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【テーマ・内閣成立史 01】 クリック 20世紀
●伊藤内閣Cの成立 (山県内閣Aの終焉)
日本のグランドデザインをめぐる、伊藤博文と山県有朋、二人の元老の対立がこの背景にはある。 超然内閣体制の継続を望む山県に対して、伊藤は議会政治こそ進むべき道と見定め、政友会を立ち上げたのだ。 当時首相の座にあった山県は、伊藤の構想を破綻させるため、 発足して間がなく準備不足の政友会と伊藤に政権を渡すことで、自身が攻勢に出る態勢を整えようと決意、内閣総辞職した。 こうして伊藤内閣Cは成立した。 ◎キングメーカー:山県有朋(首相、元老)
●桂内閣@の成立 (伊藤内閣Cの終焉)
山県の思惑どおり伊藤内閣Cはわずか半年あまりで崩壊。 その背景には、重い軍事費に悲鳴をあげる小国日本の財政状況があった。 いったんは元老井上馨に組閣命令が下ったものの、ついに元老の中から火中の栗を拾おうとする者は現れなかった。 ここに元勲内閣時代は終わりを告げ、遠隔操作の発想に基づく政権が日本政治史上に早くも出現する。 山県の“一の子分”桂太郎陸軍大将の首相就任である。こうして桂内閣@は成立した。 ◎キングメーカー:山県有朋、松方正義、西郷従道(以上元老)
●西園寺内閣@の成立 (桂内閣@の終焉)
日露戦争の内実と国民が抱く幻想のギャップが埋まることのないまま、講和会議は開催された。 軍事的にみても財政的にみても、ここでどうしても戦争を終わらせなければならない。 これ以上続けば、それは敗戦ではなく、国家の破滅を意味するかもしれなかった。 だが、そのことを国民は知らない。国民にそれを知らせることは、すなわちロシアに知らせることであり、 講和を遠のかせることであった。 巨額の賠償金や割譲地を求める世論がいよいよヒートアップする中、桂首相と政友会幹部の間に政権禅譲の密約が結ばれた。 桂が出した条件は、政友会が来るべき講和を支持することである。 伊藤を半島に追うことまでが密約されたかどうかはさだかでない。 戦争終結と韓国統監府設置を区切りとして桂内閣@が約束どおり総辞職。こうして西園寺内閣@は成立した。 ◎キングメーカー:桂太郎(首相)、原敬(政友会)
●桂内閣Aの成立 (西園寺内閣@の終焉)
西園寺・政友会政権が2年半にも及んだとき、総選挙での政友会の圧勝は山県やその“一の子分”である桂をあせらせるに十分な出来事だった。 赤旗事件はむしろ利用されたと見るべきだろう。 総選挙の1ヵ月ほどのち、原内相はまず、社会主義者取締りの甘さを責められ、次には西園寺首相の口から突然の辞意を聞くことになる。 社会主義者取締りの問題を天皇に吹き込んだのは山県だった。 原さえ抑えれば、内閣の命脈を絶つのは容易だということを彼なら当然知っていただろう。 山県“毒殺”説が当時からささやかれたゆえんである。 病気を理由に西園寺首相が辞意を公表。こうして桂内閣Aは成立した。 ◎キングメーカー:山県有朋(元老)
●西園寺内閣Aの成立 (桂内閣Aの終焉)
藩閥政治家である桂首相は、議会を乗り切るために政友会の力を必要とする。 伊藤という庇護者を失った政友会は、藩閥と手を結ぶことで政権獲得に道がひらける。 このような状況の中で、桂内閣Aと政友会はすでに提携関係に入っていた。 韓国併合、不平等条約改正を成し遂げた桂は、すでに押しも押されもせぬ政界の第一人者となっていた。 日英同盟Aの改定を花道に桂内閣Aが総辞職。既定方針どおり西園寺内閣Aは成立した。 ◎キングメーカー:桂太郎(首相)
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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