「西園寺公望(下)」
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書籍: 文庫(426ページ)
目次: 十八章 大正政変
十九章 第一次大戦と大正デモクラシー
二十章 元老西園寺とワシントン体制
二十一章 緊縮時代と統帥権干犯
二十二章 五・一五事件から国際連盟脱退へ
二十三章 二・二六事件と宇垣退陣
二十四章 日中戦争
二十五章 三国同盟
二十六章 終章
あとがき
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桂新党と三菱
引用第四次伊藤内閣において加藤が初めて外相になったのは、伊藤と三菱の関係によるものである。 そして第一次西園寺内閣にも外相となったのは政界を去る伊藤の置き土産であった。 加藤はこの内閣で三菱の利益を守る為、鉄道国有法案に反対して内閣を去った。 しかし、今回西園寺の敵であるの内閣に登場してきたのはなぜか。
が元老政治の限界を知って新政党を組織しようと考えたのは、 右の鉄道国有法案の頃からだといわれる。 よりも三菱が元老の力だけには頼れず、政友会と拮抗する力のある政党の育成を考えた為と言ってもよいかも知れない。
三菱系策士の最初の政治結社である戊申倶楽部が出来たのは明治四十一年であるが、 この中から片岡直温(日本生命保険創立者、憲政会代議士)仙石貢(鉄道官僚、九州鉄道社長)ら土佐派代議士が出て憲政本党に合し、 準三菱党といわれる立憲国民党が出来るのが四十三年三月である。
この頃からと国民党を結ぼうという動きが見られたが、国民党は創立のときから民党に徹する理想主義の犬養と、 大合同をして大政党をめざす豊川良平(三菱の大番頭、銀行、郵船、水力、肥料等を経営)、大石正巳(改進党系、第一次大隈内閣の農商務相)、 片岡、仙石らとは分裂していた。
この合同派は“改革派”と呼ばれていたが、この年(大正二年)一月、大石、島田三郎、河野広中、武富時敏、箕浦勝人らを中心として脱党し、 の立憲同志会に参加したのである。
引用この日午前八時、山本は“雷獣”の如く(竹越『陶庵公』)まず邸に現れた。 すでに三代の内閣にわたって海相を勤め、日露戦争の当時海の大捷をもたらした一代の軍政家は、外套を着て帽子をかぶり、 ステッキをついたまま室内に入り、出て来たをいきなり怒鳴りつけた。 年齢も軍歴もの方が先輩であったが、第二次山県内閣の陸海相として閣内に机を並べて以来、 陰謀的なの立身出世主義に快からず思っていた山本は、薩摩っぽうらしく一喝した。 (これは山本のクーデターで、いずれ自分のところへ政権がころがりこむことを意中においた演技であるという説もある。 前年末、西園寺がやめたとき、一時は山本に大命降下といって騒がれた事は事実である)
「世間では山県と君が新帝を擁して勢威をほしいままにしているという。 天下の禍をひきおこしたのは君である。甚だ不愉快であるからやめたらどうだ」
と怒鳴ったので、陸海軍大将の取っ組まんばかりの喧嘩になった。 山本の回想によると、
「この際解散などの手段をとってはいかんぞ、と言ったところ、こういう時のの癖で、 涙を流して両手で握手をして何とかうまい思案はなかろうか、という。 しからば西園寺に会って相談してみようと考え、駿河台へ向ったが、すでに政友会の本部に出かけたというので、 政友会に馳けつけて、西園寺と相談したところ、もはや如何ともし難いというので、是非に及ばぬといって手を引いた。 私が出かけたのは、何ら野心はなく、唯国家の為に無謀の挙を防ごうというだけの単純な考えでありました」
これに対して、は「吾輩は政権の座に恋々としてはいない。 代わってやる人があるならいつでも譲る。貴君はどうか」と言ったという。
【中略】
政友会にやって来た山本は、
は政権を譲る意志があると言っている」
と述べて、政友会の幹部たちの訴えに「さもあらん」と言って同情を残してステッキを一閃して去った。
引用警視庁は五千人近い巡査を集めて議会の警戒に当っていたが、 議会停会と聞いた大衆はこれと揉み合い、建物の破壊を始めた。 護憲派代議士は上野公園神田錦輝館などで国民大会を開き、アジ演説に興奮した民衆に押し立てられて、 議会を目ざしてやって来る。
議会は数万の民衆に包囲され、川上警視総監は、騎馬憲兵二十五騎を民衆の中に馳けこませた。
この頃は議院の中の総理室で、議長の大岡育造(長州人、政友会創立委員、総務であったが、への接近を計っていた。 後に政友会反主流派二十日会を率いる)や閣僚たちが集まった中で、解散か否かで揉み合っていた。大岡は、
「議長としてでなく、長州人として申し上げる。 今、この議院は憤激した民衆にとり巻かれている。 善処しなければこの民衆は血を見るまでは収まりませんぞ。 閣下の英断を乞う」
と激しく迫った。
【中略】 病が進行し、体力が弱っていたはしばらく閣僚たちを残して部屋を出たが帰って来ると、
「私はやめることにした。諸君も辞表を書いてもらいたい」
と蒼ざめた顔で言った。
引用文官任用令の改正も重要であった。 第二次山県内閣の改正にみる旧条令では勅任官といえども資格(高等文官の)がある者以外は(高等管理職に)任用出来ないこととなっていた。 この為、大臣は官僚に頼らなければ政治が出来ない。 今回の改正で各省次官、法制局長官、警視総監等は資格がなくとも特別任用が出来ることとなり、 一般の有能な人材を登用する道を開いた。
引用一月二十三日、同志会の代議士島田三郎(静岡県出身、横浜毎日新聞主筆、改進党創立委員、衆議院議員連続当選十四回、 星亨の弾劾、足尾銅山鉱毒事件、廃娼運動などで議会で雄弁をふるった)は予算委員会で日本海軍の汚職を痛撃した。 受ける側に立った山本首相斎藤海相は顔色蒼白となった。
前日の各新聞はシーメンス・シュッケルト電気会社の元東京支社タイプライター係カール・リヒテルが、 恐喝罪によってベルリン地方裁判所で懲役二年の判決を受けたことを報じていた。 リヒテルは支社より日本海軍が同社から贈賄を受けていた事を示す書類を盗み出し、これを種に同社をゆすっていたのである。
折柄開会中の第三十一議会には前述の海軍予算のほか、営業税、通行税、織物消費税なども提出されていたので、 反対派は尾崎行雄、花井卓蔵(中正会代議士、名弁護士として知られ、普選運動に貢献)蔵原惟郭(同志会代議士、 院内最左派として知られ、マルクス主義評論家蔵原惟人はその息子)らが次々に壇上に立って政府を攻撃した。
引用大正三年六月二十八日ボスニア(現ユーゴスラビア)の一角、サラエボで轟いた一発の銃声は、 ヨーロッパを大戦に巻きこんだ。 セルビアの愛国党員ガワリーロ・プリンシポフは、大演習の統監に来ていたオーストリアの皇太子フランツ・フェルジナンド夫妻を暗殺した。 私はサラエボに行ったことがあるが、彼が待ち伏せしていたビルの角には彼の顔がレリーフになっており、 その下には彼の靴の跡が石に刻みこんである。 プリンシポフはオーストリア官憲の手に捕らえられたが、十八歳という若さの為に死一等を減じられてプラハの刑務所に送られ、 三年後に死んだ。
引用イギリス通の外相加藤は、日英同盟を重んじ、東洋におけるドイツ艦船の撃破を求めるイギリスの要求に応じて対独参戦を主張し、 八月八日午前二時、イギリスに遅れること僅かに四日にして対独戦を決定し、同二十三日、宣戦を布告した。
山県らの元老はこれを喜ばなかった。 加藤はイギリスの勝利を信じていたが、元老たちは日英同盟は実利薄しとして露仏と同盟関係を結ぶことを考えていた。
大隈首相の解散、総選挙、選挙干渉
引用この前年(大正三年)十二月七日召集の第三十五議会で、海軍の予算案は通ったが、 岡市之助陸相と宇垣一成軍事課長の苦心にも拘らず、陸軍の二個師団増設案は政友、国民二党の反対によって葬り去られ、 大隈は議会を解散、翌四年三月二十五日総選挙ということになった。 大隈は警察官僚で、第二回総選挙の干渉で悪名の高い大浦兼武農商務相を内相専任として選挙の取締りに当らせる一方、 井上を通じて三井三菱の金(『原敬日記』によると百六十万円)を放出せしめ買収に努めた。
その甲斐あってか、総選挙の結果は与党の大勝利となった。 同志会の百五十名を中心に三百八十一の議席の内与党は二百四十一名と過半数を制した。 政友会は大隈側の恥を知らぬ買収(直前に一人五千円を贈ったという)や干渉(新聞の多くは政府側についた)の為に大敗を喫し、 八十名を減じて百四名となってしまった。 国民党も五名減じて二十七名となり、憲政擁護の旗印を掲げて国民の支持を得て来た両党はここに大きく後退し、 大正デモクラシーの前途は楽観を許さぬものとなって来た。
大浦内相辞任/3閣僚辞任
引用大正四年五月二十日第三十六議会が開かれ、懸案の二個師増師は可決された。 野党は対支外交がわが国の威信を失墜したとして、内閣不信任案を提出したが否決されると、 大浦内相の収賄をとりあげ、内相の弾劾案を提出した。 政友会の村野常右衛門代議士は大浦を選挙法違反と収賄罪で告発した。 大浦が今回の選挙において丸亀市から立候補した白川友一の対立候補を断念させた謝礼として、 白川から金一万円を受けとったというのである。 さらに大浦は前の議会で増師案を成立させる為、政友会の代議士を脱党させ、大正倶楽部を作らせる為実弾をとばしたことも発覚した。
六月末、白川ら十数名の新旧代議士が拘引され、七月二十九日剛腹といわれた大浦も辞職し、 すべての公職をなげうって隠退した。 彼は起訴猶予となったが翌年十月一日山県系藩閥政府のお目付役として捧げた生涯を閉じた。
大隈内閣は七月三十日総辞職したが、元老会議の留任勧告によって、加藤若槻、八代の三大臣が辞め、 大隈が外相を兼任(十月十三日石井菊次郎)、蔵相・武富時敏、海相・加藤友三郎、 内相・一木喜徳郎、逓相・箕浦勝人、文相・高田早苗というメンバーに改造し、八月十日再発足した。
第一次世界大戦下、中国大陸における陸軍の策謀
引用大陸では満蒙独立運動が進行中であった。 大陸浪人川島浪速らは参謀本部田中義一の支援を得て、帝政実施を企む袁世凱を排斥するかたわら、 蒙古騎兵隊長巴布札布に挙兵させ、清朝の王族粛親王をかついで満蒙に独立国を作ることを考えていた。 しかし田中が現地の実力者張作霖を支持するようになり、六月六日袁世凱が病死すると日本政府は大総統となった黎元洪を操縦することとし、 排工作をストップした。 この為支持者を失った巴布札布は三千の騎兵を率いて満鉄沿線の郭家店を占領していたが、 張作霖の軍と衝突して戦死してしまった。 これもヴィジョンに乏しい大隈内閣の混乱した大陸政策の一つでその命運を縮める役を果たした。
引用六月六日に観樹将軍三浦悟楼のあっせんで三党首会談が開かれた。 加藤(同志会)(政友会)犬養(国民党)の三人が集まり「外交及び国防の方針は努めてこれを一定し、 この遂行にあたっては、各自党派の消長に関係せず一致協同するはもちろんにして、 外界一切の容喙を許さず」という覚え書を作り三人が署名した。 つまり、元老の干渉を許さずということであった。
引用六月、寺内加藤犬養の三党首を招き、「天皇直属の臨時外交調査委員会を設けるから、協力してもらいたい」
と申し入れた。 政友、国民を与党として抱きこもうという画策であるが、 表面上の理由はヨーロッパで大戦が進行しているので、国策を統一したいということである。 加藤は内閣の外に天皇直属の機関を作るのはよろしくないと言って 協力を断ったが、犬養は受諾し、寺内、本野、後藤加藤(友)、大島らの閣僚や、伊東巳代治、平田東助、牧野伸顕らの準重臣が 大臣待遇の委員となった。
日華共同防敵軍事協定
引用ロシア革命が成功して、ロシアがドイツと単独講和を行うと、寺内内閣はますます軍閥の本性を現して来た。 東洋におけるロシアの勢力が後退すると、ドイツの勢力が中国に入って来る、 そこで前年八月参戦していた段祺瑞内閣と共に連合軍を助けるという名目で、政府は五月十六日北京で秘密の「日華共同防敵軍事協定」を結んだ。 (公表は翌八年三月十四日)日本のシベリア出兵に関連したものとされており、日本軍の満蒙駐屯、軍事教官の派遣、 中国参戦軍の訓練等が規定されているが、実際にはロシア革命に対抗する為中国軍に兵器資金を供給し、 中国を日本軍の勢力下におこうという軍事同盟であった。 この協定は大正十年一月まで続くが、日本の侵略であるとして中国国民の反感をかい、八年の五・四運動を誘発する。
原内閣成立へ、山県西園寺の会話
引用西園寺は二十四日山県を再訪。次のような問答を行った。
「明日参内して拝辞して来ます」
「ふむ、しかして後任をどうされる? 伊東は到底物にならず、平田、清浦も不可なり」
にては如何?」
「それも一案なり、はお受けすべきや」
には話してないが、は自分と異って政党を統御しておる故、党員の意向もあってお受けすべしと思う」
「憲政会と一緒になることはなきや」
「早く内閣を組織すれば心配はないが、長びくと党員の末流同志が提携し、幹部を動かすようになるやも知れず」
は自分をどう思っているか」
「特に隔意なからん。内閣に立つようになれば常に教えを受けることとなる故、閣下より時々注意ありたし」
「そうであろう。と自分は何ら意見の異るものはない。 只、は政党を大多数となして、政党の改良を計るというも予は反対なり。 ほかに異見はなし。の推薦については兄より推薦のこととしたし。松方も一応話してもらいたい」
「ではこれから松方を訪問すべし」
「その前に予より松方に話しおくべし」
こういうわけで、西園寺は徹底的に山県を突き放し、自分でを推薦するところまで山県を追いこんだ。
吉野作造vs浪人会
引用きっかけは九月二十八日黒竜会会員池田弘寿が大阪朝日社長村山竜平に暴行を加えた事件に関連して、 吉野作造が中央公論十一月号に「言論の自由の社会的圧迫を排す」という論文をのせたことによる。 この中で吉野は自由民権派には厳しい官憲が、このような暴力に対しては寛大に過ぎると批判した。 浪人会のメンバーが抗議に押しかけると、吉野は立会演説で是非を決めようと言い、浪人会もこれを受けて、 十一月二十三日夜浪人会主催の立会演説会が神田南明倶楽部で開かれた。 会場には吉野を支持する大学弁論部の学生、友愛会会員、労働者など千余名がおしかけた。
まず、黒竜会幹部内田良平が壇上に上がり、村山を襲った池田と自分の間には不明朗な関係はないことを“謙抑せる紳士的態度”で説明した。 続いて浪人会から佐々木安五郎、伊藤松雄、田中弘之、小川運平が次々に立って、 「大阪朝日」(九月二十五日)の不穏なる論説に対する吉野の賛否及び、忠君愛国思想に対する吉野の所見を訊いたが、 その態度は“紳士的態度を失わざらんと努め”(報知)ていた。
これに対し吉野はまず「思想に当るに暴力をもってすることは、すでに暴行者が思想的敗北者であることを示す」と述べ、 ついで国体及び民本主義について述べ浪人会の誤解を解き、 「思想の過程はともあれ憂国の至誠において劣るものではない」ことを強調した。
田中は吉野の同意を得て次の覚書をまとめ朗読した。
一、池田某の行動に関し、内田良平の弁明を聞き、吉野博士は浪人会の趣旨は言論圧迫に出でたるものに非ずと認む。
二、吉野博士並びに浪人会は、尊厳なる我国体崇尚のもとに益々君民一致の美徳を発揮する為、 各所信に従って努力すべき事に一致せり。之によりて本会を散ず。
この日吉野に対する危険への憂慮から会場に入れない群衆も数千人に達し、 吉野が無事に出て来ると「吉野先生万歳」「民本主義万歳」を連呼して神保町角まで行進した。
この日警戒の為(吉野の安全よりも大衆の暴発をおそれて)警視庁は二百余名の警官を会場の内外に張りこませた。 会が終ると数名の警官が吉野をとりまいてボディガードの形となり、神保町から巣鴨行の電車にのせた。 吉野は去ってゆく電車の後部運転台に立って群衆の喝采に応えた。
パリ講和会議出席者
引用十一月二十七日政府は、ヴェルサイユ講和会議に出席する全権と随員を次の通り発表した。
▽全権委員、西園寺公望牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)
▽随員、永井松三(英国日本大使館参事官)、長岡春一(仏大使館参事官)、佐分利貞男(外務省書記官)、 木村鋭一(シベリア派遣軍渉外事務官)、有田八郎(外務事務官)、奈良武次(軍務局長、陸軍中将)、 田中国重(英大使館附武官、陸軍少将)、畑俊六(参謀本部員、砲兵中佐)、竹下勇(海軍軍令部次長、海軍中将)、 野村吉三郎(海軍軍令部参謀、海軍大佐)(以下略)。 なおこの日の内閣発表には出なかったが、 松岡洋右(外相秘書官兼総理秘書官)と近衛文麿及び嗣子西園寺八郎夫妻も西園寺と同行することになる。
原内閣の選挙法改正
引用は立憲政治を表に唱えているからには、大正政変米騒動と高まるデモクラシーの波を見て、 いずれ学者、新聞、野党の線から普通選挙法の要求が出るとみていた。 早目に譲歩してこの鉾先をかわす為、彼は第四十一議会に選挙法改正案を提出し、 八年三月八日両院で可決された。 改正の要点は次の二点である。
一、選挙権拡張、有権者資格を直接国税十円以上から三円以上に引き下げる。 これによって有権者数は百四十六万人から三百六万人に増える。
二、(与党、多数党に有利といわれる)小選挙区制の採用。郡部は人口十三万人につき定員一名、 三万以上の都市はすべて独立選挙区とする。 これによって議員定数三百八十一名が四百六十四名に増加。 昭和三十八年までほぼこの数である。
近衛篤麿
引用近衛の父篤麿は西園寺より十四歳年下であったが、明治三十七年四十二歳の若さで早逝した。 篤麿は五摂家筆頭で貴族院の若手公爵議員として積極的に活躍し、 西園寺もひそかに自分の後継者として嘱望していた。 篤麿は藩閥政府に批判的で民党と手を組んで政府と対立することが多かった。 また東亜同文会、対露同志会などを組織し、大陸に関心を示していた。 ひそかに篤麿を自分の後継者として育て、 藩閥、軍閥と対抗して天皇の側近として天皇による政治態勢を“純粋培養”しようと考えていた西園寺は、 篤麿が若死にしたとき、長男の文麿をひそかに己の後継者と考えていた。
引用西園寺がパリにいる間に山東省に関する日本側の要求に反撥して中国に五・四運動が生起していた。 そして、それより二ヶ月前に朝鮮に「万歳事件」と呼ばれる三・一運動が発生していた。 八年三月一日京城で中学校以上の官公私立学校生徒は休校してパゴダ公園に集まり、独立宣言を行い、 「独立万歳」のシュプレヒコールを繰返しながらデモ行進を行い、 これに呼応して各地で独立運動の民衆が蜂起した。 四月、上海に大韓民国臨時政府が樹立され、アメリカにいた李承晩が主席となった。
「珍品五個」事件
引用不明朗な金をもらっていたのは政友会だけではなかった。 憲政会でも総裁の加藤が船成金の内田信也から五万円の寄付を受け、 「珍品五個領収致し候」という領収の書状を出していたことが明るみに出た。 政友会は、満鉄事件で攻撃された報復として、この五個は内田が加藤に普選運動をやめるのを条件とした贈賄であると主張した。 翌十年三月十五日、政友会幹事長広岡宇一郎は、内田から預った例の書面を公開した。 そこには普選運動をやめるということは書いてなかったが、「小生大嫌いの尾崎島田らの人物を後援致さず、 時に貴下御直系の健全分子を補助するよう尽力致す所存」という文句が書いてあった。 尾崎島田は普選運動の代表者であった。 内田は尾崎らが神戸の造船所で職工を煽動するので困るといって加藤に相談に及んだのがきっかけである。 加藤はこの文面には手が加えられていると弁解した。(最近でも千葉県知事の収賄問題で川上知事が似たような発言をしていた) 真偽は泥仕合に終ったが、島田は総裁頼むに足らずとして憲政会を脱退した。
引用この年(大正九年)五月七日、皇太子裕仁親王は成年式を迎え、六月十日久邇宮邦彦王の第一王女良子女王と婚約を結んだ。
これで宮中の高官、元老たちもほっとしたはずであるが、実はそう順調にはゆかなかった。 主席元老の山県がこれに反対したのである。
この頃山県は、嫌いなはずであった南部藩出身の原敬と、その手腕を認めることで友好関係を結びつつあった。 そこで彼の憎悪は薩閥に向けられていた。 ところが良子女王の生母倶子は公爵島津忠義の第七女で、島津本家の血を濃くひいている。 女王を推薦したのは内大臣松方正義であった。 山県は生前、「わしの一番嫌いなのは社会主義と早稲田大学だ」と言っていたが、薩摩はもっと嫌いであったかも知れない。
久邇宮は当然皇族会議のメンバーであったが、ある日の会議で宮は、
「いつも皇族会議では吾々皇族は重臣たちの意見を傍聴するだけであるが、自分の意見を言ってもよいのか」
と発言した。
座長であった山県は、
「もちろん結構でございます」
と応諾した。
そこで久邇宮は堰を切ったように(主として皇室令改正に関して)発言したが、 その中には山県ら元老の専断を指摘する言葉が多く含まれていた。 山県は心中この宮と薩摩の松方らが組むと長閥は危いと考えた。
ここに石黒忠悳という茶坊主?(木村毅『西園寺公望』による)が登場する。 石黒は軍医総監あがりの貴族院議員で日本赤十字社の社長を勤めていた。 彼は山県の子分で山県の懊悩を知ると、
「実は良子女王の母方の実家島津家に色盲の遺伝がありますぞ」
と彼は山県に智恵を授けた。
【中略】
山県は硬直した。「良子女王の皇子はいずれは皇統を継ぐ。 その天子が桜花も松の葉も一色と見えるようでは誠に恐れ多い」と彼一流の勤王の老いの一徹で振い立った。 五月十五日、松方西園寺の両元老と会議したところ、二人とも山県に同意した。 六月十八日彼は波多野敬直の代わりに長閥の中村雄次郎(関東都督、陸軍中将)を宮相に送りこみ、 内大臣の松方正義と拮抗させ、久邇宮に迫って辞退せしめようと計った。 天皇が病弱であるのに、劣性遺伝因子を持つ女性を未来の皇后とすることは大いに疑念があるというわけである。
皇太子妃内定に変更なし
引用その頃、中村宮相は警保局長川村竹治の報告を聞き緊張していた。
「右翼の壮士たちは、皇太子の外遊を山県一派の陰謀だとして、山県、中村らの暗殺を企んでいます」
「うむ、私も宮中にお仕えする身だ。一死奉公の覚悟位は出来ている」
中村は落着いて答えたが、次の一語を聞くと、膝をつかむ手がふるえた。
「ところが今では久邇宮妃(倶子女王)までが山県策謀説を信用されて、良子女王付きの女官後閑菊野女史までが、 宮家堂上の間を奔走して山県の非を鳴らしておる状態です。 壮士どもはこの際とばかり、原首相や(久邇宮家に反対する)一部の宮家に対して、実力行使を企んでいるという情報が入っております」
中村は膝を掴んだまま体を震わせた。 彼も山県と同じく不純因子を入れないという“純血論”に賛成で、山県の陰謀説は信じたくなかったが、 事が皇室に波及するとなっては話が違って来る。中村は直ちに車をとばして小田原の古稀庵に走りこんだ。
中村が逐一緊迫した東京の実状を報告するのを腕組みして聞いていた、八十四歳の元老の頭は自然に低く垂れて行った。
―最後に負けたのか、それも右翼の浪人風情如きに・・・・・・
彼は無念であった。そして、彼は自らが不当の手段をとって、多くの人間に無念の思いを味わわせて来たことに思い至らなかった。
「已むを得ぬ。事ここに至っては、純血論ばかりを押し通してもおれまい。 おれやはとも角、宮家に万一の事があっては、先帝に対して申し訳が立たぬ。 直ちに熱海の松方の所へおれの意を伝えて、内定変更なき旨を記者団に発表してくれ」
そう言って中村を送り出すと、彼は自室で庭の梅をみつめながら泣いた。
「俺は勤王に出て勤王に討死したんだ・・・・・・」
情報係の松本剛吉(当時台湾総督秘書官)は、山県でも泣くことがあるのか、と考えながら、 その鶴のように細い首を眺めつつ記録の筆を走らせていた。
松方を訪ねた中村は、翌二月十日午後二時帰京するとに会って重大変更を伝えた。
も事の意外に顔面を硬直させたが、中村が、この発表は政府からやってもらった方が議会、右翼に対しても効果があろう、というと、
「本来この事は宮中のことなれば宮相の談にて公表するが至当なり」
として、自分が山県の尻について内定変更に同調したことを忘れたような顔をした。 は事が重大なので、政府と政友会に責任が来るのをおそれていたのである。
中村は十日午後八時次のように発表した。
「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」
翌十一日の各新聞は、この宮内省発表と共に、事件以来初めて記事解禁ということで、 「宮中某重大事件」に関する記事をのせた。 といっても、確実なことはわからないので、とりあえず、中村宮相、石原健三次官、仙石政敬、宗秩寮事務官、 木村英俊久邇宮附事務官らの辞表提出と、山県が枢府議長と元老等一切の職を辞するであろうという観測記事をのせたにとどまった。
引用二月二十六日午前七時、秘密結社抹殺社のメンバー六人は外遊中止を叫んで、麻布飯倉片町七番地の西園寺邸に乱入した。 寝ていた八郎は護身用仕込杖を揮って一味と相対し、「殺されても延期は出来ないのだ」と叫んだ。 この時彼は誤って自ら左の小指を傷つけ、また自分の眼鏡をこわして右まぶたに軽傷を負った。 一味に追われた八郎は隣りの相良子爵邸に逃げこんだ。 一味は室内を破壊した後、麻布鳥居坂署に捕えられた。 八郎は小指に繃帯した後、警視庁を訪れ、午後八時宮内庁に登庁した。
三月三日盛大な見送りの内に皇太子裕仁親王を乗せた軍艦香取は横浜港を出港した。 同行は後見役の閑院宮載仁親王、供奉珍田捨巳伯、そして小指の繃帯のとれた西園寺八郎もその中に入っていた。
香取には供奉艦として同型艦の鹿島が同行し、両艦の半年間の費用が四百四十二万円と議会で採決され、 その他の費用は外務省及び大公使館の経費二百八十万円、外遊中の旅費(慈善団体への寄付、レセプション費、ホテル代、 馬車運賃、チップ、ショッピング等の宮廷費)二百万円、総計一千万円に近いといわれた。 その中には各国で君主、高官に贈呈する勲章(大勲位菊花大授章から勲八等まで)五百個、美術品三百個も入っていた。 時価として現在(昭和五十六年)の二百億円以上に上る。
安田善次郎
引用安田は天保九年富山県の士族の家に生まれ、十七歳で江戸へ出て二十七歳で両替屋を開いてからは、 維新直後の太政官札の買占めなどで巨利を博し、政商として発展し、安田銀行(明治十三年)を創立、 銀行資本家として安田財閥を築いた。 彼の名は東大に寄付した安田講堂に残っている。
引用午後四時官邸から芝の自宅に帰り、夫人の浅子と頂戴の菊を眺め、夕食を共にした後、午後七時すぎ自動車で東京駅に向った。
東京駅についたが、発車までに十五分あるというので、見送りに来た各大臣と駅長室で雑談した後、 改札口近くに進んだとき、群衆の中からとび出した書生風の青年が、叫び声をあげながら担当での右胸部を刺した。 傷は深くはその場に倒れ、駅長室に運ばれたが一語も発せず午後七時二十五分絶命した。 遺体は午前八時二十分寝台車に移し、その後芝の自邸に運ばれた。 の被害は右胸部の一突きで短刀は右胸部肋骨の間を斜めに貫いて大動脈を切断し、入沢達吉博士が応急手当をした頃には瞳孔が散開しており、 呼吸が止まり絶命していた。
午前九時遺体が自邸に運ばれると内田外相、野田逓相、元田鉄相らが見舞いに馳けつけ、 愛宕署から百余名の警官が騎馬提灯をさげて、警戒し物々しい雰囲気の中に、邸内は沈痛なものが重く垂れこめた。
は平素浅子夫人に、「自分の身に異変があった場合には一切の処理は官邸でなく自邸で行うようにせよ」と申しつけてあったので、 夫人は直ちに東京駅に馳けつけ少しも取乱すことなく、遺体を自邸にひきとったのである。 私邸で処理せよということは、総理としてではなく、政党人個人として官の手を煩わすことなく死んでゆきたいという意味であろうか。
犯人は中岡艮一といって大塚駅の転轍手で東京市外巣鴨に住む十九歳の青年であった。 彼が懐ろにしていた「斬奸状」には次のように墨筆大書されてあった。
内閣総理大臣原敬就任以来政道を掌どるに私欲をはさみ己の利す処に万民の愁苦を顧みず列国の笑侮を悟らず其の罪数奇(少なからず?) 若し唾手以て之を誅鋤せずんば何時の日か天日を仰れん
                    憂国の志士 中岡良一(斬奸状では良一になっていた)
同日大塚駅の助役は、「中岡は高知県出身で早く父を失い母と二人暮らしで今春ポイントマン(転轍手)になった。 性質は時によると変な事を言う男だが、頭脳は明晰で読書の範囲は広かった。 勤勉家ではないが、相当仕事をしていた。 三日は出番ではないが、四日は休んでいた」と語った。
取調べの途中で中岡は坂本竜馬と共に王政復古に尽力した土佐の英傑中岡慎太郎の孫にあたるということがわかった。
公判廷の調べに対し、彼は、
「自分の身を犠牲にして原総理を倒せば、自然に自分の名も世に現われようし、 内閣は倒壊するからそれによって革新しようという考えになった」
と動機を語った。
引用加藤は人も知る日本海海戦のとき東郷司令長官の帷幕にあった参謀長であるが、 そのやせた風貌から“燃え残りのローソク”と評された。 広島藩士出身、風貌に似ず芯が強く、西園寺などと違ってやる気のある人物であった。 すでに大隈内閣以来四代にわたって海相であり、は閣僚の中でも最も加藤に期待をかけていた。 原内閣の末期にはシベリア出兵等で歳出がかさんで財政は破綻寸前であり、軍備縮小が必然とされていたが、 八・八艦隊を唱える海軍を抑えて軍縮を実行出来得る才幹のある人物は、加藤のほかに見当たらなかった。
引用加藤総理の病気は悪化し、五月十五日財部彪が専任海相に就任した。
七月二十七日閣議の後加藤は激しい下痢を起こして倒れ、八月十九日付の「東日」は総理の病気は不治の癌疾であるという記事をのせた。
八月二十四日加藤は青山南町の私邸で臨終を迎えた。(公表では二十五日)元帥府に列せられ、 海軍葬に付せられることになり、内田外相が臨時総理に就任した。
加藤の死は政党にとっては中間内閣のいわばつなぎの総理の死にすぎなかったが、 海軍にとってその損失は大きかった。 日露の戦捷によって、海軍の提督たちが世界を圧する大艦隊を夢みていたときに、 加藤は財政に注目して軍縮に踏み切った近代的な提督であった。 この後日本海軍は、軍縮の路線を守ろうとする条約派と、再度艦隊増強を計る艦隊派が激しく拮抗し、 ロンドン条約では一応条約派が筋を通すが、怒った艦隊派は統帥権干犯という宝刀を抜いてその主張を世間に押し拡げ、 ついて五・一五事件によって政党政治に痛撃を加えるに至った。 統帥力のある加藤が生きていたなら、日本の海軍も、ひいては太平洋戦争に至る日本の在り方も変ったものになったのではないか、 というのが、海軍史を学ぶ人の常識となっている。
引用十二月二十七日議会の開院式に出席する為、摂政宮のお召自動車が虎ノ門近くにさしかかったとき、 群衆の中から一人の青年がとび出して、ステッキの仕込み銃を自動車めがけて発射した。 同乗の入江為守侍従長が顔に負傷しただけで摂政には異常がなく、犯人の難波大助はその場で取り押えられた。
彼は長州の名家に生まれ、父は庚申倶楽部所属の難波作之進であった。 彼は中学時代には皇室を崇拝していたが、中学五年生のとき陸相田中義一が帰省の際、 小、中学生を沿道に整列させたことに憤慨して、社会主義の方に転じて行った。
大正八年上京後はテロリストを志願し、権力者に反省せしめる為皇室を襲うことを考えたものである。
事件後、大助の父作之進は代議士を辞して自宅の門に青竹を結んで閉門の身になった。 大助は翌年十一月十三日、大審院で死刑を宣告され、十五日執行された。
この事件は基盤の浅い山本内閣をゆすぶった。 後藤内相の私邸は又しても右翼の壮士に襲われ、内閣は十二月二十九日総辞職した
引用高橋は政友会総裁を引退することを声明し、四月十三日政友会は田中義一を総裁に推戴することを決議し、 四月十四日政友会臨時大会で田中は総裁に就任した。 政友会は第五代目の総裁に中国大陸進出(侵略)で評判の悪い長閥の陸軍大臣を選んだのである。なぜか?
田中引き出しの先棒をかついだのは横田でその死後は小泉三申が引き継いだ。 前年(大正十三年)十一月頃横田高橋が次期総裁について話し合ったとき、伊東巳代治、田、後藤新平田中義一の名があがり、 田中がよかろうということになった。 (伊東は金に汚いということで評判が悪く田、後藤は政友会の長老野田大塊、岡崎邦輔との折合いが心配され、 結局無色透明の田中の方がシャッポとして操縦し易く、政権をとった場合にもよかろうということらしい。 人がいないとは言いながら立憲政友会も血迷ったものである)
引用三月五日の新聞は田中総裁のとんでもない旧悪を暴露する企図を報道していた。
告発したのは憲政会代議士中野正剛(後東条首相を批判して自決)である。 中野は四日の議会で元陸軍三等主計三瓶俊治に告発書を朗読せしめた。 それによると大正九年(シベリア出兵中)三瓶が陸軍大臣官房付であった時、 官房主計の金庫に田中陸相山梨次官らの個人名義の預金証書(シベリア出兵の機密費?)があり、 総額は二千四百万円に上っていたが、これが無記名公債となりその後行方不明になったというのである。 とくに田中陸相は四百万円を要領したのではないか、として新聞でも叩かれた。 田中は政友会に入る前、乾新兵衛という金貸しから三百万円を借りたが、 その時の担保が例の無記名公債ではないかという推理もなされた。 中野の追及が厳しくなると政友会では中野を露探だと切り返した。 五日になると宇垣陸相が登壇した。
「昨日来、憲政会は陸軍に不正ありとして攻撃しているようであるが、 これらの質問が陸相たる私に対する不信任ということであるなら進退を考えねばならない」
と述べて若槻を脅かした。 陸相が辞めれば恐らく後任陸相は得られず内閣は総辞職しなければならない。
三瓶は田中山梨を告発したが、この男も並の“正義漢”ではなかった。 在職中一万三千円の公債を着服して有罪となっているし、この材料を政友会に持ちこんで高く買ってもらおうとした事実もわかって来た。
かくして泥仕合が続いたが、事件担当の石田検事の変死で一切はうやむやに終り田中らは不起訴に終った。 もみ消しの元兇は司法官僚の鈴木喜三郎清浦内閣の法相、後に田中内閣の内相、政友会総裁となりながら選挙で落選する) であるとの噂が高かった。
台湾銀行救済問題
引用台湾銀行救済事件とは、第一次大戦以来同銀行が鈴木商店に与えていた五億円に達する不正貸付に原因を発する。 三井銀行が台湾銀行に与えていたコールローン一千万円を引き揚げると、各銀行も台湾銀行危しとみてそれにならった。 四月十三日、若槻内閣は日銀の特別貸出しによって倒産に瀕している台銀を救済しようとしたが、 すでに三月三十一日議会は閉会となっており、それには枢密院の承認が要る。 四月十七日、倉富勇三郎を議長とする同院はこれを否決、内閣は総辞職に追い込まれた。
台銀問題の裏には、若槻を倒して伊東(巳代治)を引き出そうという枢密院の暗躍があり、 馬場瑛一()、水野、高橋小川犬養らも動いた。 若槻は枢密院の策謀に体当りしたとも、これを辞職の好機としたとも言われる。
引用原田熊雄の祖父一道は軍人で男爵となり、父豊吉は科学者であった。 大磯に別荘があったことから西園寺家に関心をもち、京大在学中一級下の近衛と共に清風荘に出入りする内に西園寺の信任を得て、 大正十三年西園寺の秘書官となった。 この時は公爵・木戸幸一近衛、原田と共に宮廷派京大トリオと呼ばれる)の推薦があったといわれる。 原田西園寺の没年まで秘書を勤め、昭和五年三月六日から十五年十一月二十一日まで、 西園寺公をめぐる政局の裏面を近衛秀麿夫人泰子に口述筆記させた。 四百字詰原稿用紙七千枚に上る厖大なもので、昭和二十五年六月、岩波書店より刊行が開始された。 刊行にあたって友人の黒田敏が校閲を行っている。
引用張作霖爆殺事件が発生したのは昭和三年六月四日である。
この頃は、北京において蒋介石の北伐軍主力と決戦しようと考えていたが、日本政府はが負けると、 の軍隊が山海関を通って満州に攻めて来るおそれありとして、に奉天に帰るよう警告していた。 一方、関東軍は、満州の実権を手に入れる為には、言うことを聞かなくなって来たを倒さなければならないとして、 ひそかにの暗殺計画をすすめていた。
六月三日は特別列車を編成して北京を発ち、京奉線で奉天に向った。
四日午前五時、は起床して食堂車の喫煙室で煙草をすっていた。
突如、轟然たる爆音と共に、三輛目の食堂車と四輛目の寝台車は炎上した。 は重傷を負い、自邸にかつぎこまれたが絶命した。
この爆殺を担当したのは関東軍の高級参謀河本大作大佐で実施に当ったのは独立守備隊の東宮鉄男大尉と朝鮮軍の亀山工兵隊であった。
河本はあらかじめ中国人の浮浪者二名を殺して現場に放置し、これを南方の便衣隊に仕立てるという工作をやったが、 日本軍の仕業ではないかという噂は忽ち拡がり、田中内閣は苦境に立った。
引用六月二十七日、田中は参内して、
「張作霖事件につき、陸軍、関東庁、満鉄においていろいろ調査致しましたが、 日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明致しました。 しかし、とに角、事件の起こったことにつき、警備責任者の手落ちについては(行政)処分に致します」
と奏上した。
天皇は表情を変えて、
田中が先に上奏した(厳罰主義の)言葉と異るではないか。責任は明確にとるべきである」
と述べた。
翌二十八日午前十一時、陸相が参内し、
「関東軍司令官、村岡長太郎を依願予備役、河本大佐は停職、事件当時の参謀総長斎藤恒中将は譴責と致します」
と奏上すると、天皇は大声で叱咤して退席した。天皇鈴木(貫太郎)侍従長に、
「総理のいうことは全然筋道が立たぬ、二度と聞きたくない」
と興奮した様子で語った。
鈴木侍従長田中に午前二時参内するよう要請し、田中が現れると、鈴木天皇の怒りを伝えた。 田中が恐懼して直ちに参上して陛下に弁明したいというと、鈴木は、
陛下の御様子では、拝顔は無理であると思います」
と答えた。
がっくりとなった田中は、官邸に戻ると、閣議の為集まっていた閣僚たちに報告して「オラは天皇の御信任を失った」と言って辞意を表明した。 田中が駿河台の西園寺を訪れると、西園寺は「いよいよ辞めるのか」と感慨深げに言った。
七月二日田中内閣は総辞職した。 気落ちした田中義一は、この年九月二十九日狭心症で急死した。 麹町番町の妾の家で死んだと伝えられる。
引用七月二日田中内閣が総辞職したとき、小川鉄相らは床次内閣を期待して西園寺にもそれを依頼した。 しかし、西園寺浜口を推薦した。
九月十八日床次は新党倶楽部を解散し、二十名の同志と共に政友会に復帰した。 九月二十一日、床次田中を訪問すると、田中床次に総裁を譲りたいといって床次を喜ばせた。 しかし、その八日後の二十九日、田中は急死してしまった。
床次は当然自分にお鉢が回ってくるものと考えていたが、百五十名の代議士を擁する鈴木喜三郎派が これに対抗してまたもや内戦状態となった。
そこで隠居の形になっていた犬養毅をかつぎ出して暫定総裁にしようというので、小泉三申、岡崎邦輔、古島一雄(犬養の参謀長)、 内田信也らが動き始めた。
天皇の怒りをかった田中が総裁では、次の内閣は回って来ない、というので、犬養かつぎ出しは少し前から匂っていたのだが、 田中の急逝で、内田は犬養の代理として急遽京都の清風荘へ赴いた。
西園寺も、田中では政友会に首班は来ないと考えていたが、犬養の名前を聞くと、
犬養とは何事ですか? 犬養は常に元老制廃止を唱えていた男です。 今更こちの意見を訊くのはおかしいではおへんか」
と厳しい表情を示した。内田は、
犬養は、元老の西園寺公ではなく、元政友会総裁の公爵に御意見を承って来い、という意味で申したのです」
ととぼけて逃げた。
結局、西園寺の了解をとりつけたので、昭和四年十月犬養第六代政友会総裁となった
引用十月十七日、今度は陸軍のクーデター未発事件、「十月事件」が発覚した
主謀者はまたしても桜会のメンバーで、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎、北京駐在武官・長勇少佐らである。
まず桜会の将校百余人を動員し、これに歩兵十個中隊、機関銃一個中隊、爆撃機十三機をつけ、 首相官邸、陸軍省、参謀本部を襲撃する。 剣道の達人である長少佐が若槻首相幣原外相ら満州事変拡大に反対する閣僚を軍刀で斬殺する。 このあと東郷元帥閑院宮の応援を求めて、新国策推進の為の強力なる内閣を樹立する。 その主な予定メンバーは次の通りである。
首相兼陸相=荒木貞夫中将、内相=橋本欣五郎、外相=建川美次少将、蔵相=大川周明、警視総監=長勇少佐、 海相=小林省三郎少将(霞ヶ浦航空隊司令)。
中佐や少佐が国政の枢機を握ろうというところに、彼らの明治維新の志士を模倣した“昭和維新”の意気込みがうかがえる。
この計画は簡単に暴露し、荒木中将も反対で、説得する側に回り、橋本、長らは逮捕され、 やがて満州勤務などにとばされるのである。
十月事件天皇の耳にも入り、金谷参謀総長はまたしても叱られた。
桜田門事件
引用あけて犬養と政党内閣にとって宿命の年昭和七年。 一月八日観兵式の日、朝鮮系李奉昌が、代々木の式場から還幸になる天皇の自動車に手榴弾を投げた。 午前十一時四十分。天皇は無事で李は捕えられた。 いわゆる桜田門事件で、犬養内閣は午後五時辞表を提出した。 天皇の側近や重臣たちはこれに反対であった。 大正十二年の虎ノ門事件で総理をやめた山本(権)は早速犬養のところへ馳けつけ、 「あんときとは事情が違いもす。おはんは辞めることはごわはん」と犬養を激励した。
血盟団事件、井上準之助暗殺
引用二月九日、昭和に入って第二の暗殺事件が発生した。
本郷区駒込の小学校講堂へ選挙の応援演説に現れた前蔵相井上準之助が、小沼正の為に拳銃で射殺された。 小沼は一人一殺を唱える井上日召の血盟団の会員で、日召は“国家革新”の為君側の奸である重臣を除いて、 新しい天皇親政の日本を造ると主張していた。 井上のほか日召のリストに上っていた者は西園寺を筆頭に、池田成彬幣原喜重郎若槻礼次郎、徳川家達、牧野伸顕、伊東巳代治、 団琢磨犬養毅らで、それぞれ暗殺の担当者も決まっており、西園寺の担当は池袋正釟郎という男であった。
引用四月二十九日上海公園で行われた天長節の式場に朝鮮人が爆弾を投げこみ、軍司令官白川義則大将は間もなく死亡、 重光葵公使は片脚を失い、野村吉三郎中将は片眼を失った。
引用この日午後五時二十七日、一台の自動車が永田町の首相官邸にすべり込んで来た。 車から降りたのは、海軍の三上卓中尉、黒岩勇少尉、陸軍士官候補生三人である。
彼らは警護の村田巡査部長らを拳銃で脅すと日本間にいた犬養総理の前に現れた。 抵抗する田中巡査の腹部に弾丸を撃ちこむと、三上が犬養に拳銃を向けた。犬養は、
「あちらで話をしよう」
と将校たちを食堂の隣りの十五畳の日本間に案内した。
「話を聞こう」
と煙草を手にした犬養に、三上は、
「かつて張学良の倉庫の中から、学良が日本に送った大金の領収書が出て来たが、 その中には犬養総理のものもまじっていたという。事実はどうか」
と問うた。
「ああ、そのことか、それならば話せばわかる」
犬養がそう言ったとき、裏門から入っていた山岸宏中尉が、
「問答無用、撃て!」
と叫んだ。
黒岩が発砲し、犬養は左頬と右こめかみに二弾を受けて倒れた。 犬養は出血の為午後十一時二十六分死去した。
三上ら青年将校十八名は、その日の内に憲兵隊に自首した。
三上や山岸は井上日召の血盟団の同調者であるが、その大官暗殺の名目は“昭和維新”であり、 君側の奸を屠り、国民の敵たる腐敗した既成政党と財閥を倒し、新しい日本を創ることであった。
引用斎藤内閣退陣の直接の引き金となったのは帝人事件であるが、 それにはこの事件をでっちあげたといわれる検察官僚の親玉平沼騏一郎(枢府副議長)の陰謀にふれなければならない。
この年五月三日、枢密院議長倉富勇三郎が辞職した。 これまでは代々副議長が昇任していたので、副議長の平沼は大いに期待していたが、西園寺天皇が右傾化を案じておられることから 平沼を忌避して、前宮相の一木喜徳郎を推した。 平沼は薩閥系の右翼と関係があり、牧野平沼寄りであったが、このとき西園寺はリベラリストの本質を発揮して平沼をボイコットし、 憲法に明るいという理由で一木を推した。 結局、一木が枢相に任じられ、平沼は副議長にとどまった。 右翼による独裁の野望を挫かれた平沼はその報復として斎藤内閣の打倒を企み、 自分の子分である検事局の塩野季彦(国本社理事、林内閣第一次近衛内閣平沼内閣の法相)らに働きかけた。
九年一月、武藤山治が社長をしている時事新報が「番町会を暴く」という記事によって斎藤内閣のバックである財界グループの不正を暴露し始めた。 その一つが帝人問題である。帝国人絹会社は、鈴木商店系の会社で、業績が向上しつつあった。 当時、この会社の株式二十二万株が台湾銀行の担保に入っていたのを、 鈴木の大番頭金子直吉がこの買い戻しを計り、鳩山一郎、黒田英雄大蔵次官らを動かし、 そのあっせんを番町会の永野譲、正力松太郎らに頼んだ。 この為十一万余株の払い下げが実現したが、間もなく増資決定の為、同株は一株二、三十円の値上がりを見せた。
これが贈収賄の容疑を招いたとして、高木帝人社長、島田台銀頭取、永野、そして黒田次官、銀行局長大久保偵次らが検事局に召還され起訴された。 この為、新聞は大蔵省と斎藤内閣を攻撃し、内閣は七月三日ついに総辞職した。 しかし、十二年十月結審した帝人事件裁判の結果は全員無罪であった。 現在ではこの事件は枢府就任を阻止された平沼の怨念を示す、でっちあげのデッドボールであったということが明確になっている。
元老
引用伊藤の下で西園寺自身も創案に参画した大日本帝国憲法には、元老の規定はない。 そもそもの発祥は、明治二十二年(一八八九)十月、伊藤が条約改正問題のもつれで枢府議長を辞職したとき、 天皇から「たとえ職を辞したる後も宮廷を離るべからず、重要事件あらば諮問に答えよ」という勅語を賜わったことにある。 この直後、黒田内閣総辞職後の十一月二日、伊藤黒田の両名に対し「待ツニ特ニ大臣ノ礼ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」という“元勲優遇”の詔勅が下された。 ここに天皇の最高顧問的政治家としての元勲が、制度化するきっかけが作られた。 さらに二十五年七月松方内閣総辞職の直後、天皇伊藤黒田山県の総理経験者を招いて後継首相について諮問し、 結局伊藤が選ばれ、ここに元老による後継首班奏薦の慣例を作った。 以後の政変では諮問の対象は松方井上馨西郷従道大山巌に拡大され、元老は七名にまで増員された。 これが元老会議を形成し、元老則“総理製造人”というパターンが定着してゆくのである。
大正天皇の即位にあたり、存命中の山県松方井上大山の五人に対し、天皇から 「卿多年先帝ニ奉事シ親シク聖旨ヲ承ク。朕今先帝ノ遺業ヲ紹グニ当リ復タ卿ノ匡輔ニ須ツモノ多シ」という勅語が下され、 ついで十二月二十一日首相辞任直後の西園寺にも同様の勅語が下され、ここに大正期の元老制度が制度として固まって来た。 この後他の四人が次々に世を去り大正十三年の第一次加藤高明内閣成立のときは松方が重病の為奏薦権を辞し、 以後西園寺一人が元老として内閣製造人の役を果たして来た
引用翌四日午前十時西園寺によばれた近衛は宮内省に現れた。 『原田日記』によると西園寺の総理就任の申し出に対し、近衛は健康を理由として断った。珍しく西園寺は怒った。
「体の具合が悪いとは何事どす。(四十四歳の)あんたが健康のことをいうんなら、八十八歳のこちはどないなりますのや。 あんたが受ける受けないにかかわらずこちには奏薦の権限がおますのや。 こちは自分の信念によって奉答するよう決心してますさかい、このさい多少のことは辛抱して受けるのが当然やおまへんか!」
西園寺は京都弁丸出しで近衛を督励したが、椅子の上の近衛は長身を二つ折りにして顔面を蒼白にしてうつむいているだけであった。 眺めている原田も胸が痛い想いであった。 近衛首班は永い間唯一の公卿政治家として、軍部や政党と戦って来た老公の、最大にして多年描いていた夢であった。 しかし、近衛はそれを受けようとしない。 そこに示されているのは最愛の恋人に裏切られたような、貴族の老人性ヒステリーのようでもあった。
近衛の辞退にかかわりなくヒステリックになった西園寺は“信念”に従って、午後二時天皇に拝謁して近衛後継首班を奏請した。
この日(四日)午後四時、近衛天皇のお召しによって参内した。
天皇は、
「卿に内閣組織を命ず」
と大命降下を行った後、
「この際是非とも時局収拾の為に起ってもらいたい」
とつけ加えた。
近衛天皇の顔を仰いだ。 三十六歳の天皇は真剣な表情であった。 ご信任の厚さに彼はめまいを感じた。しかし、やはりこの際総理を引き受ける決心はつかなかった。
近衛は一旦御前を退出した後、一木議長と会いさらに次官室に西園寺を訪れ、辞意を表明した。 老公はあきれたようにこのいうことをきかない親不孝の息子を眺め、
「こちがあれほどいうたのに、わからんのか」
と苦り切った調子で言った。
陸軍、宇垣内閣成立阻止へ
引用この日、宇垣に大命降下の報が入ってから、陸相官邸では寺内梅津(次官)のほか磯谷軍務局長、中島(今朝吾)憲兵司令官、 阿南(惟幾)兵務局長、佐藤(賢)軍務課国内班長、石原(莞爾)参謀本部第一部長心得らが集まり、 宇垣組閣に協力すべきかどうかを論じていた。 カリスマ的な雄弁家、石原は“満州建国の生みの親”といわれていた自信と共に立ち上がって雄弁をふるった。
「今やわが陸軍は粛軍の途上にある。 派閥感の強い旧将軍の出現は適当ではない。 とくに三月事件におけるクーデター同調の嫌疑は粛軍工作上大いに考慮する必要がある。 また国防の充実を計らんとするときに当り、宇垣を首相に迎えることには大きな問題がある。 反対派の真崎が拘禁されて判決未定のときに、宇垣が内閣首班となるのは具合が悪い。 宇垣には政党、財閥との間にも、軍が唱える庶政一新と反する疑念がある。 この際断固として宇垣を忌避すべきである」
石原の大見得に寺内梅津は沈黙していた。 寺内は反宇垣ではないが宇垣びいきでもない。 他の将校たちには反宇垣の色が濃かった。 少々出しゃばりの気のある中島憲兵司令官は、
宇垣さんに危険があるといけないから上京をひかえてもらおう」
と伊豆長岡と連絡をとり、すでに松籟荘を発していることを知ると、京浜国道でこれを待つことにした。
引用は謹厳実直な人柄で、天皇家には忠誠無比、聖徳太子の十七条憲法を、日本民族最大の遺産、として信奉する人物である。 教育者としてはどうかも知れないが、非常時の宰相としてはあまりにもリアリティを欠いていたようである。 西園寺もこの総理の観念主義には批判する言葉もなく、「ちと古すぎるようですなあ」と興津で眉をひそめていた。
西尾末広除名
引用三月二十四日衆議院本会議でちょっとしたハプニングが起きた。 社会大衆党代議士西尾末広は、賛成演説に立ったとき、
「日本は未曾有の変革を為さんとしております。 明治天皇の五ヶ条の御誓文の中にも『旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし』と記されております。 近衛首相はこの精神をしっかりと把握されまして、もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、 かのヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべきであると思うのであります」
と演説し、日本が全体主義国家的な道をとるべきことを主張した。 しかし、共産主義ソビエトの指導者スターリンを手本にせよというのは怪しからん、というので西尾は懲罰委員会にかけられ除名された。 (翌年の補欠選挙で返り咲くことになる)
近衛新党構想
引用八月下旬、近衛を総裁とする総合的な新政党を作って国家総動員時代の国政を政府の思い通りに運営してゆこうという “近衛新党”運動がもちあがってきた。
中心となって動いたのは秋山定輔(元代議士、孫文や宮崎滔天ら大陸浪人と親しく政界の黒幕的存在)や 小川平吉(元代議士、田中義一内閣の鉄相、私鉄疑獄事件に連座して懲役二年の刑をうける。出獄後は日華和平工作に関係する)らである。 その構想は政友会、民政党のほか陸海軍、財界、右翼の主だった人物を集めた一国一党の新団体で、 小川らは久原、前田(米)、頭山満らに接触し、さらに真崎小磯、建川らの将官、中島知久平、桜内幸雄らにも呼びかけた。 例によって近衛は初めは乗り気であったが、九月下旬宇垣外相が辞意を表明し、十月漢口攻略の後、 高宗武(国民政府亜州司長)を通じるとの和平工作が成功しそうになると、彼は講和の段取りが出来た段階で辞職することを考え始め、 十一月に入って「東亜新秩序建設」の第二次近衛声明を出した頃には新党構想を放棄するようになっていた。
宇垣外相辞任
引用九月三十日宇垣は僅か四ヶ月で外相を辞任した。 理由は陸軍が推進した対支院(後に興亜院、大東亜省に発展)を設置することに近衛が賛成したからである。 対支院は総理直属の機関で、これが出来ると対中国外交は外務省の手を離れて多分陸軍の思い通りになってしまう。 これは外交の一元化を理由として外相をひきうけた宇垣にとっては、近衛の裏切りとしか思えなかった。
平沼内閣時の三国同盟問題
引用三国同盟は、対ソ防衛、日中戦争の早期終結、アメリカへの牽制という三つの狙いから主として陸軍の要望で推進されたもので、 平沼内閣では主として五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)でこの成否が論ぜられた。 海相米内は、ヒトラーの政略に危機を感じ、この同盟を結ぶと必ずアメリカが敵に回ると考えて終始強く反対した。 五相会議では盛岡中学で三期後輩であった板垣を“征ちゃん”と少年時代の呼び方で呼んで牽制した。 征ちゃんの方も、中学時代柔道部の猛者であった“光つぁん”を説得するのに困難を感じた。
また、海軍省では次官の山本五十六、軍務局長の井上成美ががっちりとトリオを組んで、 暗殺の危機にさらされながらも三国同盟反対の線を守り切った。
同盟推進は例によって陸軍の青年将校であるが、大島駐独、白鳥駐伊という二人のファシストの大使も懸命に話をすすめ、 大島はいかにも日本政府が全面的に賛成しているようなことをリッベントロップに言って、日本側の信用を失うことが多かった。
引用阿部は陸士九期で杉山より三期、板垣より七期先輩である。 【中略】 本庄繁、荒木真崎らと同期で、 参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長を経て、浜口内閣当時宇垣陸相の下で次官を勤めたことがある。 金沢の出身でまじめで地味な人柄であった。
引用純忠一途の古武士的硬骨漢で、米内内閣の生みの親であった。
新体制運動
引用三月下旬から盛り上がって来た近衛新党運動は、六月中旬最高潮に達し、二十四日近衛枢府議長を辞し、 新党総裁として次期政権を担当する意欲を示した。 加盟を予想されるのは政友会久原派、中島派、民政党永井派、社会大衆党麻生派ら百余名の代議士で、 すでに三月二十五日「聖戦貫徹議員連盟」を結成していた。 新党の目的は、日華事変の解決、破竹の進撃をみせるドイツとの協調、三国同盟の締結、ナチス流の一国一党組織の結成で、 表面上軍部の勢力を抑えるのが目的という者もいたがそれは無理で、 むしろ陸軍に便乗して利益を得ようと考えている者も少なくなかった。
陸軍、米内内閣に総辞職を勧告
引用米内の人柄に親しみを感じていた畑陸相閑院宮の指令には抵抗出来ず、七月九日米内に会って内閣を近衛に渡すことを勧告した。 予想していた米内は「我々はベストを尽くしているが、 譲るべき理由があれば近衛公に限らず誰にでも譲る」といって譲るべき時期の確言を避けた。
十一日には、阿南武藤がそろって石渡書記官長を訪れ、「近衛新体制を実現する為やめてもらいたい」と申し入れ、 石渡が拒否すると、二人は、
「では陸相をやめさせるよりほかに道はない」
とすてぜりふを残して帰った。
引用七月十二日、米内を訪問して次の三ヶ条の要望を手渡した。
一、現情勢においては独伊と手を握り、大東亜を処理するの方針に出るの要あるべし。
二、現内閣にては外交方針の大転換困難なるにつき、より善き内閣の出現を前提として辞職しては如何。
三、自分は部下の統率上非常に困難なる立場にあり。 また益々困難を来す状況に立至るべきを憂慮す。
の表情は暗かった。 彼は米内倒閣に賛成ではない。 しかし今や青年将校たちは閑院宮までも動かして倒閣、三国同盟締結に盲進しようとしている。 謹直なにはそれを抑える政治力がなかった。 かつては米内の同郷の板垣が青年将校に突き上げられて米内三国同盟を迫ったが、 今度は自分の番であった。 の胸中には寂寥感が吹き抜けていた。
十四日、天皇木戸に伝えた。
「朕の米内内閣に対する信頼は今も変ってはいない。 国外の情勢によって内閣の更迭を見るのはやむを得ないと思うが、自分の気持は米内に伝えてもらいたい」
七月十六日午前九時、畑陸相は首相官邸に米内を訪れて内閣総辞職について再度勧告した。 暑い日であった。 天井の扇風機の鈍い音が余計に首筋の汗を誘った。 米内は去る十二日が申し入れた三ヶ条について慰留してを返したのであるが、 陸軍報道部がそれから間もなく、の懐中に入っていた筈の三ヶ条を内閣に何の相談もなく新聞に発表してしまった。 ここまで陸軍の傍若無人の振舞いを見ては米内としても黙ってはいられない。 米内はいつもになく厳しい態度になって、(の回想による)
「いやしくも大命を奉じて内閣を組織した以上は大義名分がなければ、陛下の前に出て御暇を頂戴するとは言えない。 しかし、陸軍大臣はもはや他に方法なしとして辞表を出すのならば、後任を推薦してもらわねばならぬ」
と強い口調で言った。
連日の苦悩には憔悴していた。 が自殺するのではないか、と米内は心配していた。
「後任については三長官に計りますが、極めて困難と思われます」
はそう言って官邸を出た。 三長官といっても一人は陸相の、残りは張本人の閑院宮参謀総長、 いま一人の教育総監山田乙三(十四期で終戦時関東軍司令官としてソ連に抑留さる)はすでに了解ずみであった。
米内は憮然とした表情での後ろ姿を見送った。 陸軍は最後の良心もその野望のもとに汚してしまったのである。
新体制準備委員会発足
引用八月十五日最後に残った民政党も解党を宣言して日本政界は無党時代に入り、 新しい一国一党・大政翼賛会の発足を待つばかりとなった。
八月二十三日新体制準備委員会が発足し、富田健治、武藤章(陸軍省軍務局長)、阿部勝雄(海軍省軍務局長)、 後藤隆之助らが常任幹事となって近衛新体制を推進することとなった。
皇紀2600年奉祝式典
引用皇紀二千六百年といっても戦後育ちの若い人にはわかるまいが、 神武天皇即位の年を西暦の紀元前六六一年とし、それを元年とする暦年法で、 この年一九四〇年は二六〇〇年に当るというのが皇国史観による計算である。 ちなみに、零式戦闘機の零式はこの年に採用された飛行機であることを示す。
この日は皇居前に両陛下が出御し、五万人が参列して君ヶ代を合唱した。 これが大日本帝国の最後の大きな祭典で、町では飲食店で昼酒が許可された。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「馬場瑛一」の「瑛」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。