「失敗の本質 ― 日本軍の組織論的研究 ―
参考書籍
著者: 戸部良一(とべ・りょういち)
寺本義也(てらもと・よしや)
鎌田伸一(かまた・しんいち)
杉之尾孝生(すぎのお・たかお)
村井友秀(むらい・ともひで)
野中郁次郎(のなか・いくじろう)
発行: 中央公論社(1991/08/10)
書籍: 文庫(413ページ)
定価: 円(税別)
初版: ダイヤモンド社(1984/05)
目次: はしがき
序章 日本軍の失敗から何を学ぶか
一章 失敗の事例研究
   1 ノモンハン事件―失敗の序曲
   2 ミッドウェー作戦―海戦のターニング・ポイント
   3 ガダルカナル作戦―陸戦のターニング・ポイント
   4 インパール作戦―賭の失敗
   5 レイテ海戦―自己認識の失敗
   6 沖縄戦―終局段階での失敗
二章 失敗の本質―戦略・組織における日本軍の失敗の分析
三章 失敗の教訓―日本軍の失敗の本質と今日的課題
補足情報:
今日の繁栄を維持していくうえで、大東亜戦争の経験はあまりにも多くの教訓に満ちている。 戦争遂行の過程に露呈された日本軍の失敗を問い直すことは、 その教訓のかなり重要な一部を構成するであろう。 失敗の実態を明らかにしてその教訓を十分かつ的確に学びとることこそ、 平和と繁栄を享受するわれわれに課された責務の一つであり、 将来も平和と繁栄を保持していくための糧ともなるであろう。(はしがき)
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ソロモン海戦A
引用米軍は日本軍のつくった飛行場を二〇日から使用し始めた。 ガダルカナル島付近の制空権は米軍の手に落ち、一木支隊の第二梯団はガダルカナル島に接近できず、 上陸は二五日に延期された。 このため、連合艦隊は、二四日、米機動部隊を鎮圧すべく出動し、 ここに「第二次ソロモン海戦」が起こった。 結果は、米航空母艦「エンタープライズ」大破、日本側は空母「竜驤」沈没。 そして、一木支隊第二梯団を護衛していた第二水雷戦隊の一部は損害を受け、 西北方に退避せざるをえなかった。 この海戦は、日米機動部隊同士が航空攻撃に終始した海空戦であったが、 双方ともに不徹底に終わった。 しかしながら、この海戦以後ガダルカナル島への輸送は、 昼間の輸送船による大規模増援から夜間高速を利用した駆逐艦による逐次連続輸送、 すなわち“ねずみ輸送”に切り替えることになった。
かくして、ガダルカナル島への兵員、武器、糧食の輸送は大型輸送船では不可能となり、 駆逐艦などの高速艦による輸送に切り替えられた
川口少将解任
引用川口少将は、一〇月一九日二見参謀長に代わった宮崎周一参謀長(在ラバウル)からの、 「ルンガ飛行場南側面の敵防禦の強化状況は、空中写真を見ても明らかであるので、 陣地攻撃の準備に遺漏のないように」という趣旨のメモと敵陣地航空写真を受け取ったときに、考えが揺らいだ。 第一線師団はすでに機動を開始していたが、同少将は、今回の突入路はさきに失敗したエドソン高地と同一の個所であったので、 「之では金城鉄壁に向かって卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ。 私は悩んだ。私はこの陣地を避け、遠く敵の左側背に迂回攻撃しなければならんと思った」(川口手記)。
川口少将は、二二日丸山道の分岐点で辻参謀と会ったので、正面攻撃を避けて左側背への迂回の意見を述べ、 第二師団長への伝達を依頼した。 川口は、辻参謀に話したことにより師団長の認可を得たものと信じ、 二三日迂回行動をとろうとしていたとき師団参謀長から電話がかかった。 攻撃開始が一日遅れるので、当初予定どおり正面攻撃をやるべし、という指令を受けた。 川口は、「正面攻撃は部隊長として責任を負い難い。 何卒もう一度師団長に私の案を申し上げてお許し願いたい」と答え、電話を切って待機した。 約三〇分後にかかってきた電話は、「閣下は右翼隊長を免ぜられました。 後任は東海林大佐です」というものであった。 かくして、川口少将は総攻撃直前に罷免になった。
『戦史叢書』によれば、この罷免については、当時軍戦闘指令所では全然関知せず、 師団長、参謀長、辻参謀の間で取り扱われたもののようである、といわれている。
牟田口軍司令官の作戦思想
引用牟田口は、第一八師団長当時、 作戦地域の困難を指摘して二一号作戦に反対した。 しかし彼が第一五軍司令官に就任したとき、彼の判断は一八〇度の転換をとげていた。 すなわち、連合軍の三正面からの総反抗準備が進んでいるとの情報を得、 ウィンゲート旅団の挺進作戦を見た彼は、従来の守勢的ビルマ防衛ではなく、 攻勢防禦によるビルマ防衛論を唱えたのである。 彼の判断によれば、ウィンゲート旅団の行動からしてジビュー山系に設定した現在の防衛第一線ではもはや安全ではないので、 これをチンドウィン河の線まで推進する必要があるが、 チンドウィン河ですら乾季には敵の進攻に対する障害とはなりえず、かつ防衛正面も広くなるので、 むしろこの際初めから攻勢に出、連合軍反抗の策源地インパールを攻略すべし、というのであった。
しかし、彼の構想は攻勢防禦によるビルマ防衛という軍事的判断だけにとどまるものではなかった。 彼の構想は単なるビルマ防衛を超え、インド進攻にまで飛躍した。 彼は第一八師団長当時に二一号作戦に不同意を唱えたことを、「必勝の信念」に欠けた態度であり 軍の威信を汚す結果となったと反省し、今後はけっして消極的な意見具申を行なわず積極的に上司の意図を体して その実現を図ろう、と決意していた。  【中略】 二一号作戦は明確に中止されたのではなく単に実施を保留されていただけであったから、 牟田口としては、その実施に備えることは当然、上司の意図を体するものとみなされたのである。
さらに、彼のインド進攻論には、個人的な心情もからんでいた。それは、 盧溝橋事件の当事者(連隊長)であった自責の念に基づき、次のような内容をもつものであった。

私は盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。 もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることができれば、 今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つであろう。

牟田口がアラカン山系への防衛線推進構想からインド進攻論へと飛躍することを最も強く支えたものは、 このような彼の個人的心情であったかもしれない。
台北会議(一兵団抽出問題)
引用八原大佐は、自軍のためには熱心であるが大局的考察の足りない市川発言に 一矢報いたいと思った。 比島決戦が失敗に終わった場合の台湾と沖縄との戦略的な価値に関する判断は、当然論議の焦点となる問題だった。 しかし、彼は沖縄出発の際、長参謀長の「沈黙を守れ」という訓示を思い起こし、一切の発言を控えた。 戦後、八原大佐は「軍の運命を決するこの重大な会議に、一言もいうべきことをいわなかった自分の態度に、 なんとなく悔恨の情が残る」と述懐している。
会議は夜半に及んだが、八原大佐が第三二軍の所信を、市川大佐が第一〇方面軍の希望を 各々開陳したにとどまり、積極的な論議はなんら相互に行なわれることなく、 台北会議は要領を得ないうちに終わってしまった。
沖縄本島から一兵団を抽出することは、第三二軍に対し、重大な影響を与えるものであった。 しかし、服部大佐はとりつくしまもない八原大佐の態度に憤懣を感じ、台北会議の積極的な運営に意を用いず、 条理を尽くして意思の疎通を図る努力を尽くさなかったといわれている。
さらに第三二軍の親部隊である第一〇方面軍の諫山参謀長の会議における不明確な態度と、 市川作戦主任参謀の台湾防衛の必要性のみを強調する発言は、統帥上の不信感を残した。 すなわち、第一〇方面軍は、自己の裁量で沖縄から一兵団を台湾に転用させることができないため、 大本営の威を借りて兵力を増強しようとしているという印象を第三二軍に与えた。
結局、台北会議は、会議そのものが要領を得なかったに加え、 大本営、第一〇方面軍の統帥に対する不信感を第三二軍に醸成させるモメントを与えることになってしまった。
第84師団派遣中止
引用昭和二〇年一月一六日、大本営の新作戦計画では、 沖縄へは姫路所在の第八四師団を後詰めとして派遣することになった。 しかし、同時に、内地にいる師団はすべからく本土決戦のため温存されるべきであるとの見解も根強いものがあった。
大本営陸軍部は、新作戦計画に基づき第八四師団を沖縄へ派遣することの内奏を終わり、 一月二二日第八四師団派遣の内示電報を第三二軍に打電した。 しかし、派遣内示の電報発信後、ガダルカナル島で苦杯をなめ離島防衛の至難性を知悉し、 かつ熱烈なる本土決戦論者であった宮崎作戦部長は、第八四師団の派遣問題について熟考したすえ、 「沖縄への海上輸送の危険を知りながら、たとえ約束があったとしても、 一兵たりとも惜しい本土防衛力をみすみす海没の犠牲にすることは忍びない。 統帥上の悪影響を及ぼすことも十分想像されるが、この際は一切を忍んで派遣中止すべきである」との結論に達した。 翌朝、参謀総長梅津美治郎大将に対し、宮崎作戦部長は意中を開陳し、第八四師団の派遣中止の意見具申をした。 梅津参謀総長は、「君の信ずるとおりにせよ」と意見具申を採用した。 宮崎部長は、ただちに第三二軍に対し、第八四師団の派遣中止を打電した。
第三二軍の喜びは一夜の夢でしかなかった。まさに朝令暮改の典型であった。 宮崎部長の戦後の回想によれば「どんな批判でも甘受する覚悟で、この決意に到達した」という。 たしかに宮崎中将は、自己の所信を貫徹することによって、参謀総長を補佐する大任を果そうとした。 しかし、作戦指導の連続性という観点からすれば、最高方針の唐突な変更が与えた影響も小さくはなかった。
このような唐突な意思決定の変更が行なわれえたのは、宮崎中将が新任の作戦部長であり、 それまでは中国大陸の第六方面軍参謀長であったので、中央とは密接な関係がなく、 従来からのいきさつやしがらみに拘束されない白紙の立場で臨むことができたからであろう。 しかし、派遣中止に至る経緯がどうであれ、この問題は重大な後遺症を残した。 すなわち、第九師団の転用に釈然としていなかった第三二軍首脳部の、 大本営を含む上級司令部に対する不信感をますます助長したのであった。
引用四月一日早朝から米軍は、戦艦一〇隻、巡洋艦九隻、駆逐艦二三隻、 砲艦一一七隻を含む一三〇〇隻以上の各種艦船をもって、沖縄本島の嘉手納海岸に対する上陸作戦を展開した。 米軍の予期に反して、日本軍の抵抗は微弱なものであり、米軍戦史は、「驚き、迷い、そして安心して、 上陸波は実質的に抵抗のない所に上陸した」と描写している。
攻撃波は、順調に上陸し、一時間もたたないうちに、四個師団が並列して一万六〇〇〇名以上の将兵を上陸させた。 引き続き戦車部隊も上陸した。 米軍は、むしろ無気味さのために慎重な敵情偵察を重ねたが、やがて日本軍の奇計ではないことが判明するや、 攻撃前進に拍車をかけた。
昼頃までに米軍は、嘉手納(中)飛行場と読谷(北)飛行場を占領し、日没までに正面約一三・五キロメートル、 縦深約四・五キロメートルの地積に橋頭堡を確保した。 米軍の第一日の上陸兵力は約六万名を超え、師団砲兵はすべてが揚陸を完了した。 この日の米軍の損害は、戦死二八、戦傷一〇四、行方不明二七にすぎなかった。
アウトレンジ戦法の敗因
引用日米両海軍の戦力のバランスが崩れ始めると、 もう小手先の戦闘技術の訓練だけでは対抗できなくなる。 昭和一九年六月一九日のマリアナ沖海戦で、日本海軍最精鋭の第一機動部隊(長官小沢治三郎中将)の二六五機におよぶ 第一次攻撃隊がアウトレーンジ戦法という長距離攻撃を試みたにもかかわらず、壊滅的損失を余儀なくされたのも、 米軍側がレーダーで一五〇マイル前方からこれを捕捉し、ほぼ倍の数の戦闘機(四五〇機)で迎え撃ったからであり、 また米艦隊は高角砲に新開発のVT信管(飛行機に命中しなくても、目標物の至近で炸裂する)を とりつけた砲弾を使用したからである。 技術体系に大きな革新があったために、もはや単純な戦法レベルでの対応では十分機能しえなかったといえる。 そのうえ、アウトレーンジ戦法という高度な技能を必要とする戦法を適用するには、 乗員の練度は訓練不足もあって相対的に低かったと考えられる。
珊瑚海海戦と米海軍の進化
引用米海軍は日米海戦を通じて彼らの戦略を着実に進化させることに成功した。 ミッドウェーの一ヵ月たらず前に起こった珊瑚海海戦で米海軍は手痛い経験をした。 「レキシントン」「ヨークタウン」の二空母を中心とした輪型陣が、日本軍の爆雷撃を避けている間に二隻の空母の距離が開いて、 拡散してしまった。 その拡散した警戒網のスキを日本機の雷撃、爆撃が襲いかかった。 結果は、日本軍も改装空母一沈没、空母一大破の損害を受けたが、米軍は主力空母「レキシントン」および油槽船一、 駆逐艦一を撃沈され、「ヨークタウン」大破と失ったものははるかに大きかった。 ところが、この苦い経験を踏まえて、ミッドウェー海戦では、米海軍は三隻の空母を一隻ずつに分け、 その各々を警戒艦群が囲む複数輪型陣を構築した。 それぞれの輪型陣の間の距離は一〇〜二〇キロあり、日本の索敵機が正確にその全体像を把握するのを妨げることができた。 米空母群の発見の遅れが、ミッドウェーの勝敗を分ける重大な要因となったことはよく知られている。
引用陸軍に「ふ」兵器と名づけられた秘密兵器があった。 昭和一〇年頃から科学研究所で研究開発が着手され、いったんは立ち消えになったかと思われたが、 戦局が悪化するなかで再び開発が進められた。 一八年の一一月に実験第一号が完成し、翌年二、三月にテストが実施された。 テストの結果は不明であったが、一九年一一月〜二〇年四月までの間に、約九三〇〇個が実際に使用された。 この秘密兵器の目的は大本営によって次のように命じられている。

米国内部擾乱の目的を以て、米国本土に対し特殊攻撃を実施せんとす(大陸指二二五三号)

これが世にいう「風船爆弾」であった。 風船(水素ガス注入、直径一〇メートル)の主な材料が和紙をコンニャク糊で貼り合わせたものであるため コンニャク爆弾などと呼ばれることもある。 風船爆弾作戦のために参謀総長直属の気球連隊が新設され、太平洋に面した三ヵ所の放球陣地が設営された。 気球一個につき二〇キログラムの焼夷弾が装備され、米国まで高度一万メートルの上空を平均六〇時間で飛ばす計画であった。 実際の戦果は、米本土および周辺におよそ二八五個が到達し、爆発したもの二八、疑わしいもの八五、 人的損害一件六人、物的損害小規模な山火事二件、配電線切断一件。 到達率三パーセント、爆発を起こしたもの一パーセント未満。 この間日本国内では食用コンニャクが食卓にのぼらなくなった。
ニミッツの指揮官交替システム
引用米軍の作戦展開の速さは、豊富な生産力、補給力、優秀な航空機要員の大量供給といった、 物的・人的資源の圧倒的優位性に負っていたが、 同時に作戦の策定、準備、実施の各段階において迅速で効果的な意思決定が下されたという組織的特性にもその基盤を置いていた。 その一つの表れがニミッツ太平洋艦隊司令長官によって行なわれた指揮官交代システムである。 空母部隊指揮官としてハルゼー、スプルーアンスという二人の提督を、一定期間で交代させたうえに、 指揮官が交替すると艦隊名も変更した。 同一艦隊であるにもかかわらずハルゼーが指揮をとる場合は、第三艦隊、 スプルーアンスの場合は第五艦隊と呼称した。 有能な者の能力をフルに発揮させるという目的と、いつまでも同じポストに置いて その知的エネルギーを枯渇させてしまってはならないというねらいとを統合したアイデアである。 交替人事システムは、指揮官だけでなく参謀についても実行されている。
統合参謀本部
引用近代的な大規模作戦を計画し、準備し、実施するためには、 陸・海・空の兵力を統合し、その一貫性、整合性を確保しなければならない。 個々の戦闘においても、歩兵、砲兵の銃砲火器や飛行機、戦車など大量の綜合戦力を統合できる組織・システムが 開発されていなければならない。 この点でも米軍はすぐれた統合能力を発揮し、日本軍を圧倒した。
統合作戦の策定のためには、参謀組織の上部機構に統合システムがビルト・インされる必要がある。 米軍の上級参謀組織には、陸軍が参謀総長をヘッドとする参謀本部、海軍には作戦部長に率いられた作戦部とがあった。 この点は日本軍と変わらないが、米軍では開戦とともに陸・海二つの参謀組織を統轄する統合参謀本部(Joint Command Staff)が、 ルーズベルト大統領によって組織された。 構成メンバーは、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将、海軍作戦部長アーネスト・キング大将、 陸軍航空部隊総司令官ヘンリー・アーノルド大将の三名である。 米国の大統領は陸海軍最高司令官であり、統合参謀本部は大統領の決定権に従属する立場にあった。 したがって、陸・海軍の作戦は統合参謀本部において検討され、必要な調整を行なったうえで、 統合作戦として統一的な作戦体系を構築することができたし、それは最終的には大統領によって決定され、 実施に移される。
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