「日本の近代(9) ― 逆説の軍隊 ―
参考書籍
著者: 戸部良一(とべ・りょういち)
発行: 中央公論新社(1998/12/10)
書籍: 単行本(366ページ)
定価: 2400円(税別)
目次: プロローグ―解体
1 誕生
2 成長
3 爛熟
4 変容
エピローグ―自壊
補足情報:
本巻は、明治期から軍隊の成長と近代化の過程を追跡し、それがなぜ変容をきたしたのかの原因を探り、 実際にどのように変容したのかを解明する。 その解明は、軍事組織だけでなく、それと社会との関わりを通してなされるだろう。(プロローグ)
この本を入手
二個師団増設問題
引用ところが、間もなく事態は急変する。 変わったのは海軍をめぐる状況であった。 一九〇六(明治三十九)年末にイギリスで竣工した最新鋭戦艦ドレッドノートが、 その圧倒的な砲力と速力とによって、現有の戦艦を一挙に旧式化してしまったのである。 このいわゆる弩級戦艦、さらにその性能を上回る超弩級戦艦の出現により、 日本海軍の実勢力は著しく低下した。 海軍は世界の急速な技術革新に追いつくため、あらためて軍拡計画を練り直し、 これを政府に要請することになる。
海軍の軍拡は陸軍を刺戟する。 そのうえ、シベリア鉄道複線化が進捗しており、満州へのロシア軍輸送能力が飛躍的に向上すれば、 その脅威も高まると判断された。 一九一〇(明治四十三)年の韓国併合、翌年の中国の辛亥革命勃発によって、 大陸で陸軍の果たすべき役割は拡大したと論じられた。 陸軍は、国防方針に規定された師団増設(増師)計画達成を急がねばならないと主張し、 従来の一九箇師団に加えて、朝鮮に駐屯すべき二箇師団の増設を要求するのである。
引用防務会議はその後ほとんど機能を停止した。 それに代わり軍事・外交を含む国策全般の統合・調整をはかるために、 寺内内閣時代の一九一七(大正六)年に設置されたのが外交調査会(正式には臨時外交調査委員会)である。 外交調査会は天皇に直隷して宮中に置かれ、その意味で内閣の上位機関とみなされた。 また、首相を総裁とし、委員を現職の国務大臣や大臣経験者から選出したが、 そこには、大臣経験者として原敬(政友会総裁)と犬養毅(国民党総裁)が加えられた。
外交調査会と軍との関係について、雨宮昭一氏の分析から注目すべき点を紹介してみよう。 まず、政党指導者が国務大臣経験者という資格で委員に選出され、国家の最高レベルでの対外国策の決定に関わった。
次いで、外交調査会は、対外国策に関連した軍事問題にも関与し、 しばしば軍の方針や行動を抑制した。 たとえば、ロシア革命の勃発に際し、陸軍がシベリア出兵に傾いたのに対し、 外交調査会は外交的・財政的見地からそれにブレーキをかけた。 アメリカから共同出兵の提案があったとき、陸軍はアメリカが申し入れてきた限定出兵に拘束されないことを主張し、 政府もこれに同調的だったが、外交調査会ではなどがアメリカ案に応じて 作戦目的、作戦地域、作戦兵力を限定すべきだと強調した。
ちなみに当時、参謀本部の作戦部長だった宇垣一成は、これについて次のように批判している。 「兵を知らざるの輩が無意味に兵力を制限し、或は所要の経費を限定するとか、 用兵の方面時機等も内外の鼻息に依りて決定する等、実に言語道断」と。 【中略】 なお、参謀総長の上原勇作も、 政府や外交調査会の態度を統帥権独立の侵犯であると非難し、 最終的には慰留されたものの、一時は辞表を提出して抗議した。
最後に、シベリア撤兵の過程では、寺内内閣に代わった原敬内閣が、外交調査会の存在を巧みに利用して、 政府の方針を実行に移した。 閣議で決定した段階的撤兵方針を外交調査会で承認させ、それを陸軍に押しつけたのである。
引用この時期はロシアの脅威が少なくとも一時的には大幅に軽減し、 海軍軍縮の成功によりアメリカとの衝突の可能性も当面あり得なくなった。 日本に直接大きな脅威を与える国は見当たらなかった。 そうした状況下で海軍が大規模な軍縮に着手している以上、 陸軍としても軍縮要求にまったく耳を貸さないでいることは許されなくなる。
ついに一九二二年、加藤友三郎内閣の陸相山梨半造(旧八期)は軍縮に踏み切り、 翌年にも小規模の軍縮を実施した。 この二回のいわゆる山梨軍縮は、約六万人の将兵、一万三〇〇〇頭の馬を削減するものであった。 これ対しては、しかしながら、不徹底であるとの批判が強かった。 一九二三年、関東大震災が起こると、政府はその復旧・復興を優先すると同時に、 行財政整理を実施しようとする。陸軍軍縮はその一環としてあらためて提起されることになった。
引用一九二四年、加藤高明内閣の与党、護憲三派では、 憲政会が七箇師団削減、政友会が六箇師団削減、革新倶楽部が一〇箇師団削減を主張し、 三派の統一案として六箇師団削減、在営期間の短縮、軍部大臣武官制の廃止という合意を成立させた。 万一軍部大臣が武官でなくなったならば、政党の軍に対する優位と圧力は、より強くなるだろう。 この意味で、軍部大臣武官制の廃止要求は軍縮圧力とも微妙に連動していたのである。
こうした政府内外の軍縮要求に応えるかたちで一九二五年に陸相宇垣一成によって実施に移されたのが、 四箇師団削減を内容とする軍縮である。 三度の軍縮の結果、日本陸軍は平時兵力の約三分の一を削減した。
引用宇垣は、常設師団を削減するかわりに、戦時動員を考慮して、 そのための布石を打った。 その一つが、一九二五(大正十四)年四月から実施された中学校以上の諸学校での現役配属将校による軍事教練である。 この教練の検定に合格すれば、徴集された場合の在営期間が通常の二年から一年に短縮され、 予備役将校となる幹部候補生の資格が与えられた。 師範学校卒業者の短期現役制は、かつての六週間から一九一八年以降、一年間に延長されていたが、 これも教練の検定に合格すれば五ヵ月に短縮された。 こうした措置は、戦時の動員に備えて多くの予備役将校を育成するためだけでなく、 師団削減によってポストを減らされた現役将校の救済のためでもあった (一九二五年末の配属将校は一〇〇〇人を超えている)。
引用大戦末期の一九一八(大正七)年に開始されたシベリア出兵では、 派遣兵力が最大時には七万三〇〇〇、のべ二四万にも及び、国際的悪評以外に何の得るところもなく、 九億円の戦費を費やし三〇〇〇の戦死者を出して、ようやく一九二五年に撤兵が完了した。 したがって、それだけですでに軍に対して強い批判が向けられるに十分だったのだが、 これに加えて軍紀違反が多発したため、さらにいっそう陸軍批判が強まった。 もともと軍紀違反は朝鮮、満州、天津など外地駐屯部隊で目立ったが、 無名の師(大義名分のない出兵)と言われたシベリア出兵では、軍紀弛緩が避けられず、 そのため軍人の非行が多く発生したのである。
原暉之氏や吉田裕氏の研究で紹介されているところによれば、 下士官や兵卒で出兵目的を理解している者は少なく、官費の満州旅行気分の者が多いとの批判があるほど士気は低かった。 初級将校の出す理不尽な命令に不満を漏らす兵がいると、それをすぐ社会主義者だと決めつける傾向があった。 逆に、部下の反抗をおそれて、その機嫌を取る将校もあったという。 ある機関銃隊では、中隊長が兵を殴ったばかりに、中隊全員のリンチを受け重傷を負うという事件が発生した。 こうした軍人の非行、軍紀違反の事実はやがて噂として国内にも伝わり、 陸軍批判の材料となったのである。
引用軍人の跋扈、のぼせ上がった態度をよく示しているのが いわゆるゴー・ストップ事件である。一九三三年六月、大阪天神橋の交差点で、 信号を無視して車道を横断しようとした兵卒に交通巡査が注意したところ、 この兵卒が注意を無視し反抗的態度を示したため、巡査が彼を派出所に連行し、 そこで両者の間に小突き合いが生じた。これが事件の概要である。
問題はこのあとである。 兵隊が警官にいじめられていると受け取った見物人の一人が憲兵隊に電話し、 憲兵はこの事件を軍人に対する侮辱であり、「皇軍の威信」に関する重大問題であるとして、 兵卒が所属する第八連隊と第四師団に報告した。 第四師団は大阪府に謝罪を要求するという態度を表明し、それによって今度は府側が態度を硬化させ、 しかも新聞が事件とそれをめぐる軍と府との対立を大々的に報じた。 兵卒は巡査を告訴するに至った。 やがて兵庫県知事が調停に乗り出し、それによってようやく騒ぎがおさまったのは同年十一月、 事件が発生してから五ヵ月を経過していた。
兵卒と巡査のどちらが先に手を出したのか、この場合それは問題ではない。 いずれにしても、非は交通法規に違反し巡査の注意を無視した兵卒にあった。 それなのに、この微々たる事件を「皇軍の威信」に対する侮辱であるとして、 憲兵隊や師団が問題にすることが異常であった。 こうした事件の扱い方に、当時の軍人ないし軍隊ののぼせ上がった態度を、かなりはっきりと見ることができよう。
桜会
引用桜会をつくったのは、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎(陸士二三期)中佐である。 橋本は、トルコ駐在武官を務め、ケマル・アタテュルクのトルコ革命に共鳴していた。 桜会の会員は中佐以下に限られ、陸大出身で省部(陸軍省と参謀本部)に勤務する少壮エリート将校十数名によって発足したが、 発足後一年足らずの間に一〇〇名前後に膨れ上がった。 単なる修養・研究グループではなく、国家改造を目指して横断的に結合した、 本来、軍組織では許されないはずのグループであった。
引用一九二一(大正十)年十月、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐(一六期)が、 陸士同期生でロシア駐在武官(ロシアに入国できずベルリン滞在中)の小畑敏四郎少佐、 スイス駐在武官の永田鐵山少佐とドイツの保養地バーデン・バーデンに会し、 陸軍の革新に向けて同志を募り協力することを誓い合った。 その革新とは、派閥を解消して人事を刷新すること、軍制改革を進めて総動員体制を確立すること、であったとされる。 当時ドイツには東條英機少佐も滞在していたので、彼もこの同志に加わったという。
はたして、この会合がそれほど画期的なものだったのか、またそこで盟約と呼ばれるほどのものが取り決められたのか、 これはいささか疑問である。 筒井清忠氏が指摘するように、彼らは以前から軍の革新の必要性を語り合っていただろうし、 ドイツでの会合も海外に勤務する同期生が久しぶりで会って語り明かしたという程度のことだったのだろう。 ただ、この三人あるいは東條を加えた四人が、帰国したあと同志を集めて陸軍革新の動きの核となったことは間違いない。
引用一九二九年五月、二葉会と木曜会は合同して一夕会が結成される。 陸士一四期から二五期まで、四〇人ほどのグループであった。 一夕会はその方針として、陸軍人事を刷新し諸政策を推進する、満蒙問題解決に重点を置く、 荒木貞夫(九期)、眞崎甚三郎(九期)、林銑十郎(八期)の三将軍をもり立てて陸軍を改革する、 という三項目を申し合わせた。
引用省部の中堅幕僚層が目指したのは、言うまでもなく、総力戦を戦うための国家システム、 いわゆる総動員体制の構築である。 その概略は、一九三四(昭和九)年十月、陸軍省新聞班が公刊したパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」に、 簡潔に描かれている。
このパンフレットは「たたかいは創造の父、文化の母」という戦争賛美の文言で悪名が高いが、 その中心部分は次のような箇所である。
須らく国家の全機構を、国際競争の見地より再検討し、財政に経済に、外交に政略に、 将た国民教化に根本的の建て直しを断行し、皇国の有する偉大なる精神的、物質的潜勢を国防目的の為め組織統制して、 之を一元的に運営し、最大限の現勢たらしむ。
これが陸軍の言う「広義国防」であり、「高度国防国家」の在り方であった。
引用一九三八(昭和十三)年夏、朝鮮とソ連の山岳国境地帯、 張鼓峰でソ連国境守備隊が国境線を越えたと見られたとき、陸軍はいわゆる威力偵察を試みている。 つまり、ソ連側に介入の意図があるかどうかを見るために兵力を限定して(戦車や飛行機は使わずに)挑発、 攻撃したのである。 結果は惨憺たる敗北であった(いわゆる張鼓峰事件)。 ただ、かなりの犠牲をはらってではあったが、 ソ連が当面事変に介入する可能性は低いということだけは何とか確認できた。
引用ノモンハン事件とは、満州国とモンゴルとの国境線が曖昧なホロンパイルの草原で、 一九三九(昭和十四)年五月モンゴル軍と満州国軍とが衝突したことをきっかけに、 関東軍がモンゴル軍及びソ連軍に対して 独断専行的に戦いを挑み、完膚なきまでに敗れた事件である。 当時ソ連はモンゴルと同盟を結び、同国防衛のために軍隊を駐留させていた。 満州国と日本との関係に、やや似ていたと言えるかもしれない。
八月下旬まで断続的に続いた戦闘で、ソ連軍が投入した圧倒的な兵力と、強力な砲兵および戦車の前に、 広漠とした草原の国境地帯で戦った関東軍は壊滅的な打撃を被った。 七月以降の日本側の参加兵力約六万、戦死約八〇〇〇、戦傷・戦病・生死不明約一万二〇〇〇であった。 主力の第二三師団では、人員一万六〇〇〇のうち戦死・戦傷・戦病が一万二〇〇〇を超えた。 連隊長クラスでも戦死、あるいは戦場での自決が相次いだ。 ソ連軍・モンゴル軍も苦戦し相当の犠牲を出したことは事実だが、日本側が受けた打撃はそれをはるかに上回った。
ノモンハン事件の発生と敗北には、いくつかの要因が重なっている。 大本営の指示が不明確であり、そこを関東軍の少壮幕僚、とくに辻政信少佐(三六期)と 作戦主任の服部卓四郎中佐(三四期)とに衝かれてしまった。 らは、ソ連軍の国境侵犯再発を防止するためには、ここで一撃を加えるべきであると強く主張し、 大本営を一時欺いてでも、武力発動に訴えようとしたのである。 またしても、現地軍の独断専行と下剋上であった。
ソ連側が本格的な反攻に出てくるという情報がないわけではなかったが、 どれも真剣には取り上げられなかった。 ソ連軍に関東軍の力を思い知らせて国境侵犯を繰り返させないという目的を、 らは何よりも優先したからである。 作戦優先、情報軽視という、これから何度でも繰り返されるパターンが始まっていた。 それに、ソ連軍の能力が過小評価されていた。 たしかに数のうえでは兵力は多いが、数的優位は必ずしも戦力の優位を意味するとは限らない、と判断された。
実際には、兵力だけでなく、兵器の質と量でもソ連側が優位にあった。 それがとくに顕著だったのは火砲と戦車である。 兵站、機動力もソ連側が上回った。 日本軍の戦車は敵陣地の機関銃を黙らせ歩兵の攻撃を援助する(歩兵直協)ためにつくられた軽戦車あるいは中戦車であり、 戦車と戦うことを想定してつくられたソ連軍の重戦車に対抗できなかった。 ソ連軍の戦車に対して、当初有効だったのは、速射砲と火炎瓶である。 対戦車兵器として最も活躍したのが火炎瓶だったというのは、ノモンハンでの日本軍の実態をよく象徴している。 だが、事件の後半段階ではソ連軍の対処策により火炎瓶の効果もなくなった。
引用ガダルカナルの戦いは、大東亜戦争の陸戦のターニング・ポイントと呼ばれる。 そこで日本陸軍は初めてアメリカ軍と本格的に戦った。 ガダルカナルとは、南西太平洋のソロモン諸島の南部に位置する島で、 日本から直線距離にして四〇〇〇キロメートル以上も離れている。 そんな当時でさえ誰も知らないような島で日米両軍の死闘が繰り広げられたのは、以下のような経緯による。
一九四二(昭和十七)年八月、日本海軍は、アメリカとその反攻基地オーストラリアとの連絡を遮断するための作戦で、 ガダルカナルに飛行場をつくった。 アメリカ軍は、その飛行場がオーストラリアに及ぼす脅威を重視し、これを奪い取ってしまう。 それを奪回するために日本陸軍の部隊が数次にわたって派遣され、その都度奪回作戦が試みられるのだが、 どれも失敗して、翌年二月ついに撤退を余儀なくされる。これがガダルカナルの戦いのあらましである。 ガダルカナルに上陸した約三万の将兵のうち、撤退できたのは一万あまり。 戦死者二万一〇〇〇のうち、戦闘で斃れたのは五〇〇〇ほどで、 あとは病死あるいは餓死だったと言われる。「餓島」という表現は、その戦いの実相をよく言い表している。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。