一個師団があったが、そのうち北陸の第十三師団(高田)、 東海の第十五師団(豊橋)、山陽の第十七師団(岡山)、九州の第十八師団(久留米)の四個師団を廃止する。 その他、聯隊区司令部を十六、衛戍病院を五、幼年学校二校も廃止するという、ずいぶん思い切った大鉈をふるったのである。
そしてその整理で生ずる費用で、戦車聯隊一、高射砲聯隊一、飛行聯隊二、山砲聯隊一を新設した。 それに伴って陸軍自動車学校(東京)、陸軍通信学校(神奈川)、陸軍飛行学校(三重、千葉)を新設し、 それに必要なそれぞれの銃砲、戦車らの兵器資材の製造、整備に着手した。 しかし、この結果として将校下士官らの兵員三万四千人余と、軍馬六千頭が整理された。
それは軍備縮小に名を借りた、思い切った陸軍の体質改善であったが、大量の将校を馘首したことは、 後々まで陸軍部内に怨念を残す結果になった。 おりから第一次大戦後の不況下で、各企業にストライキが続発している世情であった。 終身の官職を保証されており、国家の干城と高い誇りをもって陸軍に入った多数の将校を、 一度に大量の首を切ったことは、部内に深刻な打撃を与えた。
上原閥
引用宇垣閥の形勢に反撥した者が少なからずいた。 その尤なる人物は元帥上原勇作で、この頃、古稀にちかい老人であったが、意気すこぶる盛んで、 来る客毎に杯を傾け宇垣軍縮を罵倒しつづけていたという。
その上原に最も愛された人材は、佐賀出身の武藤信義(陸士第三期)であった。 武藤は後に元帥の称号を与えられ、関東軍司令官在任中に惜しまれながら亡くなった。 陸大の主席卒業であったが、名利に恬淡で、出処進退が爽やかであったといわれる。 日露戦争にもシベリア出兵の時にも出征したが、つねに自ら進んで決死の任務につき、 得意のロシア語を駆使して、しばしば偉功を樹てたほど勇敢な軍人であった。
この武藤に愛されたのが、同じ佐賀人の真崎甚三郎と、和歌山生れだが江戸っ子の血をひく荒木貞夫である。
引用宇垣の軍縮で整理の対象となった将校のうち、 特に教育に経験のある中堅将校を、中等学校以上の男子学校の配属将校に発令し、一は軍縮による陸軍の出血を極度に圧えて、 有能な中堅将校の温存を図るとともに、二は他日の国家総動員態勢に備えて、国民防衛の一翼を荷わせる布石とした。
これは同じ頃施行された、全国の徴兵検査前の青年たちに、 義務的に定時に軍事訓練を施す「青年訓練所」の新設とともに、 「国家総動員機関設置準備委員会」の幹事であった永田の企画に基づく、国民防衛の双翼をなす機構であった (芙蓉書房刊『秘録永田鉄山』三二七ページ)。
小畑敏四郎が選ぶA級戦犯
引用小畑は、晩年めったに軍人については息子たちには話さなかったが、 話が敗戦とそれに伴う天皇の御心痛にふれると、顔を曇らせ絞り出すような声で、 戦争の元凶と目される人物の名をあげた。
まず木戸幸一(内大臣)の名を第一にあげ、軍人では永田東條、それに梅津美治郎武藤章、富永恭次、 四方諒二、鈴木貞一池田純久、それに頭が悪い将軍として寺内寿一、 これらの人物が御国を誤ったのだと語るのが常であった(小畑又雄談)。
殊に池田の思想については、深く考察して「奴は共産主義者だ、 軍の中にも赤化思想に蝕まれた者がゐる」と慨歎していたという。 小畑は軍の赤化については平素から分析を怠らず、かなり綿密な調査をし分析や観察を欠かさなかった。
鈴木率道
引用鈴木率道は広島の生れで陸士は二十二期、陸大三十期の主席卒業である。 永らくフランス駐在武官を勤め、欧米各国の航空隊の発達を見て、深く心に決し、 帰朝後わが陸軍航空隊の発達に貢献した航空隊育ての親である。
昭和五年、陸大に兵学教官として小畑に親昵して以来、その無私の人柄に打たれ深く兄事するようになったという。 小畑もまた無私無欲で、君国を思う一念の外ない性格の上に、冷徹犀利な判断力と俊敏な決断を下す鈴木の人柄を心から信頼し、 終生形影相伴う間柄になったのである。
二・二六事件の粛軍人事では、荒木の系統を引く小畑の余類と睨まれたらしいが、 その俊敏な智能を惜しまれて、参謀本部から支那駐在の砲兵聯隊長に左遷されただけで、首はつながった。 やがて日支事変の激化に伴い、陸軍航空隊の充実が焦眉の急務となり、 中央の要職に返り咲き、航空総監部の要職を歴任したが、昭和十八年六月、東条首相の逆鱗にふれ、 当時在満の第二航空軍司令官の要職にいた鈴木を東京に召喚し、一ヵ月後、馘にしてしまった。 大東亜戦争の敗色歴然たるさなかに、突然降って湧いたような解職、待命である。 鈴木の手腕と力量を高く評価していた陸軍航空界の将星たちは、この報を聞いていっせいに色を失い 「東条は気が狂ったのか」と激怒したという。
満州から引き揚げた鈴木が、いの一番に訪れたのは狛江の小畑の陋居であった。 対座する両人は相擁してただ涙、ひたすら皇国の安否に心を傷めて秘語するのみであったという(小畑又雄談)。
長年の辛労と国家の前途を憂える心労が重なったのか、離任後わずか二ヵ月にして忽焉として長逝した。 年歯わずか五十四歳の壮年であった。 故人の遺徳を慕う旧部下たちが、翌十九年八月、その追悼録をまとめあげた。 東條軍政下の憲兵政治の非常な弾圧にも屈せず、時局柄「タイプ印刷」の小冊子とはいえ、 甲乙二巻で約五百頁、乙巻は作戦計画が主となっているため「部外秘」で今日伝わっていないが、 甲巻の方は立派に現存している。
引用梅津美治郎は、いかにも小我に恋々とした凡将であるという印象は消えない。 梅津敗戦時の参謀総長である。 陸軍大臣の阿南惟幾は、立派に武人の最後を飾ったのに、梅津は自決しないどころか、 九月二日のミズリー艦上の降伏文書の調印式にもグズグズ言って、 なかなか引きうけなかったらしい。 国務大臣であった小畑が「今さら敗けた陸軍に何の面目があるのか、梅津が嫌だというなら、わしが行こうか」と、 怒鳴って梅津もしぶしぶ陸軍の代表を引きうけたという。
シュリーフェン
引用ドイツ軍の名参謀シュリーフェン(Alfred Graf von Schriffen 1883〜1913)はベルリン生れ、 ベルリンの普通大学を卒業後、一年志願兵となり、一八六六年の普墺戦争(プロシアとオーストリアの戦い)、 ついで一八七〇年から七一年にかけての普仏戦争(プロシアとフランスの戦い)に参謀将校として出征、 その実績を認められ、近衛槍騎兵聯隊長としてその巧妙な将校指導で成果をあげた。 一八八四年には参謀本部長となり、一八九一年から一九〇五年には参謀総長の栄職についた。 その時、麾下の参謀将校の徹底的な訓練ぶり、その樹てた作戦計画の絶妙さは前人未到のものと絶賛され、 名参謀長として皇帝から元帥に陞叙された。 その作戦の要点は単に敵軍を撃破するだけでなく、これを包囲して全滅させることにあった。 一方面の敵が全滅すれば、敵の戦意を失わせ、味方は勇気百倍して戦力を倍加させ、 戦いを速やかに終結させる事ができるからである。
引用国際都市上海における武力衝突は、各国から抗議、妨害が出ない前に 迅速に収拾する必要があると判断した荒木陸相は、真崎参謀次長と協議し、二月に入って間もなく、 参謀本部作戦課長の今村均(一九期、陸大二七期、後大将)を急遽上海に派遣し、 後任に陸大教官であった小畑敏四郎を起用した。  【中略】 緻密、果断な小畑の敏速な処置を期待したに他ならない。 小畑は上海の複雑な国際関係や、上海附近の地形を考慮して、参謀次長に進言して、 二個師団の増派が必要であると力説した。 結局その進言は容れられ、第十一師団(善通寺)と第十四師団(宇都宮)の派遣が決定した。 しかし、この大部隊の上陸地点が問題である。
上海は揚子江の河口附近に発達した街で、黄浦江の西岸に広がっている。 しかも附近には大小の小運河(クリーク)が掘られ、大部隊の行進を阻んでいる。 その上、蒋介石軍約七万は戦意きわめて旺盛で、北方には呉淞鎮、中央に廟行鎮と大場鎮、 西方に羅店鎮と堅固な防塞を築いて徹底抗戦の構えを見せている。 とうてい短時日に撃破できそうにない。 そこで小畑が採ったのが、支那軍の背後を衝く作戦であった。 古来幾多の大小の戦場において衝背作戦が行われたが、その時機、場所を選ばなければ失敗する。 殊に揚子江下流附近のような低湿地帯では、よほどの場所を選ばなければ大部隊を上陸させても、その威力を発揮しない。 小畑が第十一、第十四師団の上陸地点に選んだのは、七了口という名もない僻村であった。 ここは昭和二年、小畑が初めの作戦課長の時、課員の鈴木率道らをして揚子江沿岸の兵要地誌を点検させた際、 絶好の上陸地点と報告してきた場所であった。
七了口の上陸作戦は、海軍の護衛が絶対必要である。 小畑は軍令部参謀をも兼務し、渋る海軍を説得して、短時日のうちに計画を練り上げてしまった。 二月二十日、廟行鎮の正面から総攻撃を開始したが、支那軍の抵抗は頑強で日本軍はしばしば苦戦に陥った。 三月一日、七了口に上陸した増援部隊は、大した抵抗らしい抵抗をうけずに西南方面に向って急進撃を開始した。 腹背から攻撃を受けた支那軍は狼狽した。 西方は太湖を中心とした湖沼地帯で、日本軍に退路を絶たれたら全滅である。 頑強だった支那軍も急に戦意を失い、雪崩をうって西北方に退却した。 こうして三月三日、派遣軍総司令官白川義則大将(一期、陸大一二期)は全軍に停戦を命じ、 国際都市上海は、わずか三十四日ぶりに戦火は止んだ。日本軍の鮮やかな勝利である。
ソ連の脅威
引用ソ連も国内の軋轢を克服して、国力を伸ばしつつあった。 一九三二年末には第一次五ヵ年計画を完遂し、つづいて第二次五ヵ年計画の実施に踏み出した。 そして翌一九三三年十一月には、シベリア横断鉄道の複線工事が完成した。 これはソ連の極東への意図を示すもので、産業、経済の開発はもとより、軍備増強に一段と有利な条件が整ったことから、 わが陸軍の関心は倍加したといってもよい。その前後になると、ソ連の硬軟両面の対日攻勢が急に激しくなってきた。 ソ連はそれまで周辺諸国との間に不可侵条約の締結を求めてきた。 日本がこれを拒否すると、こんどは東支鉄道を日本に譲渡したいと申し入れてきた。
そして一方では、ソ満国境に物凄い勢いで軍備増強を実施しつつあった。 昭和七年、参謀本部第二部のロシア課に配属された甲谷悦雄(当時大尉)は、 戦後『歴史とともに歩んだ私の前半生』という小冊子のなかで、その頃のソ連の軍備増強について、 きわめて概括的ながらこう述べている。
「一九三二年(昭和七年)秋頃から、凄まじい勢で極東ソ連領の兵力を増加し、 戦備を充実し始めていたのである。(中略)。一九三三年(昭和八年)前半頃は、ほとんど毎月一ヵ師団の割合で、 ソ連の兵力判断を増加しなければならなかった程で、戦車や飛行機の数なども、それにつれて急速に増大して、 極東ソ連領に戦略展開したソ連軍の兵力は、日本軍の在満兵力すなわち関東軍の総兵力に比較して遥かに優勢な兵力に達した。 その上ソ連は、一九三三年(昭和八年)春頃から、満ソ国境の全正面にわたって、 戦略上の重要地域毎に、鉄筋コンクリート製の堅固な『トーチカ陣地』の構築を始め、 とくに沿海州方面では、こうした『トーチカ陣地』帯の後方に、重爆撃部隊用の大飛行場を幾つも設けて、 続々『TB五型』の四発重爆撃機を送り込みはじめた。 このTB五型爆撃機の爆撃行動半径は一〇〇〇〜一五〇〇粁で、 日本列島は沿海州飛行場にたいして、ちょうど半径約一〇〇〇粁の弧形線上に位置しているので、 ほとんど全部がその爆撃半径内にはいっていた。 そうした爆撃行動能力をもつTB五型爆撃機の数が一九三四年(昭和九年)夏頃には、 シベリア鉄道による旅行者によって確認されただけでも、約一〇〇機に達していたのである」(同書四ページ)
二・二六事件における昭和天皇の焦燥
引用『本庄日記』は事件の遅延につれて、 天皇の御焦燥が昂まって行くさまを伝えている。 二月二十六日午前六時、参内拝謁した本庄に対して天皇はただ「禍ヲ転ジテ福ト為セ」(二七二ページ)と 仰せられただけであったが、午前八時には「速ニ事件ヲ鎮定スベシ」と、川島陸相に厳命されている。 日記では、この日は二、三十分毎に本庄を召され、事件の成り行きを御下問になり、 鎮定方を督促されている。
翌二十七日になると「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スべキモノアリヤ」とか、 「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」と、 憎悪に近い御心中を漏らされ、遂には「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン」(二七六ページ)と激しておられる。 天皇はまだこの時は御年三十五歳の青年天子、蹶起将校といくらも年齢の離れていないお若さである。
引用八月十五日、終戦の大役を全うした鈴木首相天皇に拝謁して骸骨を乞う(辞職を願う)た。 後任は皇族の陸軍大将東久邇宮稔彦王(二〇期、陸大二六期)に大命が下った。 戦後公刊された東久邇稔彦著『一皇族の戦争日記』によれば、内大臣木戸幸一から下話のあったのは 十四日の夕方であったというから、十四日天皇の御聖断が下った直後、鈴木首相は総辞職を決意したものであろう。 東久邇宮に正式に天皇の御内意が伝えられたのは十六日の朝で、侍従職からの招電で参内し、 天皇から組閣の大命をうけた。 組閣本部を赤坂離宮におき、閣員の人選はほとんど近衛文麿緒方竹虎が合議の上で決めたらしい。 『細川日記』には「東久邇宮殿下緒方竹虎を主軸とし、近衛公の援助の下に進められたり」とあるが、 東久邇宮は政界について全く知らないし、一切を近衛に委せたと日記にあるから、 結局内閣の主軸は緒方であった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。