「零式戦闘機」
参考書籍
著者: 柳田邦男(やなぎた・くにお)
発行: 文藝春秋(1980/04/25)
書籍: 文庫(413ページ)
定価: 円(税込)
初出: 週刊文春(1976/01/01号〜10/21号)
補足情報:
日中戦争後期から太平洋戦争を通じて5年間も旧日本海軍の主力戦闘機として戦い抜いた零戦 ―この高性能戦闘機が世に出るまでには、若い技術者たちの長く苦しい闘いがあった。 技術後進国という厳しい条件下で、 国家の存亡を賭け外国機を凌ぐ新鋭機が作り出される足跡を描いた長篇ノンフィクションの傑作。(裏表紙)
この本を入手
引用航空工学を専攻して設計者になったという堀越の経歴からは、 子供の頃から工作や機械いじりが好きだったに違いないと、大方の人は想像するかも知れないが、堀越は、 意外にも少年の頃、工作は下手なほうだった。当時飛行機凧というのが流行っていて、 友だちの中には見事な複葉凧を作る者もいたが、堀越は作ったことがなかった。 自分は模型が下手だと決めこんでいたので、手を出さなかったのだった。 群馬県藤岡市の農家の次男に生れた堀越の少年時代と飛行機との結びつきはといえば、 せいぜい『飛行少年』という雑誌をよく読んだことぐらいであったろう。
その堀越が、航空工学の道を選んだのは、一高三年の秋、いよいよ大学受験の学科を決めなければならなくなったとき、 兄の同級生で後にエンジンの大家となった東大機械工学科の中西不二夫助教授から、
「新しくできた航空学科が面白いのじゃないか、入りなさいよ。 航空でも、エンジンよりボディ(機体)のほうがいい」
と、すすめられたのがきっかけだった。 兄は「医者になれ」と言い、親戚の者も「医者になるなら学資のめんどうをみよう」と言ったが、 堀越は、航空という未知の分野に強い魅力を感じたのだった。 しかも、自分で工作をするのではなく、自分の理想を図面に表わし、工員を指揮してそれを作らせるという設計の仕事なら、 中西助教授の言うように面白そうだったし、何よりも自分の性格にぴったりのように思えた。
そして、三菱航空機に就職したのは、大学や軍の研究機関で基礎研究をやるよりは、 はやく飛行機作りの“指揮者”になりたいという気持からであった。
戦闘機無用論
引用戦闘機無用論を最初にいい出したのは、 ほかならぬ戦闘機乗りのパイロットたち、それも横須賀航空隊の源田実大尉らの錚々たる連中だった。
無用論の論拠となったのは、大型機のめざましい性能向上だった。 つまり、爆撃機・攻撃機の開発が世界的に進んだ結果、爆撃機・攻撃機と戦闘機との性能の差が、 速力の点でも、機銃の点でも、あまり変らなくなり、戦闘機の威力が、相対的に低下してしまったのだった。
だから、「もはや戦闘機による制空権の獲得という考えは信頼できない。 雷撃・爆撃の攻撃力を強くしたほうがよい」というのが、戦闘機無用論の主張だった。
これに対し、軍令部や航空本部も、一時期同意して、戦闘機のパイロットの養成を削減したほどだった。
このような戦闘機無用論は、昭和十二年に九六式艦戦が出現するまで続いたが、 その根底にあった問題点は、当時の戦闘機の性能が、いっこうに向上する気配を見せていなかったという一点にあった。 したがって、戦闘機無用論に対しては、航空隊の中にも、航空本部の中にも、強い反対論があった。
「現用機の性能からだけ、戦闘機の無用を論じるのは、間違っている。 速力や機銃の威力は、単座式のほうが優れているのは明らかであり、もし現用の戦闘機の性能が不満足なものであるなら、 性能向上に努めるべきである」
というのが、反対論の趣旨であった。
山本五十六の戦闘機高速化方針
引用昭和六年に山本少将が航空本部技術部長に着任して間もないある日のこと、 戦闘機の開発担当をしていた佐波は、技術部長室に呼ばれた。
山本少将は、佐波の顔を見ると、いきなり初歩的な質問をした。
「海軍の戦闘機は、どうして遅いのか。陸軍の飛行機にはもっと速いのがあるのに、 海軍の戦闘機となると、最大で百七十五ノットぐらいしか出せないというのは、どういうわけか」
飛行場を基地とする陸軍機と違って、海軍の戦闘機は、狭い航空母艦を基地としなければならないのだから、 そんなことは当り前過ぎる質問なので、佐波は、一寸面くらったが、 部長は何か考えがあってのうえで尋ねているのだろうと思って、率直に理由を説明した。
「海軍機は、航空母艦から発着するため、着艦離艦の速度制限から、そういうところに限られているのです。 現にアメリカ、イギリスの空母の艦載機も大同小異であります」
「それは本末転倒ではないか」
と、山本少将はすかさず言った。「戦闘機は速くなければいかん。とにかくお前達は、 二百ノット(時速約三百七十キロ)以上の海軍の戦闘機を作ってみろ。
そのためには、母艦というものを考えなくてもよい。 陸上から発着すると思えばよいのだ。 二百ノットの戦闘機ができたら、それから赤城・加賀の航空母艦を改装させる。 これは自分が技術部長の責任においてやらせるのだから、お前達は、航空母艦を忘れて、戦闘機の設計をすすめて、 民間を指導すればよいのだ」
新任間もない山本少将は、自分の信念を、熱弁ともいえる口調で語った。
「そもそも、航空母艦は戦闘機あっての航空母艦であって、 海上航空戦で戦闘機がやられてしまった赤城・加賀というものは、なんら自分自身の運命を切り開いて行く能力はないのだ。 要するに、小さい戦闘機が主人公で、大きな三万トンの母艦はお供なんだ。 そのお供に合わせて主人公が設計されることは、もってのほかだ」
艦機に対する従来の考え方を百八十度転回させた、この山本少将の思想が、 七試艦戦に、最高速度百八十〜二百ノットという要求を課し、 さらには低翼単葉でもよいという条件をつくったのだった。
山本少将は、口先で部下に命じただけではなかった。 何かにつけて航空本部と縄張り争いをしていた艦政本部に、自ら乗りこんで、 「戦闘機あっての母艦」の思想を説き、新戦闘機開発の方向について、 艦政本部の了解を取りつけたのだった。
岡村基春と桜花部隊
引用岡村基春の名が、海軍航空史の中でクローズアップされるのは、 太平洋戦争の戦局が急速に険しくなってきた昭和十九年六月、館山の第三百四十一航空隊指令(大佐)のときである。 戦局打開の戦術として、体当り専門部隊を編成するよう、上官に意見を具申したのである。
この意見具申は、他の者からの同様な提案とともに、海軍によって検討された結果、 同年八月海軍航空技術廠で、特攻機桜花の設計、製作が開始されることになった。 そして、十月に桜花部隊として、第七百二十一航空隊が創設されると、岡村大佐はその司令に任命されたのである。
だが、桜花を抱いて出撃した一式陸上攻撃機の多くは、アメリカ艦隊に接近する以前に、 敵戦闘機隊の迎撃を受けて撃墜され、桜花の搭乗員たちは、ほとんど戦果をあげることができずに、南方洋上に散っていった。
様々な飛行機による特攻の中でも、桜花による肉弾攻撃は、際立って特異な性格をもっていたが、 岡村大佐自身は、昭和二十年八月十五日の敗戦に直面して、自決した。
三菱重工業設立
引用合併の準備は急速に進み、昭和九年三月二十日、 三菱造船と三菱航空機の間で、合併契約の調印が行なわれ、まず四月十一日に、三菱造船(戦車部門の東京製作所を含む)が 社名を三菱重工業株式会社と改めた。
そして、六月十三日、三菱飛行機は三菱重工業と合併して、一つの会社となったのである。
三菱は、造船、航空機、戦車の軍需生産部門において、いちだんと資本を集中して経営基盤を強固にし、 その後の日本の軍需工業発展の中軸となる基礎を築いたのだった。
戦争と軍需産業
引用日中戦争の勃発が、三菱重工名古屋航空機製作所の姿をいかに変えたかは、 工場の建築面積が、昭和十一年には十万平方メートル弱だったものが、 十二年から十三年にかけての増築で二倍以上の二十万八千平方メートルになり、従業員数も、 十一年の七千六百人から、十二年には一万三千四百人、十三年には一万八千百人へと急増した数字が、 何よりもよく物語っている。
シェンノートのゼロ戦報告
引用零戦の情報は伝えられていた。 中国空軍の指導に当っていたアメリカ人の退役少将クレア・L・シェンノートは、重慶上空などに現われた零戦の写真つきで、 零戦の空戦性能に関する詳細な報告書を、再三にわたり、アメリカに送っていたのだ。 シェンノートは、この報告書の中で、零戦の恐るべき性能について、厳しい警告を発していた。
だが、各国の高級将校たちは、日本がそんな優れた戦闘機を持っているはずがない、 シェンノートの報告は、お粗末な中国人パイロットたちが、自らの弱さを覆い隠すために大袈裟に騒いでいる戦闘報告を、 そのまま鵜呑みにしたもので、信ずるに足りないとして、一笑に付していたのだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。