【テーマ・内閣成立史 05】
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犬養内閣の成立 (若槻内閣Aの終焉)
政府の不拡大方針にもかかわらず拡大を続ける満州事変と、三月事件に続いて起こった十月事件が、 気弱な官僚出身政治家若槻礼次郎を脅かしていた。
政権運営に自信を失った若槻首相は、政友会を取り込むことで内閣の求心力を増そうと考え、この工作を安達内相に指示した。 安達はこれを推進した。だが安達の動きを知るや、井上蔵相幣原外相が強硬に反対した。 政友会に発言権を与えれば、井上財政、幣原外交は崩壊するというのがその主張だった。 若槻首相は協力内閣構想をあっさり放棄した。
協力内閣を作りたいと言ったのは首相、あなたではないかと安達は怒った。 閣議をボイコットし、辞表の提出も拒んだ。若槻内閣Aは閣内不統一で総辞職した。
西園寺は、井上財政と幣原外交に未練を残しつつ、若槻への失望を禁じえず、憲政常道論の立場から政友会総裁犬養毅を首相に推薦した。 こうして犬養内閣は成立した。
◎キングメーカー:西園寺公望(元老)
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/09/24   政府、不拡大方針を声明
1931/10/17   十月事件 (桜会によるクーデター未遂)
1931/11/18   日本政府、満州への増派を閣議決定
1931/11/21   安達内相、政友・民政協力内閣を主張 (声明発表)
1931/12/11   若槻内閣A総辞職 (安達内相の辞任拒否で閣内不統一)
1931/12/13   犬養内閣成立 (首相:犬養毅
斉藤内閣の成立 (犬養内閣の終焉)
歴史はすでにテロの時代に入っていた。 浜口首相狙撃事件、三月事件十月事件血盟団事件に続いて起こった五・一五事件が、 犬養首相の命を奪い、その内閣を崩壊させた。 弁舌に生きた犬養の最後の言葉は「話せばわかる」、だがその訴えは「問答無用」の一言で打ち砕かれた。
西園寺は、鈴木侍従長の手から、昭和天皇の次期首相に関する「希望」7ヵ条を受け取った。異例のことだった。 その4番目には「ファッショに近きものは絶対に不可なり」とあり、天皇の憂慮の深刻さを物語っていた。
テロによって政権が動くことはない、だから次も自分たちと信じた政友会は、 早々に後継総裁を鈴木喜三郎に決定し、組閣命令を待っていた。だが、西園寺は迷いに迷った。 憲政常道論になお未練を残しつつも、鈴木が後継首相にふさわしいとは思えなかった。 司法官僚出身で天皇親政論者の鈴木は、西園寺から見れば「ファッショに近きもの」そのものだった。
西園寺は、朝鮮総督として実績のある海軍の重鎮斉藤実を後継首相に推薦した。 斉藤は国際協調論者でもあった。こうして政党政治は終わり、斉藤内閣が成立した。 この内閣には、政友会から高橋是清三土忠造鳩山一郎が、民政党から山本達雄、永井柳太郎が入閣した。
◎キングメーカー:西園寺公望(元老)
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/02/09   血盟団事件@ (井上準之助暗殺)
1932/02/20   総選挙[18] (政友会301、民政党146、無産諸派5)
1932/03/05   血盟団事件A (団琢磨暗殺)
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/16   犬養内閣総辞職
1932/05/20   鈴木喜三郎、政友会総裁F就任
1932/05/26   斉藤内閣成立 (首相:斉藤実
岡田内閣の成立 (斉藤内閣の終焉)
天皇に言われるまでもなく西園寺自身ファッショが嫌いで、右翼国本社の総帥平沼騏一郎を忌避していた。 東郷などはすでに五・一五事件の直後、次期首相に平沼を推していたが、 西園寺は枢密院副議長だった平沼の議長昇格さえ拒否し、宮内大臣だった一木喜徳郎を議長に就けた。 西園寺を中心とした宮廷勢力と平沼を中心としたファッショ勢力の暗闘がこうして始まった。
帝人事件で財界との癒着を攻撃され斉藤内閣は倒れた。 事件は倒閣のために仕組まれたワナだったが、それが明らかになり、司法ファッショと呼ばれるのはのちのことである。 背後にはもちろん平沼ら反宮廷勢力がいた。
西園寺は屈しなかった。新たに重臣会議を設け、ここで後継首相を推薦するという形式をとるとともに、 これを切り回して岡田啓介の推薦に成功した。このとき岡田は海軍大臣。 ロンドン軍縮の締結に積極的だったリベラル派である。
民政党の若槻総裁はこの内閣に協力することを約束したが、政友会鈴木総裁はこれを拒否した。 民政党からは町田忠治、松田源治が入閣、政友会からは床次竹二郎、山崎達之助、内田信也が入閣したが、 三名は同時に政友会から除名された。こうして岡田内閣は成立した。
◎キングメーカー:西園寺公望(元老)、重臣会議
1934/01/17   時事新報、「番町会問題をあばく」連載開始 (→帝人事件)
1934/02/09   中島商工相辞任 (足利尊氏論で)
1934/03/03   鳩山文相辞任
1934/04/18   帝人事件発覚
1934/07/03   斉藤内閣総辞職
1934/07/04   西園寺公望、首相経験者・内大臣・枢密院議長と後継首相について協議
1934/07/04   岡田啓介に組閣命令
1934/07/07   鈴木(政友会)総裁、岡田内閣への入閣を拒否
1934/07/08   岡田内閣成立 (首相:岡田啓介
広田内閣の成立 (岡田内閣の終焉)
二・二六事件が岡田内閣を吹き飛ばした。一時は岡田首相の死亡さえ伝えられたほどである。
西園寺は切り札を切る決意をした。近衛文麿である。 だが、肝心の近衛は健康上の問題を理由に首相就任を拒んだ。 あんたが健康のことをいうんなら、八十八歳のこち(私)はとないなりますんや、と西園寺は激怒したが、 近衛の意思は固くどうにもならなかった。
近衛にはふられ、人材払底に悩む西園寺は、宮廷グループのいずれか(諸説あり)から、 広田外相はどうかと提案を受け、これに乗った。 近衛広田説得に動き、話はとんとん拍子に進んだ。
だが、これに陸軍が立ちはだかり、未曾有の大組閣干渉が行われた。 広田は譲歩に譲歩を重ねた。こうして、ようやく陸軍のお許しを得て広田内閣は成立した。
◎キングメーカー:西園寺公望(元老)、重臣会議
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/02/29   戒厳司令部、「兵に告ぐ」ラジオ放送
1936/02/29   戒厳部隊、討伐行動開始 (→反乱軍帰順)
1936/03/04   近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1936/03/05   広田弘毅に組閣命令
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
●宇垣内閣の不成立 (広田内閣の終焉)
議会には陸軍の横暴に対する不満がわだかまっていたが、浜田国松議員が「割腹問答」で寺内陸相から一本取り、 ようやくわずかに溜飲を下げることができた。
やりこめれた寺内陸相は収まらなかった。広田首相に議会の懲罰解散を強硬に要求した。 広田は往年の若槻礼次郎を髣髴とさせる気力のなさで、あっさり政権を投げ出した。 彼はすでに8ヵ月前に軍部大臣現役武官制の復活を許していた。
人材が底をつく一方、後継首相の条件はいっそう厳しいものになっていた。陸軍を抑えられるのは誰か。 西園寺宇垣一成予備役陸軍大将を後継首相に推薦する腹を固めた。こうして宇垣に組閣命令が下った。
陸軍は、石原莞爾を中心に、宇垣首班を拒否した。 タテマエの理由は三月事件に関与した宇垣は不適任というものだったが、 ホンネでは、もっと御しやすい人物を首相に据えたいと考えていたのだった。
軍部大臣現役武官制が復活する前なら、予備役の宇垣が陸相を兼任するなどして組閣することも可能だったが、 今は陸軍に一致して拒否されれば、陸相が得られず、内閣を成立させることができない。 後輩たちからの拒絶にあった宇垣は、個人的な人脈を頼りに陸相獲得工作を行ったが、 ついに現役官僚の壁を破ることはできなかった。 宇垣は最後に天皇の力にすがろうとしたが、これもかなわず組閣を断念した。 こうして宇垣内閣は不成立に終わった。
ちなみに、石原はのちに「宇垣反対は千慮の一失であった」と吐露している。
◎キングメーカー:西園寺公望(元老)、重臣会議
1936/05/18   軍部大臣現役武官制復活
1937/01/21   浜田国松「割腹問答」
1937/01/21   寺内陸相、広田首相に解散を要求
1937/01/23   広田内閣総辞職
1937/01/25   宇垣一成に組閣命令
1937/01/29   宇垣内閣流産

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