【テーマ・日露戦争史 04】
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●2月7日
2月7日は、日露国交断絶の翌日であり、同時に実質的な開戦の前日にあたる。
この日を両国の関係者がどんな思いで過ごしたかを知ることは、日露戦争とは何だったかを知る重要な手がかりになる。 ここでは、特にロシア側を中心にこの日の様子をみてみよう。
ロシアの首都ペテルブルクでは、ラムズドルフ外相が、 日本の攻撃を受けることではなく、偶発的な軍事衝突が戦争に発展することを心配し、 これを避けるための措置を講じていた。
旅順では、アレクセイエフ極東総督がラムズドルフからの連絡を受けて、平静を装い、日本を刺激しないよう努めていた。 日露の国交断絶については少数者にだけ伝え、しかも口外を禁じた。 少数者の一人太平洋艦隊司令長官スタルク中将は警戒強化を主張したが、これも抑えた。
一方、町では日本人商店がいっせいに閉店セールを行っており、ロシア人たちが特売品にむらがっていた。
仁川では、「ワリャーグ」艦長が疑念を払拭するため、上陸して京城(ソウル)のロシア公使館に赴いていた。 彼は、すでに前日、英仏などの艦長たちから日露国交断絶のうわさを聞いて、 京城(ソウル)の公使館と旅順の極東総督府に問い合わせの電報を打ち、その反応にかえって疑念を募らせたのだった。
公使は彼にこう答えた。「実は、この一週間、わが公使館には本国からも旅順からも一本の電信も届いていない」  たしかに彼自身が旅順に打った電報にも答えはなかった。 日本側による妨害の結果にちがいないという彼の推測は当たっていた。
日本では、仁川の「千代田」艦長村上格一からの悲鳴のような先制攻撃許可要請に、山本海相が自ら返電を出していた。 開戦意図の秘匿と国際法の遵守を求めるこの至急電には、攻撃されたら潔く撃沈しろという直截的な表現はなかったが、 受け取った村上が、その含意を見落とすことはなかっただろう。
連合艦隊はなお洋上を進んでいる。
●「千代田」脱出
瓜生艦隊から仁川を脱出して合流せよとの命令を受けた三等巡洋艦「千代田」は、2月7日午後11時30分、 静かに錨を上げ、夜陰に紛れて仁川脱出を敢行した。ロシア艦の主砲の鼻先をかすめながらの脱出行だった。
8日午前8時30分、「千代田」は仁川沖で瓜生艦隊と合流を果たし、村上艦長は旗艦「浪速」に赴いて仁川港の様子を報告した。
瓜生艦隊の最大の関心は「ワリャーグ」「コレーツ」の在否だった。
連合艦隊はバルチック艦隊の出現までに、旅順とウラジオストックの敵海軍兵力を無力化しなければならない。 しかもそれは戦力ダウンをきたすことなく達成されなければならない。 瓜生少将も彼の参謀たちも、また村上大佐も、このことを十分すぎるほどに承知していた。 だから、「ワリャーグ」「コレーツ」を旅順に合流させることなく叩くということが、彼らの関心の大部分を占めていた。
敵2艦の仁川停泊を確認した瓜生艦隊は「千代田」を一時指揮下に置き、これを先頭に立てて仁川に向かった。
●「開戦」
2月8日午後3時40分、ロシアの砲艦「コレーツ」が、旅順と連絡をとるため仁川を出港した。
午後4時20分、仁川に向かう瓜生艦隊は前方に「コレーツ」を発見。
瓜生艦隊は「千代田」を先頭とする単縦陣に、水雷艇隊を併走させていた。 あわれな「コレーツ」はその間を進む形になった。
このとき、もちろん日露両国はまだ戦争状態にはない。 当然「コレーツ」には交戦の意思はない。 この不運な遭遇を努めて平静にやりすごそうと、速度、方向とも変えず、前進を続けた。 まず「千代田」とすれちがい、続いて「高千穂」「浅間」ともすれちがった。 「浅間」のあとには三隻の輸送船が後続している。
そのとき、日本の水雷艇が方向を転じ追尾を開始した。
午後4時33分、追尾を受けた「コレーツ」は仁川帰還を決意し、回頭を開始した。
「コレーツ」は突如回頭をはじめた、とみた水雷艇隊は、それを攻撃の準備動作と感じた。 午後4時34分、回頭中の「コレーツ」に水雷艇「雁」が魚雷を発射。これが実質的な日露「開戦」だった。
1904/02/08   陸軍先遣隊、仁川上陸開始
ほうほうの体で逃げ帰った「コレーツ」を追って瓜生艦隊は仁川港に入った。 同盟国イギリスをはじめ諸外国の軍艦が停泊するこの港で戦闘を続行することはできない。戦隊の各艦に「打ち方止め」が命じられた。
瓜生少将は6隻の巡洋艦に港外待機を指示したあと、上陸可能と判断、陸軍先遣隊に「速やかなる揚陸」を要請した。
●旅順奇襲
2月8日午後6時頃、仁川では上陸の準備が進められていたが、一方、連合艦隊主力は、旅順沖の最終集合地点に結集していた。
参謀秋山真之のプランに従い連合艦隊は、ここから魚雷を抱いた駆逐艦16隻を出発させ、旅順・大連夜襲攻撃を行う。 その意図は、この奇襲攻撃により敵艦隊の戦力を大幅ダウンさせ、来るべき艦隊主力による決戦に有利な状況を作ろうというものだった。
午後7時50分、駆逐艦隊は目的地に出発した。
1904/02/08   連合艦隊の駆逐艦隊、旅順口のロシア艦隊を夜襲攻撃
この日、ロシア暦1月26日はギリシア正教の「マリア祭」に当たっていた。 これは聖母と同じ名前の女性を祝福するもので、この夜は旅順のあちこちでもパーティーが開かれていた。 付け加えるなら、太平洋艦隊司令長官スタルク中将の妻も聖母と同じ名前を持っていた。
おまけに、アレクセイエフ総督のありがたい配慮のおかげもあって、ロシア駆逐艦は灯火を明々と照らして哨戒にあたっていた。 旅順に向かう駆逐艦隊はこのため敵艦のありかをやすやすと知ることができた。
だが、結論を言えば、これは連合艦隊に幸いしなかった。 夜の海を隠密行動で進む駆逐艦隊は、敵艦を発見して驚き、陣形を乱し、ついにこれを復元できなかった。 そのため、各艦はてんでばらばらに旅順に突入し、思い思いに奇襲雷撃を加えることになった。 敵艦隊に広くダメージを与えはしたが、ついに1隻も撃沈できずに終わった。
奇襲はみごと成功し、「マリア祭」を祝っていたロシア人たちを大いに慌てさせ、戦艦など3隻を大破させたが、 戦略目標から言えば、作戦は完璧な失敗だった。 大連に向かった駆逐艦隊はついに獲物を発見することができずに帰還した。
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