「一下級将校の見た帝国陸軍」
参考書籍
著者: 山本七平(やまもと・しちへい)
発行: 文藝春秋(1987/08/10)
書籍: 文庫(345ページ)
定価: 円(税込)
初版: 朝日新聞社(1976/12)
補足情報:
「帝国陸軍」とは一体何だったのか。この、すべてが規則ずくめで超保守的な一大機構を、 ルソン島で砲兵隊本部の少尉として酷烈な体験をした著者が、戦争最末期の戦闘、敗走、そして捕虜生活を語り、 徹底的に分析し、追及する。 現代の日本的組織の歪み、日本人の特異な思考法を透視する山本流日本論の端緒を成す本である。(裏表紙)
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徴兵回避の正攻法
引用一同は総立ちとなり、歓声をあげてこの珍客を迎えたのだが、 彼は手をあげてみなを制し、公用外出の途中の寄り道だからほんの一分ほど、といって、 立ったまま次のように言った。 彼は、アメリカなら良心的徴兵拒否の権利が認められる、クエーカーの二代目だと言われていた。
「兵役については自分は随分悩み苦しんだ。 みなには、理由を説明する必要はないであろう。 そのとき私はある人から衛生兵を志願しろと言われた。 傷ついた者、病める者を差別なく治療し助けることは罪ではない。 堂々と徴兵を拒否するなら別だが、それができないなら、卑劣な詐術を使った徴兵逃れはするな。 それは何と言いわけしようと、同胞の苦しみから自分だけは逃れたいという卑怯な行為だ。 苦しみをとめることができないなら、共に苦しみつつ、できる限り同胞を救うべきだ。 みなも、軍隊にとられたら、必ず衛生兵を志願するように・・・・・・」と言って彼は、 手短に要領よく志願の形式と実際上の注意を話すと、身を翻して、風のように去った。 思い掛けぬ一瞬だった。 私には彼が非常に颯爽と見えたので、同じ道を行こうと思った。 だがそれは、彼のように、苦悩のすえ自ら選択した道ではなかったから、 「まだまだ先だ」で、漫然とそう思っていたと言った方がよい。
彼が触れた徴兵逃れも、そのさまざまな詐術も、当時は「ある種の常識」であった。 その中で最も的確な方法は、役場や区役所の兵事係に多額のワイロを送り、“特殊技術者”と登録してもらうこと、 いまでいえば一種の脱法的“裏口脱営”だということも知っていた。
「ア号教育」開始
引用奇妙なこと! 忘れもしない、それは昭和十八年八月の中ごろだった。 雨の日である。教壇に立った区隊長K大尉は、改まった調子で次のように言った。
「本日より教育が変わる。対米戦闘が主体となる。これを『ア号教育』と言う」と。
驚きと、疑問の氷解と、腹立たしさとが入り混じった奇妙な感情のうねりが、一瞬、 私の中を横切った。私は内心で思わずつぶやいた、「欠だったのだ、これが最大の欠だったのだ」。 戦争が始まったのは言うまでもなく十六年十二月八日であり、十八年には、 二月にガダルカナル島からの撤退、五月十九日にアッツ島の玉砕があり、 欧州では米英軍がシチリアに上陸している。 危機は一歩一歩と近づいており、その当面の敵は米英軍のはず。 それなのにわれわれの受けている教育は、この「ア号教育」という言葉を聞かされるまで、 一貫して対ソビエト戦であり、想定される戦場は常に北満とシベリアの広野であっても、南方のジャングルではなかった。
なぜであろうか。われわれはいろいろな想像をした。 日本はすでに南方を押さえたから、警備兵力を残して主力はすでに満州に転用され、 日独伊軍事同盟のよしみで、スターリングラードを攻めあぐねているドイツ軍を助けるため、 シベリアへ向けて総攻撃を開始する、そのためわれわれは専ら対ソ戦の教育訓練をうけているわけであろうか、と。 そう思えばそう思えないこともない。 中隊長クラスはみなノモンハンの生き残り、 隣の中隊長は『ノロ高地』の著者草葉少佐(事変当時は大尉)である。 そして教育上の実例として用いられるのが、すべてノモンハンにおける体験であった。
【中略】
「ア号教育」という言葉と同時に、確かにすべては変わった。 ただ「精神力」という言葉への遠慮は、奇妙なことにある程度、強調にかわった ―それがさらに役立たない相手だったはずだが。 そしてこの教育の転換と同時に、それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、 一つの確信へと固まっていった。 それは「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」という実に奇妙な事実である。 これは「事実」なのだ。そして何としても理解しがたい事実なのである ―というのは対米開戦を強硬に主張したのが陸軍であって海軍ではないのだから―。
【中略】
「驚きと、疑問の氷解と、腹立たしさ」と私は書いた。 驚きとは、アメリカと戦うつもりの全くなかった陸軍が強引に全日本を開戦へと持ちこんだことであり、 疑問の氷解とは、なぜわれわれが対ソ戦の教育訓練をうけていたのかという疑問が解決したことである。 別にわれわれは、対ソ戦の要員ではなく、結局、それ以外のことは教える能力がないから、 今まで通りにそれを教えていたにすぎなかった。 K区隊長は、良い意味での、まことに軍人らしいさっぱりした人であり、 ジメジメしたインテリ臭がなく、少年のような明るさのある人だった。 彼は率直に言った。「『ア号教育』と言っても、何をどう教えたらよいのか、 実はさっぱりわからんのだ」と。
青年将校の驕慢
引用当時はまだ大学出が総じてエリートの時代であり、 特に帝大出は彼らの劣らずエリート意識が強かったが、 しかし多くの者は社会に出た途端に、一度は強い挫折感を味わうのが普通であった。 日向方斉氏は入社早々新聞の社内配達をやらされてくさったと聞くが、これらは「私の履歴書」によく現れる体験である。 足が地につかない「宙に浮いた」エリート意識を打ちくだき、本当のリーダーを育てるのに、 これは良い方法かもしれない。
だが軍隊にはこれはなかった。 少尉に任官すれば、新聞配達どころか逆に当番兵がつき、身のまわりの世話はすべてやってくれて、 殿様のようになってしまう。 演習から帰った将校が将校室の机に腰を掛け、足を椅子の背に乗せ、顎をしゃくって「オイ当番」と言えば、 乗馬長靴を脱がしてくれる。 これを見た老召集兵が、「二十二、三の若僧があんな扱いをうければ狂ってしまう、 二・二六が起こるのはあたりまえだ」と嘆じたことは『私の中の日本軍』で記したが、 軍隊ではこれが普通であり、階級が上がるほどひどくなって、将官ともなればこれが徹底していた。
バターン死の行進
引用彼が不意に言った。 「違いますぜ、バターンのときは違いましたぜ」。 私は驚いて彼の顔を見た。当時「バターン」は禁句だった。 バターンの死の行進に、何らかの形でタッチしたなどとは、絶対だれも言わなかったし、ききもしなかった。
彼は、一兵卒から叩きあげた老憲兵大尉であり、あの行進のとき米軍の捕虜を護送した一人であった。 彼は言った、あの行進のことはだれも絶対口にしない。 だからあなたは何も知らないだろう。 石の雨ではない花の雨が降ったのだ。 沿道には人びとがむらがり、花を投げ、タバコを差し出し、渇いた者には水を飲ませ ―それがどこまでもつづく。追い払っても追い払ってもむだだった。
「全く、あたまに来ましたよ、あれにゃ。 でもわかるでしょ。彼らだって別に、いつも敗者に石を投げ、勝者に土下座するわけじゃありませんぜ」
引用昼食の時間が来た。 閣下たちは三々五々、歩いて来た。 だがその日には、いつもと違った一人の新顔が見えた。 その人は、米軍のジャングル戦用迷彩服を着ており、それが奇妙によく似合った。 彼は、あたかも収容所も鉄柵も軽蔑するかの如く傲然と見下し、それらの一切を無視するかの如く、 堂々と歩いてくる。 その態度は、終戦前の帝国軍人のそれと、寸分違わなかった。
丸い眼鏡、丸刈りの頭、ぐっとひいた顎、ちょっと突き出た、つっかかるような口許、 体中にみなぎる一種の緊張感―「彼だな」私はすぐに気づいた。 それは第十四方面軍参謀長武藤章中将その人であった。 そして彼の姿と同時に、反射的に四つの言葉がよみがえった。
「統帥権、臨時軍事費、軍の実力者、軍の名誉(日本の名誉ではない)」。 軍部ファシズムをその実施面で支えたものは何かと問われれば、私はこの四つをあげる。 そして私にとってこの四つを一身に具えた体現者は彼であった。
日本陸軍の恐怖
引用満州事変から、 いつ果てるとも知れず延々とつづく戦争、この出口の見えぬトンネルのような状態は、 【中略】 実に強い厭戦気分を 国民の中に醸成した。軍人が、何かがあれば「軍民離間は利敵行為」といって目を怒らし、 陸海軍両省がすでに昭和八年に「軍部批判は軍民離間の行動」と声明したこと自体、 軍と民が当時すでに離間していたことを自ら認めたにすぎない。 ではもしこの批判が徐々に議会に反映し、議会が臨時費(戦費)を否決したらどうなる。 軍の傀儡政府は議会を解散するであろうが、総選挙・新議会となって、 その新議会がまた臨軍費を否決したらどうなる。 終戦内閣か? もう一度二・二六か? これが倨傲な態度で国民を睥睨していた彼らが、 常にその心底に抱いていながら、絶対口にしなかった恐怖であった。
その恐怖を決定的にしたものは、二・二六で、 彼らはこの体験から、そのときは天皇が自分たちの側に立ってくれないことを 知っていたからである。 だが、 【中略】 彼らの恐怖はすでに去っていた。 彼らはその事態に至らせぬため、あらゆる手段を使った。  【中略】 骨を抜かれた議会、すなわち翼賛議会は、すでにできていたのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。