【テーマ・内閣成立史 04】 クリック 20世紀
●加藤(高)憲政会単独内閣の成立 (加藤(高)護憲三派内閣の終焉)
長年の宿願である普選をなんとか実現すると、共通の目標を失った護憲三派内閣にきしみが生じ始めた。 田中義一予備役陸軍大将を新総裁に戴いた政友会が倒閣を図り、そのとおり内閣は倒れた。 政友会所属の岡崎農相、小川法相が審議中の税制整理案に反対し、辞表の提出も拒み、閣内不統一に追いやったのである。 だが、西園寺はこの政友会のやり方を不穏当とみて、加藤高明を再度首相に推薦した。 こうして、政友会が政権から離脱し(革新倶楽部は一部を除きすでに政友会に合流)、加藤(高)憲政会単独内閣は成立した。 ◎キングメーカー:西園寺公望(元老)
●若槻内閣@の成立 (加藤(高)憲政会単独内閣の終焉)
加藤高明首相は、護憲三派内閣の首相に就任したとき、すでに健康を害していた。 大命再降下で一時は元気を取り戻したものの、ついに病床から立つことかなわず急逝、憲政会単独内閣は成立わずか半年で総辞職した。 西園寺は、憲政常道論の立場から、また懸案の財政問題を、大蔵官僚出身で二度の蔵相経験を持つ若槻礼次郎にゆだねたいとの考えから、 前内閣の副総理格だった彼を次期首相に推薦した。こうして若槻内閣@は成立した。 ◎キングメーカー:西園寺公望(元老)
●田中(義)内閣の成立 (若槻内閣@の終焉)
政界は憲政会、政友会、政友本党の三党鼎立状態で混沌としていたが、与党憲政会と政友本党との提携が成り、落ち着きを取り戻すかにみえた。 孤立した政友会は政府・与党への攻撃を強めた。そこで飛び出したのが片岡蔵相の失言である。 国会の質疑で、誤って渡辺銀行が破綻したと述べたため、取り付け騒ぎが起こり、金融パニックが始まった。 影響はかねて不安視されていた台湾銀行にも及んだ。 政府は急ぎ台湾銀行救済案の可決をめざした。 国会はすでに閉会となっていたため、この法案は緊急勅令として枢密院に諮られた。 倒閣をめざす政友会は枢密院に猛烈に働きかけた。 枢密院のドン伊東巳代治は、かねて幣原外相の国際協調外交、特に対中政策に強い不満を持っており、この緊急勅令案を否決してしまった。 若槻には、のちに浜口がロンドン海軍軍縮条約で枢密院をねじ伏せたようなたくましさはなく、あっさり総辞職した。 若槻の意志薄弱に失望していた西園寺は、憲政常道論の立場で政友会に政権を渡すことにした。 こうして田中(義)内閣は成立した。この間、金融恐慌は拡大の一途をたどっていた。 ◎キングメーカー:西園寺公望(元老)、牧野伸顕(内大臣)
●浜口内閣の成立 (田中(義)内閣の終焉)
1年以上前に起こった満州某重大事件の責任者処分がようやく決まり、田中首相がこれを上奏したところ、天皇の逆鱗に触れた。 それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと、温厚な昭和天皇の言葉とも思えぬ激語が田中首相を襲った。 天皇の怒りはついに解けず、内閣は総辞職した。 憲政常道論から、西園寺は野党第一党民政党の総裁浜口雄幸を次期首相に推薦した。 即日大命降下、即日組閣が完了、こうして浜口内閣が成立した。 ◎キングメーカー:西園寺公望(元老)、牧野伸顕(内大臣)
●若槻内閣Aの成立 (浜口内閣の終焉)
日本経済に旧平価による金解禁という劇薬を投じ、ロンドン軍縮を断行した浜口首相がテロに倒れた。 いったんは押して登院したものの、道半ば、ついに内閣を投げ出さざるをえなかった。 ロンドン軍縮を「浜口の偉大な功績」とたたえた西園寺は、人材の枯渇を嘆きつつ、 テロによって政権が動いてはならない、経済問題を金解禁を行った民政党によってしめくくってほしいという考えから、 再び若槻を首相に推薦した。こうして若槻内閣Aは成立した。 ◎キングメーカー:西園寺公望(元老)
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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