「ポーツマスの旗 ― 外相・小村寿太郎 ―
参考書籍
著者: 吉村昭(よしむら・あきら)
発行: 新潮社(1983/05/15)
書籍: 文庫(372ページ)
定価: 552円(税別)
初版: 新潮社(1979/12)
補足情報:
近代日本の分水嶺・日露戦争に光をあて、名利を求めず交渉妥結に生命を燃焼させた外相・小村寿太郎の姿を浮き彫りにする力作長編。 (裏表紙)
この本を入手
引用日露開戦後、ロシア軍の敗報が続々とつたえられるにつれて、かれらの政府に対する反感はつのった。 皇帝とそれを取りかこむ為政者、軍人によってはじめられた対日戦争は、民衆の望まぬ侵略戦争であり、 生活の困窮と出征兵の死傷という犠牲に不満をいだくようになっていた。
遼陽、沙河の敗北につづいて、旅順要塞の陥落を知った民衆の憤りは激化し、首都ペテルスブルグの一工場でストライキが起ったのをきっかけに、 それはたちまち各工場にひろがっていった。 不穏な社会情勢を憂えた工場労働者の指導者である青年僧ゲオルギー・ガポンは、 大衆の苦しい生活を皇帝ニコライ二世に訴えようとし、一月二十二日の日曜日、十数万の民衆を集合させた。 かれらは、聖像と皇帝の肖像をかかげ嘆願書をたずさえ、
「神よ、皇帝陛下にお恵みをあたえたまえ」
と、となえながら冬宮にむかった。
かれらは秩序正しく列を組んで進んでいったが、前方に武装兵があらわれ、発砲した。 民衆は逃げまどい、たちまち千人余が射殺され約二千人が傷を負った。 この虐殺事件は「血の日曜日」と称され、民衆の反政府運動をさらにつのらせた。
引用五月二十七日午前二時四十五分、五島列島白瀬の北西方にあって哨戒任務にあたっていた「信濃丸」(六、三八七トン)が、 左舷方向に東へむかって動く燈火を発見し、接近した。 やがて、夜明けの気配がわずかにきざした頃、ロシア艦隊の黒煙を確認、午前四時四十五分、
「敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ」
と、打電した。
それによって日露両艦隊は接触し、その日と翌日にかけて対馬海峡を中心とした海域で激闘をくりひろげた。 その結果は、予想に反して日本艦隊の勝利に終った。 日本艦隊の勝因は、巧妙で周到な作戦行動、乗組員の練度の高さによるもので、海戦史上類のない圧勝であった。
ロシア艦隊は全滅状態で、戦艦八隻中撃沈六隻、捕獲二隻、装甲巡洋艦三隻すべて撃沈等、三十八隻の艦隊は撃沈十九隻、捕獲五隻、 逃走中沈没または自爆二隻、抑留八隻計三十四隻という大打撃を受けた。 これに対して、日本艦隊の損害は九〇トン以下の水雷艇三隻が沈没したにとどまった。 人的被害も海戦の激しさをしめすもので、ロシア艦隊の戦死者四、五四五名、捕虜司令長官以下六、一〇六名、 日本側は戦死一〇七名であった。
その海戦は日本海海戦と呼称され、ロシア艦隊の来航におびえていた政府関係者、軍人、一般人の喜びは大きかった。 人々は、日露両陸軍の決戦ともいうべき奉天大会戦につづいて、日本海軍がロシア艦隊を潰滅させたことに熱狂した。 号外の鈴の音が町々を走り、家々には国旗がひるがえった。 夜になると提灯行列が組まれ、人々は提灯をふり上げて万歳を叫び合った。
引用六月六日夜、駐日アメリカ公使グリスコムは小村外相を外務省に訪れ、またロシアでもアメリカ大使メイヤーがロシア政府に対し、 ルーズベルトの公文書を手渡した。その内容は、
「日露両国のみならず文明世界全体の利益のため、講和会議の開始を切望する」
というもので、会合の日時、場所の決定に力をかしたいとも記されていた。
日露両国は、公式に勧告に応ずると回答し、ルーズベルトは、気持の変りやすいロシア皇帝が回答をひるがえすことを恐れ、 その内容を新聞に公表した。
小村外相は、ルーズベルトの周到な配慮に謝意をしめすとともに、 講和について支持の態度をとったドイツ皇帝、フランス外相ルヴィエルにもそれぞれ感謝の電報を送った。 かれは、列国の好意を日本にひきつけると同時に、米、独、仏三国の力でロシア皇帝の翻意を防ごうとしたのである。
講和条件
引用全権の公式発表に先立つ六月三十日、元老をまじえた閣議が開かれた。 参席者に共通していることは、戦争を一刻も早く終結させることにつきていた。 そして、講和会議を成立させるためには、ロシアが受諾可能の最低限の条件を要求する以外にないということでも一致していた。
それにもとづいて、
《絶対的必要条件》
第一、韓国カラロシア権益ヲ一切撤去シ、同国ハ日本ノ利益下ニオク。
第二、日露両国軍隊ハ、満州カラ撤兵スルコト。
第三、ロシアノ有スル旅順、大連ソノ他遼東半島ノ租借権及ビハルピン以南ノ鉄道、炭坑ヲ日本ニ譲渡スルコト。
《比較的必要条件》
第一、ロシアハ、日本ニ対シ軍費ヲ賠償スルコト。金額ハ拾五億円ヲ最高額トスル。
第二、ロシアハ、中立国ノ港ニ抑留サレタ軍艦ヲ引渡スコト。
第三、ロシアハ、樺太及ソレニ附属シタ諸島ヲ日本ニ譲ルコト。
第四、ロシアハ、日本ニ沿海州沿岸ノ漁業権ヲ与ヘルコト。
《附加条件》
第一、ロシアハ、極東ノ海軍力ヲ制限スルコト。
第二、ロシアハ、ウラジオストツクノ軍備ヲ撤去シ、商港トスルコト。
の九条件が提案された。
元老、閣僚たちは、第一から第三までの条件はロシア側が応ずる望みがあると考え、これを絶対的条件として決定した。 問題は、樺太割譲と賠償金支払いをふくむ二条件であった。 そのいずれもロシア側が承諾する可能性は少く、講和会議の争点になることはあきらかだった。
日本としてはあくまで講和をむすばねばならぬ事情があり、「絶対的必要条件」以外の条件については、 小村全権の外交手腕に一任することになった。
この決議は天皇の裁可を得て、小村全権に託された。
引用藩閥政治の中で、小村が外務大臣の地位についたことは奇蹟に近かった。 すぐれた頭脳、強靭な神経、大胆で周到な実行力が認められた結果ではあったが、偶然の積みかさねが、 かれをその地位に押し上げたことは事実であった。
ゆるぎない藩閥を背景に要職につく政治家、軍人の間で、臆することなく生きてきたかれの姿勢は、 宮崎県の飫肥生れであることと無縁ではないと言っていい。
飫肥藩は五万二千石の小藩で、藩主伊東氏の先祖は、日向(宮崎県)一国を領し、薩摩の島津と覇を争っていた。 島津と伊東の争点は飫肥で、その地をめぐって激しい戦いがくりかえされ、互いに奪取がつづいたが、 天正五年(一五七七)伊東氏は大敗し、日向国一円が島津領になった。 その後、秀吉の九州征伐に加わって、その功により飫肥に封ぜられた。 島津との宿命的とも言える確執はつづき、藩境争いも起り、絶えず大藩の薩摩藩の重圧を受けた。
小村は、七歳で藩校振徳堂に入学し、家が貧しかったため寮の雑役をして十五歳で首席で卒業した。 藩主伊東祐帰は、明治を迎えて学問振興のもとに五名の子弟をえらんで長崎へ遊学させた。 小村もその一人で、藩屈指の俊秀小倉処平に引率されて長崎へおもむき、英語を学んだ。
小村は、明治三年春、小倉にともなわれてアメリカ汽船で東京に行った。 小倉のすすめで大学南校に入学しようとしたのである。
小倉は、大学南校の学生が大藩の子弟に占められていることを知り、広く地方の人材を集めるべきだと考え、 米沢藩出身の平田東助とともに貢進生制度を政府に建議し、容れられた。 その制度は、年齢十六歳から二十歳までの優秀な人材を教育するもので、十五万石以上の大藩から三名、 五万石以上の中藩から二名、五万石未満の小藩から一名とし、学費は藩が扶助することになった。
それによって三百十名の貢進生が入学したが、飫肥藩からは小村一人が選ばれ、英語組に編入させられた。 かれの学業成績は群をぬいていて、卒業成績も三浦(鳩山)和夫についで二番で、明治八年、 第一回文部省留学生として渡米、ハーバード大学で法律を修め、卒業後、ニューヨークにおもむき、 前司法長官で弁護士として著名なピールポンドの事務所に勤務して法律の実際を学び、明治十三年、二十六歳で帰国した。
かれは、その間に、小倉処平が西南戦争に西郷軍の監軍として参加し、大筒の弾丸の破片を腿に受け、 割腹自殺をとげたことを知った。 秀れた人物であった小倉の死は、小藩出身者の宿命を象徴していた。
帰国してから一ヵ月後、小村は司法省雇として刑事局出仕となり、翌年判事に任ぜられて大阪控裁判所詰になった。 かれは、司法官としては目立たぬ存在で、陰では無能な男と言われていた。 それは、かれが国語、漢文の素養に欠け、その上悪筆であったので法文の論究、判決書の起草が拙く、 もっぱら英米の法律文書の翻訳に従事するだけであったからであった。 さらに私生活でも、大酒し女遊びも激しく、先輩、友人は大学南校の秀才小村も凡物に化したと眉をひそめていた。 かれは、旧幕臣朝比奈孝一の長女町子十七歳と結婚、一男の父になっていた。
明治十七年、外務省に転じ、外務権少書記官として公信局勤務となり、さらに翻訳局に移って外国電報の翻訳、校正に従事した。
その頃、かれを最も悩ませていたのは債権者であった。 かれの父寛は、明治四年、廃藩置県のおこなわれた後、旧藩士の出資のもとに旧藩の物産方をひきついだ物産会社を設立、 明治六年には社長に就任した。 経営は順調であったが、旧藩の事業を独占する物産会社への批判が起ったため、会社を飫肥地区の共同経営とした。 この頃から社運は傾き、内紛もあって会社は解散した。
寛は家運の挽回をはかって木材の伐採・販売に手を出したが、それにも失敗し、負債をかかえる身になった。 家は没落し、妻梅子は家を去り、寛の負債は、官吏になった長男の寿太郎にふりかかった。二千円余の額であった。
小村は、債権者の追及に辟易して高利貸の融通を受けたためたちまち利息がふくれ上り、莫大な債務を負うことになった。 債権者たちは絶えず家に押しかけて怒声をあげ、役所にもやってきて小村を呼び出し、俸給を奪っていった。
生活は、窮した。家財はほとんど売り払われ、座ぶとんも二枚しかなく、 客が二人訪れるとかれは畳の上に坐らねばならなかった。 客が煙草をすいはじめると、煙草を乞うてもらいうけ嬉しそうにすった。
衣類も質屋に運ばれ、役所通いに必要なフロックコートが一着あるだけで、それも色が褪めていた。 外套は留学時代にアメリカで買いもとめたものを着用していたので、繊維はすり切れていた。 傘はなく、雨の日は濡れて歩く。散発することも稀であった。
かれは、借金返済の期日がせまると家に近寄らず外泊した。 同僚や旧知の友人たちの家を泊まって歩き、しばしば遊里にも行った。 居つづけをしながら支払いをしないので断わられ、茶を飲んですごすことも多かった。 同僚と会食をしても会費を払うことはなく、それでも平然と出席するかれは敬遠された。
かれの大きな誤算は、妻の町子であった。 かれが町子を妻にめとったのは、その美貌にひかれたからであった。 町子は、女子としては珍しく明治女学校卒の高等教育を受けた娘で、留学から帰国したばかりのかれには得がたい娘に思えた。
しかし、結婚後、かれは、妻が家事を一切せぬ女であることを知って愕然とした。 女として身につけておかねばならぬ裁縫の針をとることもせず、料理もできない。 近くに実家があって、その仕送りで女中を雇い、すべての家事をやらせる。 それに、感情が激することが多く荒い言葉を口にしたり物を投げたりして、小村が腹を立てると、 実家の両親のもとに行って泣いて訴える。
結婚した頃は、アメリカで眼にした夫婦のように妻を連れて散歩することもしばしばだった。 妻の方が背が高かったが、留学中、背の高い女の中で過したかれには気にならなかった。
子供が生れても、妻の生活態度は変らなかった。 彼女の唯一の趣味は芝居見物で、子供を女中に託して実家の母などとしばしば外出する。 それをなじると、妻は泣きわめいた。
町子は、幼児のような女であった。 食事も気の向いた折にすませ、小村と食膳に向い合って坐ることもない。 小村は妻を持て余し、ほとんど口をきくこともしなくなった。
明治十九年、翻訳局次長に任ぜられ昇給もしたが、借財は利息が加算してさらに増し、 かれは相変らず古びたフロックコートを着、破れた靴をはいて役所に通っていた。 第一回文部省留学生として渡米した友人の鳩山和夫は外務省翻訳局長、斎藤修一郎は欧文局長の要職にあって、 小村のみが下積みの仕事をあたえられ、その苛立ちと債権者の容赦ない催促に、酒を飲み女を買う荒れた生活がつづいた。
明治二十五年、小村は翻訳局長に昇進したがそれまで住んでいた水道町の借家を家賃がとどこおって追い立てられ、 本郷新花町の小さな借家に移った。 襖は破れ畳はすり切れ、庇も傾いている廃屋同様の家であった。 かれは、ゴム靴をはき、破れ目をつくろったフロックコートを着て外務省に出勤した。
貢進生として共に大学南校に学んだ杉浦重剛、菊池武夫ら七人は、小村の生活を見かねて救済方法を話し合った。 その結果、かれらが連帯保証人になって債務を弁済することになり、小村の負債額を調べ、 その額が元利とも一万六千円にも達していることを知って驚いた。
小村の月棒は百五十円で、それをすべて返済に廻しても利息にすら追いつかない。 杉浦らは親しい有力者に無利息で四千四百円を借り受け、また、小村の旧藩主伊東祐帰に訴えて五百円を拠出してもらった。 さらに室田外務省会計局長の協力を求め、小村には月棒のうち五十円を渡し、百円を有力者からの借金の返済にあてることにした。
そのような準備をととのえた上で、債権者二十数名を呼び集めた。 杉浦らは、かれらに四千九百円の現金をしめし、債権額を割引けば即座に金を渡すと告げ、借用証の競売を提案した。 債権者たちは異例の申出に驚き、中には反対する者もいたが、小村から金を取り立てることはほとんど不可能であることを知っているかれらは、 全員がしぶしぶ同意した。 金が分配され、その場で借用証は一枚残らず破り捨てられた。
杉浦らの尽力によって、高利貸からの借金はすべて消えたが、 俸給の三分の一しかあたえられぬ小村の生活は苦しかった。 かれは、相変らず色褪めたフロックコートで通勤し、わずかに民間会社の依頼による英文書の翻訳の謝礼で、酒を飲み女を買っていた。
そのうちに、かれの身に変化が起った。 行政整理で翻訳局が廃され、かれは自然に退官されることになったのである。
引用その日午後六時半、金子は、電話で霊南坂の伊藤の官邸に呼ばれた。
伊藤は、金子を一室に招き入れて御前会議の内容を告げ、ルーズベルトへの工作とアメリカ世論の操作のため渡米するよう求めた。
金子は、自分には負いかねる重大な使命であり、第一、アメリカ国民を親日的なものにさせることは不可能であるという理由から辞退した。 歴史的にみても、アメリカは南北戦争で現在の合衆国を建設した折にロシアの援助を受け、 現在でも恩義を感じているし、またアメリカの富豪の大半はロシアの貴族階級と姻戚関係にあり、 貿易をはじめ財政、政治、経済の上でロシアとの関係は深く、軍需品もロシアに大量に輸出し、両国間に楔を入れることなどできないという。 まして、ルーズベルトに日本に有利な和平斡旋をうながすなどということは論外だ、と答えた。
しかし、伊藤も屈せず、
「もし君が行かない場合には、アメリカはロシアの完全な味方になり日本の生きる道はなくなるだろう。 是非、渡米して欲しい」
と、強い語調で言った。
金子は、
「半ばぐらい成功する予測が立てられれば行きますが、全く見込みがありません。 もしそれを可能とする人物がいるとしたら、それは伊藤公爵以外にないでしょう」
と、答えた。
伊藤は、
自分は天皇のおそばにいてお仕えしなければならぬ身である。 また、小村も国事からはなれるわけにはいかぬ。是非行ってもらいたい」
と、くりかえした。
金子は頭をふりつづけ、結論が出ぬままに官邸を辞した。
翌朝、伊藤から再び電話があり、金子は邸におもむいた。
「決心はついたか」
伊藤は、言った。
「御辞退いたします。熟考しましたが、自信はありません」
金子は、即座に答えた。
伊藤は、熱をおびた口調で説得をはじめた。
「戦争を決意はしたが、勝つ見込みは全くないのだ。 しかし、私は、一身を捧げる覚悟で、もしもロシア軍が大挙九州に上陸してきたならば、兵にまじって銃をとり戦うつもりだ。 兵は死に絶え艦はすべて沈むかも知れぬが、私は生命のあるかぎり最後まで戦う。 この度の戦さは、勝利を期待することは無理だが、国家のため全員が生命を賭して最後まで戦う決意があれば、 国を救う道が開けるかも知れない。 君は成功する見込みがないといって辞退しているが、成功しようなどとは考えず、 身を賭すという決意があれば十分なのだ。 ぜひ、渡米して欲しい。私と共に生命を国家に捧げてもらいたい」
伊藤の眼は、光っていた。
金子は沈黙し、やがて、
「渡米します」
と、答えた。
伊藤は安堵の色を顔にうかべ、すぐに傍の卓上電話で金子が承諾したことをつたえた。
伊藤の邸を辞した金子は、使命を達成する上での参考として陸海軍の戦争に対する見通しをきくため、 まず参謀本部に参謀次長児玉源太郎大将を訪れた。児玉金子の質問に、
「対等の兵力では勝利を得る見込みがないので、ロシア軍の三倍の兵力をもって当るつもりです。 それでも勝敗は五分五分と見ているが、せめて六分四分にしようとして、参謀本部で三十日も泊まりこんで作戦を練っています」
と、答えた。
海軍については、山本海相を海軍省に訪れたが、山本は、
「日本軍艦の半分は撃沈させられると思う。 勝利を得たいと思ってはいるが、これ以上話すことはない」
と、暗い表情で答えた。
その日、金子は帰宅してあわただしく渡米の準備をし、夜遅く就寝した。
T・ルーズベルト大統領、金子特使に金銭的要求の放棄を勧告
引用その日の深夜、小村は、本多電信主任に起され、長文の電報を渡された。 それは金子堅太郎からの暗号電報で、午後七時にニューヨークから発信された緊急電であった。
かれは読み終ると、本多に高平と山座を呼ぶように命じた。 電文を翻訳して内容を知っている本多は、すぐに部屋を出て行った。
山座についで高平が、本多とともに部屋に入ってきた。
小村は高平に電文を渡し、高平は読み終ると山座に渡した。
電文は、金子のもとに届けられたルーズベルトの秘密書簡の全文であった。 そこには、金銭のために戦争継続も覚悟している日本に対する批判の世論が強いので、金銭に関する要求をすべて撤回した方が、 今後、日本のために利益になるだろう、と記されていた。 また、ルーズベルトロシア皇帝に、譲歩を求める第二回目の親電を発したことも書かれていた。
これまでルーズベルトは、日本が樺太北部をロシアに返還する代りに代償金の支払いを求めるのは当然だ、と強調していた。 それが、突然、償金要求は好ましくないと態度を一変させた理由が解しかねた。
小村は、ルーズベルトが世論を恐れているのだ、と思った。 ルーズベルトはその年の春に再選され、日露講和を成立させることで国民の支持をさらにたかめようとしているにちがいなかった。 かれは、常に世論の動きに注意をはらい、急にたかまってきた日本の金銭要求に対する批判を重視し、 自分の立場が悪評にさらされることを危惧して日本側に要求の撤回を求めてきたのだと推定された。
書簡の内容を記した電文に添えられた金子の感想にも、
「私ハ驚キ、疑ヒ、其原因ヲ推測スルニ苦ミタリ」
と記されていたが、陰の支援者であったルーズベルトが態度を一変したことは、 日本側にとって大きな打撃であった。
小村全権、戦争継続を決断
引用午後三時三十分、小村、高平、ウイッテ、ローゼンのみで秘密会が開かれた。
小村は、
「樺太北部をロシア領、南部を日本領とする妥協案と代償金要求について、ロシア政府の回答は?」
と、問うた。
ウイッテは暗い表情で、
「政府は、全面的に拒絶してきた。 今までに妥協に達した満州、韓国問題すらも、政府内で強い反対がある」
と、答えた。
小村は、代償金の点で譲歩することを胸に秘めながら、
「なにか妥協点が見出せるなら、意見を出していただきたい。私の方も慎重に考えてみたい」
と言ったが、ウイッテは、
「なにもない」
と答えた。
「それでは談判は不調に帰し、当然の結果として戦争継続ということになる。 私は、あなたの強調するようにロシアに戦争をつづける余力があると認めると同時に、日本にも十分に戦力があることをつたえたい。 しかし、もしも妥協点があるなら互に譲歩すべきだと思い、今日まで努力してきたのだが・・・・・・」
小村は、落着いた声で言った。
「私もローゼンも、貴方と同じように妥協点を見出すべく力をつくしてきた。 しかし、ロシアの軍部は講和の成立に反対し、あくまでも戦うと主張し、私たちの言葉に耳を傾けようとしない。 これ以上談判をつづけても意味はなく、なるべく早く終結させる方がいい。 もはや、自分たちの力ではどうにもならない。 日本全権委員が、平和のために十分努力されたことを知っている。 互に悪感情をいだくことなく袂をわかちたい」
ウイッテの顔に、苦渋の色が濃く浮かんでいた。
小村も、おもむろに口を開いた。
「貴方達が平和のために尽力したことを、私も十分に知っている。 解決の道はないと思うが、あと一回会議を開いたら、と思う。 その折に、妥協案に対するロシア政府の正式の回答を書面で提出していただきたい」
ウイッテはそれを承諾し、翌々日の八月二十八日月曜日の午後三時に再会することを約束した。
ホテルにもどった小村は、早速桂臨時外相宛に、「講和談判決裂ノ危機ニアタリ状況報告ノ件」と題して暗号電文を発信させた。
小村は、決断をくだしていた。 ルーズベルトロシア皇帝への勧告も全く効果がなく、ルーズベルト自身さえ、代償金要求の撤回を日本側に求めている。 小村にとって、それは絶対に応じられぬことで、会議決裂を決意したのである。
かれは、宛の電文の中で「・・・・・・談判ヲ断絶スルノホカモハヤ取ルベキ途ナシ」と断定し、 二十八日の会議後、全員がポーツマスを引揚げる、と報告した。
小村は、夕食後、高平をはじめ随員すべてを自室に集め、
「ポーツマスに来て以来、予備会議一回、本会議九回を重ねてきたが、折衝は完全にゆきづまり、 明後日の会議で決裂を宣言する」
と、述べた。
会議の経過を十分知っている随員たちは、小村の決断を当然のことと考えているらしく無言できき入っていた。
さらに小村は、
「明後日、会議決裂と同時に全員ポーツマスを引揚げニューヨークに向う。 それも出来るだけ機敏におこないたいので、その日のうちに出発する。 各自荷物をまとめて待機して欲しい」
と指示した。
随員たちは小村の部屋を辞すると、電信事務をおこなう事務室に集って会議決裂に対する感慨にひたりながら、酒を酌み合った。 自然に、戦争が再開された場合のことが話題になり、立花大佐は満州派遣軍の今後の動き、 竹下中佐は連合艦隊の予想される作戦について述べたりした。 かれらは、酔うままに漢詩を作ったり短歌を詠んだりして、夜おそくまで話し合っていた。
小村全権、日本政府からの講和成立方針電を受信
引用午後一時すぎ、事務室のベルが鳴った。 コンマーシャル・ケーブル電信会社から「ポーツマス コムラ」宛の電報が到着した合図であった。
埴原三等書記官がすぐに階下におりてゆくと、電報を手にもどってきた。 東京の外務省との間に交わされる暗号電報で、ただちに本多が翻訳にとりかかった。
暗号表を眼にしながら文字を組立ててゆく本多の顔に、緊張の色が浮び出た。
「帝国政府ハ 閣議及御前会議ニ於テ慎重凝議ノ末 陛下ノ聖断ヲ仰ギ 結局下文ノ如キ廟議一決セリ」
かれの持つ鉛筆が、紙に一文字ずつ記されてゆく。 日露講和に対する最後の決断が下されたのである。
随員たちは、本多の記す文字を眼で追っていたが、かれらの顔から一様に血の色がひいていった。
本多の口からすすり泣きの声がもれ、随員たちの眼にも涙が光った。
翻訳を終えた本多は、鉛筆を机の上におくと突然号泣しはじめた。 電文には、開戦の目的である満州、韓国の重要問題が解決したので、樺太問題、償金問題の二条件を放棄し、 「此際 講和ヲ成立セシムルコトニ議決セリ」と記されていた。電文の要旨は、
(一)この機会をのがさず、あくまで講和成立をはかること。
(ニ)その目的のため償金支払い、樺太割譲の両条件を放棄するが、まず償金問題を放棄し、 それでも会議決裂の恐れがあると判断した折には、樺太問題の放棄も申し入れる。
(三)但し、樺太問題の放棄は、アメリカ大統領に至急連絡をとり、その勧告にやむなく応じたように仕組む。 が、大統領が動かぬ場合には、やむを得ず日本政府最後の譲歩として放棄することを提案せよ。
というウイッテの提案した樺太南部を日本領とする妥協案すら放棄した、全面的な譲歩であった。
随員たちは、呆然として身じろぎもしなかった。 やがて、一人が声をあげると他の者たちも堪えきれぬように声をふるわせて不可解な訓令をなじった。 それまで樺太、償金の両問題で折衝をつづけてきた努力も無視され、それらをすべて放棄することは、 ロシアの頑なな抵抗に屈服させられたことになる。
むろん、政府が会議の決裂を恐れてそのような決議をしたことは理解できたが、 両条件の要求をつらぬくためロシア側に対しただ一人で応酬をくりかえしてきた小村の努力も、 その訓令で徒労に終ったことになる。
受発信で夜もほとんど眠らぬ本多は、憤りと悲しみで肩をふるわせて泣いていたが、電文をまとめると事務室を出て行った。
かれは、小村の部屋のドアをノックし、内部に入った。 小村は仰向けになって薄く眼を閉じていた。 その顔には、深い疲労の色がにじみ出ていた。
本多がすすり泣きながら電文を差し出すと、小村は横になったまま受け取り、読みはじめた。 本多は、小村の顔を見るのが堪えきれず視線を床に落していた。
小村が電文を読み終り、半身を起すと、黙ったまま電文の端に読了したことをしめす署名をして本多に返した。
本多が部屋を出て行くのと入れ代りに、高平、佐藤、山座が姿を現わした。 かれらは、言葉もなく立っていた。
小村は、かれらに椅子に坐るように言い、いつもと変らぬ表情で翌日の会議にのぞむ打合わせをおこなった。
引用戦争の将来をうれえた天皇は、小村全権が横浜を出発後、山県に満州におもむかせ派遣軍の状況と将兵の士気調査を命じた。
山県は、七月二十一日、奉天の満州派遣軍総司令部に到着、大山総司令官から軍の現況をきいた。 さらに翌日には、最前線を視察し、二十五日に総司令部で会議を開いた。 出席者は、総司令官大山巌元帥、総参謀長児玉源太郎大将、第一軍司令官黒木為禎、第二軍司令官奥保鞏、第三軍司令官乃木希典、 第四軍司令官野津道貫、第四師団長川村景明の各大将であった。
大山をはじめ児玉らは、情報を綜合した結果、ロシア軍の増強は予想以上に進み、 リネウイッチ総司令官の指示のもとに戦線の整備も着々とととのえていると説明した。 総兵力は歩兵五百三十八大隊、騎兵二百十九中隊、砲兵二百七隊で、日本の三倍にも達する大兵力であった。
しかも、増強されたロシア軍将兵は、ヨーロッパ方面から送られた精鋭で、連敗の汚名を挽回しようと戦意もさかんであるという。
たとえ、日本軍が新たな作戦行動を起してハルピン攻略を目ざしても、途中に三つの堅固な陣地があり、 その一つを占領するだけでも少くともニ、三万の死傷を覚悟する必要があると述べた。
山県は、現地軍指揮層の綿密な現状報告を聴取して、戦争継続はきわめて危険であるという結論に達し、 急いで帰国すると天皇、元老、桂首相に報告したのである。
引用小村からポーツマス引揚の電報を受けたは、二十四時間の会議延長を小村に指示すると同時に元老、閣僚の合同会議を招集した。
八月二十八日午前七時、首相官邸で会議が開催された。 出席者は伊藤山県井上、の三元老(松方正義は病気欠席)と桂首相をはじめ寺内陸軍山本海軍、芳川内務、清浦農商務曾禰大蔵、波多野司法、大浦逓信、久保田文部の各大臣であった。
は、それまでの小村全権からの会議経過の概要を報告、まず会議決裂を回避させるかどうかについて意見をもとめた。 それは戦争の継続を覚悟するか否かという質問と同じであった。
戦場視察をした山県が、あらためて現地軍の情勢について発言した。 戦場では、一応戦争継続も予想して戦闘準備をととのえてはいるが、 有利に戦闘を展開しリネウィッチ軍を撃破してハルピンに進攻することができたとしても、その攻略は本年末になり、 さらに兵を進めてウラジオストックを占領することに成功したとしても、それ以上の進撃は不可能で、 ロシア軍を再起不能にさせることは望めない、と説明した。 また、軍事費は一年に十七、八億円にも達するにちがいなく、それが調達できなければ、弾薬も糧食もつき、 全軍が大陸の原野に立ち往生しなければならなくなるだろう、と述べた。
現在でも軍事費をひねり出すのは困難な情態で、伊藤井上をはじめ曾禰蔵相も、そのような支出は無理で、 財政的に完全に破綻する、と断言した。
結局、戦争を継続することは到底不可能だということに意見が一致し、講和を成立にみちびくための協議に入った。 むろん議題は樺太割譲と償金支払いの二条件の扱いがすべてで、それらをどの程度譲歩するかが論議の焦点になった。
償金問題については、財政の建直しのためぜひとも要求したかったが、ロシア側も極度に貧窮していて、 それに応ずることはできそうにもなく、十二億円を六億円まで減額したら、という意見もあった。が、山本海相は、
「償金問題は放棄すべきである。吾々は、金銭を得るために戦争をしたのではない」
と言い、それに山県寺内も同調し、結局、償金要求は一切放棄することに決定した。
ついで、樺太問題に移ったが、議論は白熱化した。
樺太は日本軍が完全に占領した地であり、戦勝国としてその割譲を要求するのは当然であるという主張が大勢を占めた。 しかも、その地は歴史的にも日本領であり、ロシアに返還する理由は全くないと強調する声も多く、 代償金問題の放棄を口にした山本も、樺太領有をあくまで貫くべきだと主張した。
しかし、そうした声も、山県の発言によって打消された。
ロシア皇帝は、ひと握りの土も日本に渡してはならぬと厳命している。 私としてもまことに憤慨に堪えぬが、樺太割譲を要求することは戦争継続に直接つながる。 講和の成立を実現させるためには、大譲歩する以外にない」
と、説いた。
会議の席に悲痛な空気が流れ、一部の者からウイッテの提案した樺太北部のみをロシアに返還する案を推しすすめてはどうかという意見もあったが、 情勢を綜合判断した結果、それも拒否されることは確実なので、樺太すべてを放棄する以外にあるまいという空気が濃厚になった。
かれらの顔には、苦渋の色がにじみ出ていた。 国内では講和会議に対する不満が日増しにつのり、即日会議中止、戦争継続の声がたかまっていて、 新聞もロシア側の強い姿勢を突きくずせぬ小村全権をはじめ元老、閣僚に激しい非難を浴びせている。 もしも、条件中の最も重要な償金支払いと樺太割譲要求の放棄を決定すれば、国内に大騒乱が起ることはあきらかだった。
しかし、講和成立を期するかぎり償金、樺太両問題の一切の放棄は絶対に必要であり、結局、全員一致で放棄を決議した。 会議の終了は、午後二時十分であった。
その後、かれらは、ただちに車をつらねて皇居におもむき、天皇出席のもとに御前会議を開いた。
桂首相兼臨時外相が、元老・閣僚合同会議の決議を報告すると、天皇はそれを期待していたらしく即座に裁可をあたえた。
1905年9月6日、東京に戒厳令
引用九月六日、政府は東京市と隣接地に戒厳令の一部を施行し、東京衛戍総督佐久間左馬太大将は、 近衛師団、第一師団に対し騒擾を起す群衆に対する処置として、
一、言語ヲ以テ先ズ解散ヲ命ジ、又ハ其ノ非行ヲ制止スベシ
二、言語ヲ以テスルモ解散又ハ制止ノ命ニ応ゼザル時ハ、空砲ヲ発射シ警戒ヲ与フベシ
三、前項ノ方法ニ依ルモ尚ホ、解散又ハ制止ノ命ニ応ゼザル時ハ、最後ノ手段トシテ断然兵器ヲ実用スルコトヲ許ス
と、布告した。
また、緊急勅令として新聞、雑誌の取締りをおこない、全国の三十九の新聞、雑誌が発行禁止処分をうけた。
引用八月三十一日、来日したハリマンは、開戦以来日本の戦時外債を積極的に引受けていてくれたので、 政府は歓迎し、九月一日に伏見宮、桂首相曾禰蔵相、元老井上馨主催の午餐、晩餐、園遊会に招いた。 さらに四日に催された駐日米公使グリスコム主催のハリマン歓迎の大園遊会にも、元老、閣僚以下千余名が出席、 その席でハリマンは、南満州支線計画の一端を述べた。
ハリマンは、東京騒擾事件が鎮まった後、参内して天皇に拝謁し、 グリスコム公使の強力な支援のもとに元老伊藤井上、首相らと精力的な交渉をはじめた。 ハリマンは、ロシアの勢力の回復を防ぐためにもアメリカ資本を導入するのが得策であると説き、日本側は財源捻出に苦しんでいたので、 その申出を受け入れることになった。
殊に、ハリマンの申出に強く賛成したのは大蔵顧問ともいうべき財政通の井上馨であった。 井上は、ロシアの勢力の捲き返しを深く憂え、アメリカの支援のもとにロシアを牽制したいと考えていた。 また、財政の貧窮している日本には、満州を経営する財力などないとも思っていたのである。
井上は元老、閣僚たちを説いて共鳴を得たが、 ただ大浦兼武逓相のみがアメリカの財閥の手に鉄道を渡すことは日本の将来に不利な結果を招くおそれがあると主張し、 同意しなかった。 しかし、井上は後輩である大浦を叱責し、閣議でその件を決定された。
やがて、ハリマンはいったん帰国することになり、仮契約の調印をする運びになった。 ハリマンは、船に乗るため横浜のホテルに泊り、は逓信省鉄道局長平井晴二郎を横浜におもむかせ、調印させることに定めた。
その日、大浦逓相に、
「私は不安でなりません。小村外相の帰国を待って御意見をおききしてから決定すべきだと思います。 調印は延ばした方が賢明です」
と進言し、も同意して、辛うじて調印だけはせずにすました
引用二月二十八日、加藤高明がわずか在任二ヵ月で外相を辞任した。 鉄道国有化に反対したためとされたが、戦後急に権勢を増した陸軍が、 満州で清国側の意向を無視し軍政存続を主張したことに反対したからであった。
引用七月六日、は韓国の併合案を閣議にはかり、その決定により参内して天皇の裁可を得た。
韓国内の反日感情は激しく、不穏な空気が各地にひろがっていた。
十月二十六日、伊藤はハルピンにおもむいて車中でロシア蔵相ココフツェフと車中会談後、 駅頭で各国領事と握手をかわし歓談した。 その折、一人の男が走り寄り、突然、短銃を発射した。 加害者は、統監をはじめ日韓協約に調印した韓国大臣の暗殺を同志と誓い合っていた韓国人安重根で、 かれの発射した三発の弾丸は、第一弾が伊藤の肺臓、第二弾が胸腹、第三弾が上腹部に命中した。
伊藤は車中に運びこまれ応急手当をうけたが、第一弾が致命傷となり三十分後に絶命した。六十九歳であった。 安は、ロシア官憲に捕えられて日本側に引き渡され、翌年六月、旅順で処刑された。
引用は、ひそかに韓国併合の気運をたかめることにつとめ、時期尚早を口にする小村をはじめ閣僚、元老を説得し、 一進会との連絡も一層強めた。
翌明治四十三年春、は、併合の機運が熟したと判断し、本格的な準備に入った。
小村は、それをうけて危惧されている列国の承認を得る工作にとりかかった。 まず、その年の四月、第二回日露協商の折衝をおこなっていた駐露大使本野一郎に命じ、 日本の韓国併合についてのロシアの意見をたださせたが、ロシア政府は異存なし、と答えた。
その意見交換がイギリス政府にもつたえられ、ロシアと同じように諒承する旨の回答を得た。 また、アメリカもそれを当然のこととして認めたので、列国に対する打診は終り、は、実行に移った。
まず、統監の曾禰を辞任させ、陸相寺内正毅を第三代統監に就任させた。 そして、併合に必要な調査を徹底的におこない、正式に閣議に上程して併合を決定した。 国の名称については、韓国という名称を廃することになり、逓相後藤新平が韓国人の歴史的心理を考えて高麗とする案を出したが、 寺内が朝鮮を強く主張し、これに決定した。
寺内は、七月二十三日、統監として着任、韓国内の情勢を慎重に観察した。 そして、八月十三日、小村に対して決行する旨を打電し、李完用首相を統監部に招いて、併合をつたえた。
寺内の説明をきいた李は、すでにそれを予測し受諾する以外にないとあきらめていたので、内諾した。 が、ただ国号は韓国のままとし、皇帝の尊称ものこして欲しいと要望したが、寺内はそれを拒否し、 皇帝を李王殿下にするよう本国に要請してみる、と答えた。
韓国政府は、緊急閣議をひらいた。 が、学部大臣李容植が頑強に反対しただけで、御前会議で日本の要求を受諾することに決定した。
交渉は急速にすすめられて条約の調印も終り、八月二十九日、日韓両国は併合条約を公布し、韓国は日本に併合させ、 朝鮮と名称を変えた。 これについて、ロシアをはじめイギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリアの諸国も承認する声明を発した。 各国は、それぞれ他国を殖民地として併合していて、日本の韓国併合を不当として責めることができなかったのである。
この併合は、韓国内に衝撃をあたえ、各地に騒乱が起った。 日本政府は、憲兵、警察力を駆使して鎮圧につとめたが、抵抗運動は根強く反復した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。